私と先輩

改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )

第1話

 「沼らせ女」――先輩たちはそう呼んでいた。


 私の指導役である先輩も、そう呼んでいる。先輩の名前は立浪たつなみ宗太郎そうたろう。歳は私の二つ上。長身の、いわゆる「細マッチョ」系で超イケメン。それなのに、スーツもネクタイもいつも同じもの。ダサい。これは私がなんとかしてあげないと。


月下つきしたさん? おーい、月下つきしたかおりさん、聞いてます?」


「あ、はい! すみません、先輩」


「しっかりしろよ。異動になったばかりで出くわした初の大仕事だろ。滅多に無いよ、こんなチャンス」


「大丈夫です。分かってます」


「何が『分かってます』だよ。この飛燕ひえん総一郎そういちろうさんは業界の有名人で交友関係も広いから、大変だぞ」


 私が分かっているのは、あなたの視線。立浪先輩はさっきから私の胸元や腰の辺りに視線を動かしている。親切にデータベースの使い方を教えてくれるをして。


 でも、それは仕方ないだろう。私は一応、ダークスーツの上下でそろえてはいるけど、中のニットはVネックで、横にいる先輩の頭の位置なら私の胸の谷間が見えるはずだし、スカートだって結構タイトで少しだけ短めの物を穿いている。視線を向けるのは、立浪先輩がまともな男だという証拠。特に不快には思わない。


 それにしても、立浪先輩は独身だろうか。いや、同じネクタイばかりだし、結婚指輪もしていないから、独身だ。でも、どうして独身なのか。


 立浪先輩がプレーボーイだという噂は聞かない。むしろ女っ気が無いように感じられる。先輩の下に就いて十日ほどなので、確信は持てないが、性格異常者でもないはずだ。結局、仕事に打ち込んできたということか……。


「――ここのフォームに、飛燕さんの友人関係、取引関係、を入力していくんだ」


「その他……ですか?」


「要は女性関係だよ。男女の関係にあると思われる人物は、そこに入力すればいい」


「そこまで調べるのですね」


 小首を傾げて少し驚いた顔を作ってみたけど、本当に私が知りたいのは、先輩の女性関係。直接私のモノにできるのか、誰かから奪わなければならないのか。それが問題なの。


調べるんだ。素人か、おまえ」


 話に割り込んできたのは毒人参ドクニンジンだ。私は心中でそう呼んでいる。肝臓が悪いのか、赤ら顔に斑点状の染みを浮かべている。立浪先輩の先輩で、この部屋の主みたいな人だ。要は万年ヒラ。


漆原うるしばらさん、彼女はまだ使い方に慣れていませんので……」


「使い方に慣れていませんだあ? おまえらはパソコン世代だろうが。それにな、飛燕総一郎はベンチャー企業の社長で年収数千万の男だぞ。友人や取引先なんて調べていたら、こっちが泥沼にはまっちまう。女だ。そこに絞れ」


「最初から入力する情報を絞っていてはデータベースを使う意味が……」


 毒人参は強く机を叩いた。


「飛燕総一郎は、あんなに汚い沼に生きたまま沈められて殺されたんだぞ! 動機は怨恨えんこんに決まっているだろうが! 独身男が殺されて、動機が怨恨なら、犯人ホシは女だ。被害者ガイシャが油断する程れこんだ、文字通りの『沼らせ女』が犯人ホシなんだよ!」


 毒人参は立浪先輩の頭を強く叩いてから廊下に出ていった。


 立浪先輩は頭を掻きながら不満顔をしている。チャンスだ!


「すみません。私のせいで……」


「いや、君のせいじゃないよ。刑事として半人前の僕のせいさ」


 先輩は溜め息を吐いた。私はすかさず立ち上がる。


「私、お茶を入れてきます」


「あ、いや、ホントに大丈夫だから、気を使わないで」


 小走りで給湯室へと向かった私は、途中で立ち止まり、少しを空けてから振り返る。


「今の私はこれくらいの事しか出来ないので。それと……」


「――? どうした?」


「先輩は立派な刑事だと思います。私も先輩みたいな刑事を目指します!」


 一瞬だけ照れ笑いしてから可愛らしく敬礼。よし、うまく出来た。


 再び小走りで給湯室に向かった。途中の本棚のガラス戸に、こちらをじっと見つめる立浪先輩が映っていた。


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