捨てられ天使の復讐録

@screamblood

第1話 捨てられた天使

ふわりと落ちた。


それが世界を変えるとは思えないほどに、軽い着地だった。少年"カーナ"が背中に宿す小さな、とても小さな赤い翼は、瞬く間に消えていく。


スラム街の細い路地裏、到底少年が一人で生きられる地ではない。


運命のいたずらか。しばらく後にそこを訪れた男との邂逅により、世界は大きく揺れ動くのであった。


***


「ここは……」


目を覚ますとやけに冷たい地面の上にカーナは寝そべっていた。周囲を見渡すが、そこは自分の知る土地ではないこと以外わからなかった。


 俺はなぜこんなところにいるんだ? 確か、父さんと遊んでいたはずじゃあ……


「──ッ!」


脳裏に雷が迸った。微かな記憶を手繰り寄せた先には確かに父親がいた。


 そうだ。俺は、俺は。


この状況を見ればわかる。嫌というほどに理解してしまう。


「なんでッ。どうしてッ、俺は捨てたんだッ」


カーナは父親に捨てられた。それは紛れもない真実だった。最後の記憶、加速度的に離れていく父親の顔。炎に包まれる父さんと暮らした家。そのどれもが未だ六歳の少年であるカーナには重すぎる事実だった。


「……くそっ」


力無く吐いたその言葉は冷たい地面に反射して空へと消えていった。


それから数時間して蹲り続けたカーナもようやく動き出した。


「……」


特に明確な意図はない。食料も水も寝床も必要となるだろう。しかし、今はとにかく父親のことを忘れるほかないのだった。


 ここは、一体どこだ? こんな廃れた街並み"天界"じゃ見たこともない。


「おい」

「……あっ!」


後ろから声をかけられ、ようやく天使に出会えたと歓喜したのも束の間。そこにいたのは人間だった。


「に、人間ッ!?」

「あ? なんだテメェ。俺を獣か何かだと思ってんのか?」


屈強な体に強面が相まって、それは悪魔と言われても差し支えがないものであった。しかし、そんなことよりもカーナは一つ恐れていた。


「見ねぇ顔だな。どっから来た」

「……」


 人間? 間違いない、人族だ。どうして人族が天界にいる……。そんなこと聞いたことも……


「おいテメェ聞いてんのかッッ!」

「──ッ!」


突然の怒号にカーナは肩を強張らせた。


「どっから来たかって聞いてんだよッ!」

「ふ、フルール街です」

「フルール街……? 聞いたことねぇな。まぁいい。ついてこいッ!」

「イタッ! や、やめろ、人族が天使に手を出していいと思っているのか!」


乱暴にカーナの髪を鷲掴みにし、引っ張る男にカーナは涙目でそういった。


「はっはっはっ! 天使だぁ? 頭おかしいんじゃねぇのか? 大体天使様がどうして"地界"にいるんだよ」

「地界、だと?」

「あぁそうだ。それも、最も地界で死地に近い場所だ!」


 お、俺は地界にまで捨てられたのか?嘘だろう。何かの間違いじゃ……


そう微かな期待も目の前の人族がそれを否定する。


「ようやくこのスラム街に似合う顔つきになってきたなぁ!」


大声で声を荒げる男を見る。


 父さん。もう俺の顔は二度と見たくない。そういうことなのか? 教えてくれよ。父さん。俺は何がいけなかったんだ。


 俺は、俺は。一体どうしたらいいんだ?


***


 気づけば牢屋の中にいた。あれからのことはよく覚えていない。これからどうなるのかもよくわからない。


「おい、飯だ」


先程の男が地面に放り投げたのは、パンにしては硬すぎるものだった。しかし、それ以上になぜ飯を与えるのかが不思議だった。


「なんで飯を、って顔してるな。これからお前は奴隷屋に売られる。それまでに死なれたら無駄働だからな。ま、精々良い主人に買われるのを願うんだな」


醜い笑い声を上げながら去っていく。男にはなんの感情も湧きはしない。


結局パンは食べることなく数日が過ぎた。こけた頬に細すぎる体、それがカーナの精神状態の凄惨さを物語っている。


また今日も男がやってきた。


「おい、そのままじゃテメェ死ぬぞ」

「……」

「食えっつてんのがわかんねぇのか……オラッッ!」

「──カハッッ」


鈍い音が嫌に反響する。同時にカーナの体から空気の抜ける音がした。


「食わねぇっつんなら、今殺してもいいんだが?」

「──ろせ」

「あ?」

「殺せよ。ほら、いくらでも殴ればいい。早く殺してみろよ」


 死んだら、天界に戻れるだろうか。


そんなことを考えるほどにカーナは狂っていた。父親に捨てられ、天界からも追放され、悪人に捕まって牢獄に入れられる始末。自分のせいではあるがろくな食事さえしていないときた。六歳の未熟な精神が狂うには十分すぎる出来事だった。


「望み通りぶん殴ってやるよッ!」


その後も鈍い音が鳴り続ける。悲鳴の一つもあげることなく血溜まりだけが広がっていく。


「クソッ。気持ちわりーガキだ」


息を荒らしながら男は去っていった。反対に、微かな呼吸を続けるカーナの姿はもはや肉塊一歩手前だった。


顔は腫れていない場所がなく、歯は折れ、あちこちの骨も折れ、足も変な方向に曲がっている。


それでも尚呼吸が続くのは天使の生命力によるものだった。まだ天使としても未熟であるが、その力は確かにカーナの中にあった。


自分で制御することもできないが、最低限の自己防衛能力は発動していた。強大な天使の力は幼き子が持つには大きすぎる。そのため、十歳を迎えた時に天使の力の制御方法を教わるのだが、カーナはまだ六歳である。教わっているわけもなかった。


 俺は生きてるのか、死んでるのか? あったかいな。いや、冷たいか? わかんないや。もういっそ、目覚めることがなかったら。


「……ははっ」


そう笑ってカーナは瞳を瞑るのだった。

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