軋華

春嵐

軋華

 また、いつもの感覚。いたいわけではない。ただただ、きしむような。心と身体の隙間が、ずれて、こすれて、音をたてているような。そんな感覚。いたいわけではない。でも、なにか。自分の言葉では表せないものが、ある。


 しゃがむ。

 意味があるのかどうかは分からない。ただしゃがんで、地面を、眺める。これをやるので、基本的には長めのスカート。ディバイテッドの、裾が広めのやつ。

 これを着ていると、脚払いがしやすいし、体勢も立て直しやすい。


「あの」


 そう。


「どうしました?」


 こういう、なんの遠慮もなく声をかけてくる、そういうやつを。


「うわっ」


 撃退するための。脚払い。


 素早く右。払って、立ち上がって。きしみを感じながら、走る。


 いらない。


 声をかけてくるやつとか。


 他人とか。


 いらない。


 ちょっと走って。

 立ち止まる。


 さっきの脚払い。

 右脚の感覚。


「当たって、ない、かも」


 右脚に固い感覚がない。空を切って、そのまま走ってきたのかわたしは。いや。よくわかんない。それに。


「驚いたな。まさか下段回し蹴りとは」


 後ろ。声の方向。さっきの男か。


「生まれて初めてですよ。うずくまってるひとから回し蹴りが飛んでくるのは」


「わたしもはじめて」


 躱された。


 あっ。


 喋って、しまったと、思った。

 コミュニケーションを交わす意味がない。理由も。


「はじめて?」


 相手が言葉の続きを待っている。躱された。その一言をしっかり飲み込んで。また、しゃがむ。


「はじめて躱されたとか?」


 まぁ、そう、だけど。

 次は外さない。次は。この軽薄な男の足首をいでやる。


「あ、何度やっても無理だと思うよ?」


 今だっ。


「ほら」


 躱された。走るのもばからしいので、立ち尽くす。脚払いを躱された、きしんでいるあわれな女が一人。


「ちょっと座りましょう。ほら。ここの交差点にはベンチがある」


 そう。なぜかこの交差点にはベンチがある。感知式、1分もない待ち時間、そこそこの交通量、立ち止まる人は皆無、なのに。この交差点にはベンチがあった。


 でも、言われるがままに座るのは。よくない。ので、立ち尽くす。


「しかたないなぁ」


 手がやさしげに。ゆっくり。伸びてきて。


 胸と胸の間、そのちょっと上、鎖骨よりもぎりぎり下のところを。


 さわった。


 避けられなかった。というか、避ける動作を選択しないぐらいに。手が。やさしかった。


「え」


 さわられる。

 心と身体の隙間の。

 きしみを。


「やっぱり、きしんでるか」


 手が、離れる。繋がっていた場所が、途切れる。何か大事なものが、なくなってしまったような。そう。寂寥感せきりょうかん。あった。このきしみを表現する言葉が。あった。


「寂寥感」


「ん?」


「寂寥感です。座ります。だから」


 さわってください、とは、言えない。論理的にだめな気がする。


 促されるまま。

 交差点の、ベンチに。

 座る。


「ここは往来が激しいので、座って喋っても誰にも聞こえない」


「さわっても」


 いやおかしい。さわってもばれないとか。それはそれで。おかしい。


「ええ。さわってもばれない」


「え」


「ええ。その通り」


 なに。


「一度さわれば、なんとなく考えてることは分かります」


「なにそれ」


「俺の手です。そういうものなので、むかしから」


 意味分からないと言おうとして、やめた。わたしのきしみも、意味の分からないものだった。


「なにを、考えてますか?」


 分からないのね。さっきあれだけ考えてることが分かるとかなんとか言っておいて。


「いや、そういうことじゃなくて。ええと。いつも、なにを、考えていますか?」


「寂寥感」


「寂寥感?」


 さっき見つけた、わたしを表現する言葉。そして。


きしみ」


「軋み」


「心と身体の、間のところ。そこが、軋むの」


 あぁ。何言ってんだろう、わたしは。

 もういいや。


「さわって。さっきさわったところ。きもちよかった」


 うわわたしがなんか変なやつみたい。


「気持ち良かったとは」


 なんか、これは、照れてる?


