ユー・ロジンとハル・シオンの遠近法

ユー・ロジンとハル・シオンの遠近法 -1

 どうっ! と腹の奥底に響く波の音がする。海は青いものだと勝手に思っていた。海と聞いたら、思い浮かべるのは、ハルの瞳だったからだと思う。静謐で、ときおりゆるやかな波が立つのだろうと。

 目の前の海は、雨風に荒れ狂っているせいで灰色に泡立っていて、白い波が絶え間なく崖の黒い岩肌を叩いていた。濡れそぼったフードを引っ張って、深くかぶる。愛馬のラッチュも、ずっと落ち着かないようにしていた。遠くで雷が鳴っている。

 急ごうとドラルさんが言う。もうつぎの街の城壁が見えていた。自分の前に座らせたテトに行くよと言って、ラッチュの腹を蹴る。雨のせいで足元は悪い。ラッチュは足の強い種ではあるけれど、転倒したらただでは済まない。慎重に足場を選んで、迅速に進む。

 街というより、村に近い、ちいさな街に入る。旅団の髪は便利なので、フードをおろして旅の途中ですと言うだけで、ある程度好意的に中に入れてもらえる。銅貨を数枚渡して、一番近くの宿屋を教えてもらう。


「このまままっすぐ進んで、三つ目の十字路で右に曲がった通りの、二つ目の建物が宿屋です。周りより大きな二階建ての建物なので、すぐわかるかと思います。一階は飯屋です。その通りに小間物屋やら服屋やら並んでます」

「ありがとうございます」

「どうやら嵐は長く居座るようですから、ゆっくり休むのがいいでしょう」

「そうなんですね。……なにかあっての嵐ですか?」


 門番が少し顔をしかめる。聞いてはいけないことだったかもしれない。

 ただ、そういういうことこそ、調べるのが重要だった。


「いえ、べつに、なにか探りたいわけではないんですよ。ただ、病人とちいさな子どもを連れているものですから、慎重になりたいなと思っただけで」


 穏やかな口調と表情を心がけながら、ポケットの中にほうり込んでいる銅貨を右手で探る。


「建物の中にいたら、それで大丈夫なんでしょう。きっと。おれたちみたいな流れものを入れてくれるだけで、感謝しているんです」


 本当ですと言いながら、銅貨を三枚、門番の手の中に握りこませる。お金は大事に使うべきというのが、生粋の商人でもあるおれの母の教えだった。


「……いえ……その……」

「海の嵐はひどいと話しには聞いていたんですが、ここまでとは思っていなかったんです。いつも通りなんでしょうか?」

「……強さは、ふつうです。ただ、その……長くなるだろうと。うちの魔女が」


 魔女。胸の奥がざわっと鳴る。


「……魔女さまがいらっしゃるんですね」

「ええ。……その、魔女の、拾ってきた子どもが、嵐の精に、好かれていて」


 黙って首をかしげる。そんな厄介な子どもをわざわざ拾って来たのは、なにか理由がありそうなものだけど。まあ、魔女の考えることなんて、おれには分かりっこない。


「数日中には、解決できると言っていました。……大丈夫です。お力のある方なので。すぐに嵐は去るでしょう」

「それならきっと大丈夫ですね。ご親切にありがとうございました。……ああ、ずいぶん汚してしまって、申し訳ありません」

「あ、いえ、大丈夫です。こんなむさくるしい場所なので、このくらい、いつものことです。どうぞお気をつけてください」

「いえ、本当にすみません。失礼します」


 濡れそぼって重たくなった外套から垂れた水と、泥で汚れた靴でできた自分の足跡をたどって、門の中にある小さな部屋から出て行く。同じ灰色の外套を着たザレルト翁に駆け寄る。その後ろにはテトとドラルさんが立っていた。


「手続き終わりました。宿屋の場所も教えてもらったので、行きましょう」

「ああ」

「じゃあ、おれが先頭で」


 テトが鞍にまたがるのを手伝ってから、自分も鞍上に乗る。ザレルト翁もドラルさんも馬に乗ったのを確認して、進みだす。城壁の門からまっすぐ伸びている通りは一応石が敷き詰められていて、そこから枝分かれする細い道は、ただ土を踏み固めているだけだった。家の扉は固く閉じている。いち、に、さんと十字路を数えて、周りの建物よりひょいと背伸びしているみたいな建物を目指す。

 あまりにも人通りがないので、店も閉じているんじゃないかと思ったけど、扉はあっさり開いてくれた。中はぽつぽつとランプがつけられている。


「すみません」

「はあい」


 奥の方から女の人の声がした。一階は飯屋と聞いたけど、おそらく酒場というのが一番近いのだろう。入口の左手には机と椅子がいくつかずつ並んでいて、その奥はカウンターになっている。カウンターの奥は酒瓶が並んだ棚があって、その横にはかまどや食器棚、扉が並ぶ。

 その扉から、小柄な女性が出てくる。店の人だろうと見当をつける。


「泊まりたいのですが。四人です。部屋は空いてますか?」

「ええ、はい、はい。大丈夫ですよ。何部屋でしょうかね」

「ええと……二部屋、二人ずつ」

「はい、大丈夫です。ちょっと待っててくださいね。外套を脱いでくださったら、座ってて結構ですから。部屋の準備をしましょうね」


 カウンターの羽根戸をあげて、女性がこちらに歩いてくる。お腹が大きい。妊婦だろう。入口の右手にある階段をよたよたのぼっていくので、少し不安になる。まあおれがどうこうできることじゃないので、黙って外套を脱いで、しずくを落とす。テトの服も脱がせて、まとめておく。寒かったのか、丸い頬が真っ赤だ。

 しばらくしたら女性が階段をゆっくり降りてきたので、見かねて手を差し出す。手すりもないし、案外急だし。おれより五歳くらい年上に見える女性が、あらと照れくさそうに笑う。


「すみませんね、大丈夫なんですよ。慣れてますから。奥の二部屋をどうぞ。お食事もここでされますか?」

「はい、できれば」

「大歓迎です。前金として半額はらっていただくんですが、今でも?」

「ええ」

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