『悪魔が来たりて』

 私は焦っていた。新薬制作が完全に行き詰まっていた。このまま手をこまねいていてはライバル会社に出し抜かれてしまう。これまで積み上げてきた実績、信頼、全てが水の泡だ。それだけは避けたい。けれど、何を試してもうまくいかないのだ。

 今まで研究してきたのは何のためか。今ここで成果を出すためではないのか。このまま無駄に終わるのか。いっそ、このまま全てを放り投げて楽になってしまいたい。そんな考えが脳裏を過ぎるほど私は追い詰められていた。

 椅子の背もたれに寄りかかったところ、ふと一冊の本が目に留まった。ゲーテの『ファウスト』の日本語訳だった。雑多に積まれた資料の上、まともに読んだこともないのに何故か一際目を引かれた。研究員の誰かが置いていったのだろうか。読書で脳が刺激されればいい気分転換になるかもしれない。手に取り、何気なくページを捲ったその時だ。

「よお、俺を開いたな! 何かお悩みかい? 俺でよければ相談に乗るぜ」

 呆気に取られた。声。どこから? 部屋には私一人だ。他に誰もいない。タイミングを考えると、本が喋った? 幻聴か? 根を詰めすぎたかもしれない。思わず目頭を押さえる私に、本は構わず饒舌に語りかける。

「俺はこの本に棲んでいる悪魔だ。俺と契約すれば何でも願いが叶い、幸せの絶頂に達することができるぜ。ただし、代償は解るな?」

 成程、悪魔との契約という訳か。では、これは夢に違いない。夢であれば、何を言っても構うまい。やはり疲れが溜まっていたのだろう、判断力が鈍っていた私は本の悪魔とやらに自身の身の上を語っていた。

「私は製薬会社に勤めている者だ。今は新薬の開発を進めているんだが、どうにもうまくいかない。今月中に成果を出さないと政府からの助成金も打ち切られ、ライバル会社に出し抜かれて我が社の評判は地に落ちてしまうだろう。それだけは避けたい。何か、良いアイディアをくれないか」

「わかった。アンタの望みを叶えてやろう」

 それきり、本が喋ることはなかった。そこでふと我に返る。今までいったい何をしていた? どうやら白昼夢を見ていたようだ。本の中の悪魔だって? 馬鹿馬鹿しい。悪魔に頼るくらいなら神社に赴いて神頼みするべきだ。

 手の中の本を一読することなく机に放り投げた、その時だ。途端に妙案が降って湧いた。あの成分を足して、ついでにあの工程を減らしてみればどうだろうか? 私は寝食も忘れて実験に没頭した。そして、ついに成し遂げた。

 新薬は無事に完成し、莫大な金を手に入れた。あれよあれよという間に私は成功していた。これも全てあの夢のおかげだ。私は散らかった研究室を掻き分けてあの本を探した。

「お前のおかげで私は名誉を手にした。夢だろうが、どうしても礼を言っておきたかった。ありがとう」

 埋もれていた本をどうにか探し当て、胸の前へ拾い上げる。夢と現実の境すら定かではないが、この本を開いたことがきっかけで成功を掴んだことに間違いはない。礼は述べておくべきだ。すると、

「夢なんかじゃあないし、礼にも及ばないさ。言っただろ、俺はどんな願いも叶えてアンタを幸せにしてやれるんだ。いい女だって紹介してやれる」

 私以外誰もいない研究室に第三者の声が響き渡る。以前に一度聞いた声。二度目ともなると私は驚かなかった。本が喋った、あり得ざる事実をすんなりと受け入れられた。

 それにしても、女か。新薬開発に夢中になるあまり、妻ともすっかりご無沙汰になっていた。そして、この本の効果は既に実証済みだ。想像して、つい顔がにやけた。

「どうせなら、若くて美人な女がいい」

「任せろ、お前好みの女をあてがってやる」

 本が答える。顔があれば私と同じようににやけていることだろう。まるで長年付き合ってきた悪友のような親しみやすさを感じていた。

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