「いや、ごめんなさい。さわった相手に気持ち良いと言われた経験がなかったので」


「きもちよかったけど」


「それは心ですか。それとも身体?」


「むずかしい」


 軋んでいるのは、心と身体の間だから。どちらでもない。


「そうですね。では、さわりながら話します」


 手が、また。伸びてくる。

 今度は。

 額。

 ぬるくて、穏やかな感じ。


「俺は、街をなんとなく守っている、そうだな、正義の味方みたいなもんです」


「正義の、味方」


「この街にはわるいやつがときどき流れ込んでくるので、それを退治したり祓ったり消したり」


 へんなの。


「今、あなたの心と身体の間に、そのわるいやつがいます。めちゃくちゃにわるいやつです」


「どれぐらいめちゃくちゃにわるいの?」


「今ここから引きずり出すと、交差点の人間がすぐに全員しにます。5分で駅前が、30分で街全体が、たぶん魂抜かれてだめになると思います」


「なにそれ」


 本当に、心から出た、本気の、なにそれ。


「やばいやつがいるんですよ。ここに。あなたの心と身体の間に」


「わかんないんだけど」


 実際。わかんない。まじでわかんない。


「俺もわけわかんないです。あなたは、どうやってこれを閉じ込めてるんですか?」


 額にさわっている手が。あたたかい。心地よい。


「わかんないんだけど」


「どこらへんがですか?」


「全部が。わかんない。わたしがなんなのかわかんないし、これからどうすればいいのかもわかんない」


「では、初歩的な質問をします」


 はい。


「あなたの名前と、住んでいる場所は?」


 はい。


 あれ。


 ええと。


「わかんない」


「あなたの記憶は?」


 記憶。


「しゃがむ前に、何をしていたかで結構です。なにか、思い出せますか?」


 うそ。


「おもいだせない」


 なにも。


 なにもない。


 わたし。


 なにもない。


 やだ。なんかあせかいてきた。


「おちついて。おちついてください」


「むり」


「あなたが落ち着かないと、このわけわかんないのが街に放たれてみんなしにます。おちついて」


 いやいやいや。わかんないわかんない。


「ちょっと失礼します」


 くび。

 りょうて。


 両手で首にさわられている。

 あっ。

 手がちょっと、ひんやりと感じる。冷たくてきもちいい。


「落ち着きました?」


「おちついた」


 交差点のベンチで。

 見知らぬひとに首をさわられている。

 何の記憶もない女。それがわたし。


「ねぇ」


「はい」


「このまま首をしめたら」


「しにますね」


「そしたら」


「なかにいるやつもしにますね」


「じゃ、それで」


「いやですよ。なんで俺がそんなひとごろしみたいなことしないといけないんですか」


「だって」


 わたしがこのままだと、みんなしぬんでしょ。


「わたしならほら、記憶も何もないし」


 あ。


「記憶ある。何回か脚払いした。脚払いして、走った」


「ええ。報告通りです。哨戒班の女が3名、脛やふくらはぎに軽微な損傷を受けて涙目です」


「あっごめんなさい」


「たいしたことないです。たんこぶできたぐらいなので」


「でも、わたしが生きてたら、たんこぶどころじゃないのに」


「まぁ、それはそうですけど」


 首にあてられている手。ひんやりしている。力は入っていない。さわられているだけ。


「正直に言います」


「はい」


「ちょっといいなって、思ってます。アンニュイな感じが」


「あんにゅい」


「ちょっと好きです」


「ちょっと」


「いや普通に好きです」


「あ、わたし?」


「はい。そのなんというか、アンニュイなところが」


 あんにゅい。あんにゅいって、なに。


「え、だからころしたくないの?」


「はい」


「え。街がどうこうとか言っといて」


「はい。目の前の女が綺麗だから、任務をためらってます。いま、街の安全と俺の情緒がとっても危険です」


 あぶない。

 それは分かる。


 でも。


「わたしも好きかも」


 やっぱりあぶないかも。


 ごめんなさい街のみなさん。危険です。


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