吉祥寺Pretender
瀧本緑
本編
京王線笹塚駅のホームはえらく高所にあって、信じられない勢いでビル風が吹く。整えてきた髪型は破壊されるし、油断しているとワンピースが捲れそうなほどである。こういうやたら強く風の吹く駅というのはしばしば存在するが、その度に「〇〇駅 強風」と検索し、それに言及しているページの少なさに寂しさを覚える。まさに風のように、みな一過性の感情として処理していることを知り、ああまた私は一人なのだ、と思う。
せめてものユーモアを込めて「港区でもないのに…」と呟いたが、「でも次の明大前までいけば風は止んでるよ、人生ってそんなもんだよ」と卓士は言った。軽薄な男と付き合う私は軽薄です、なんていう女がいれば後ろから蹴りを入れてプロレスに持ち込みたい。そんなことはないのよ。その諦めはいらない。
にしてもこの軽薄な男は気色悪いな。ムズムズするな。明大前駅は世田谷区にあり、どこか情緒的な匂いを醸し出したり奔放さを許す響きがある割に、リクルートスーツ姿の大学生をよく見かけることと同じくらい気色悪い。大学は就職活動に向き合う学生たちを抱えているのだから、大学名を冠するこの駅でそれは当たり前のことなのだけれど気色悪い。せめてホームドアを設置すればいいのにと関係ないことを思う。こいつも至極当たり前のことを言っているのだけれど至極当たり前のことを言う必要はないと思う。人生?私と同い年やろボケが。こいつは就職活動の勝者が舵を握ると本気で思い込んでいるタイプ。実際そういうやつが存在して、自分が彼氏として迎え入れることになるとは思いもしなかった。
「どっちにしようかな」と、卓士が初めて一緒に行ったラブホで部屋を選んでいた時と同じ目(当社比)をしながら吉祥寺方面と渋谷方面の表示の前に留まっていた。「あの時と同じ目をしながら」というのは、出会った時と同じ目だとか、プロ野球選手になった幼馴染をテレビで観て、「見ろよあいつ……こんな大ピンチなのに、野球を始めた時と同じまっすぐな目をしてやがる!」と叫ぶ時に使うはずで、こういう時に「同じ目」が来るこいつはつくづく軽薄でスケベな奴だと思った。三流居酒屋のチャンジャみたいなSEXをするくせによう。
私は下北沢があまり好きではないことをまだこいつに伝えていないので、下北沢と吉祥寺の2択になるこのこと自体は私が悪いけど、2年前まで小さな演劇集団で芝居をやっていて、それを辞めてやりたくもないエクセルへの数字打ち込みを軸とした仕事をしていることを知っているのだから、迷わず吉祥寺に向かえよと思った。吉祥寺も大概文化の街だけど、演劇の街・下北沢よりはマシだと思う。ていうか渋谷は?私はできればそうしたいけどこいつは渋谷のことになると「煩わしい」という、こいつの口から出る珍しい語彙オリンピックを突然始める(4年に1度くらいということ)し気色悪い。私は笑って「今日は吉祥寺にしようよ」と言う。いつもそうしろ。「いいね!又吉又吉〜!」と言うこいつを尻目にとっととホームに向かう。各停に乗りかけたこいつの首根っこを掴む代わりに腕を取って「2分で急行来るから」とまた微笑む。
これほどまでに軽薄な人間と一緒にいるのは、経済的な事由による。私はどうにかフリーのライターとして、あわよくばそのうち小説家として食っていきたい。書籍化もされた大人気連載「文化的セックスのススメ」はVol.2までで単行本の刊行を終了すると先週編集者に告げられ、お下劣お姉様的立場からの文章ばかり書いてきた私はライターとしての窮地に立たされていた。#MeTooの時代にそういうのいらないんだって。ウケる。私のTwitterにリプライを飛ばしてくるおじさんたちのアカウントを覗くと、著名なAV女優さんにクソリプしては本気で怒られ、それを喜んでいるという地獄があった。彼らは私の客である。普通の彼氏ならそんなライター業はやめておきなさいという私を取り巻く環境。サイン会の地獄。しかしこの軽薄な男の唯一のいいところは文化的な造詣についてひどく浅薄なところだ。仮に少しでもリテラシーのある人間と付き合っていたのなら、「文化的セックスのススメ」はVol.1も刊行されず、そいつが出版社に殴り込みをしたり、そんなビートたけしみたいなことをせずとも、匿名でまっとうなクレームを入れまくるなどして書籍化に二度足を踏ませるだろう。しかしこいつはこいつでこいつの世界で独立しているので、私が何をしていようとどうでもよかった。
そんな文化的知識に乏しいこいつから又吉直樹さんの名前が出たのは、つい最近映画版の『火花』をNetflixで観たからだ。せっかく週末で時間もあったから、私は何度か観たことのあるドラマ版を薦めたのだけれどこいつは「60分を10話も?!ムリムリ死んじゃうそういうの見る人ってねえ、その時間でできることを一切考えない人なんだよ、そういう人のことなんで呼ぶか知ってる?フーテンって呼ぶんだよ」と言い、私たちは菅田将暉と桐谷健太の顔を拝んだ。呼ばねーんだよ。私は3年前にドラマ版を観て泣きじゃくって、泣きじゃくったわりに爽やかな気持ちになったことを覚えていて、もう一度ああいう気分にこいつと一緒になれたら最高だな、その時はそろそろ結婚を真剣に検討しようと思ったのだけれどそもそもこういう軽率なやつを縄で椅子に縛って10話見せたところで何か心動くものがあるのだろうか。多分こいつは縄から解かれた瞬間に自分の腕とか眺めるだろう。痕残ってないかなって。軽薄なこいつは映画版ですら1時間で寝た。吉祥寺に行きたいと言ったのも、ドラマを見ていたら味噌汁が出てきて、おいしそうに撮られていたから自分で作ろうというときのアレだ。サブリミナル効果?資本主義の権化がよう!
こいつの左脳に期待なんて何一つできない。確かな収入を担保する代わりに、私は胸のときめきを犠牲にしている。同志社大学へ行った友人の就活の話とかを聞いていると、どちらにせよその手の類の感情を一定放棄して生きていくのが資本主義だということがわかって少し楽になったのが2年前。それからずっとそういうふりをしている。『花束みたいな恋をした』を見て「いい映画やあぁ」と関東人のくせに関西弁を使い、「ふたりの恋は永遠だったんだね」とこいつは泣いていて、私は「運転手捕まったあとの供述からパズドラまでのくだり、すごかったね」とうっかり言ってしまった。こいつに「最初の方だっけ」と言われた時には、現代文を高校の必修にするのなんて、だれも授業を聞いていないのだから本当にやめてしまったほうがいいと思いそのあとの食事の話をした。
吉祥寺に着いて最初に向かったのはカラオケだった。なんでカラオケ、嘘やろ、と思っているうちにこいつはOfficial髭男dismの『Pretender』を入れていた。ただ、こいつ歌はマジでうまい。多分営業スキルの一つとして持っている。この曲は有名な割に難しく高音も必要なのだが、しっかり出し切る。すごい。まあそもそもこの曲は本当にいい曲だ。"誰かが偉そうに語る恋愛の論理 何一つとしてピンと来なくて 飛行機の窓から見下ろした知らない街の夜景みたいだ"というレトリックに感銘し涙を流した。こいつは自分の歌で私が涙したと思っている。まあたしかに人によっては泣く歌唱だと思うよ。こういう、こいつに都合のいい偶然が積み重なって、私たちは一緒にいるのだと思う。世の中の多くの恋人たちと同じように、偶然の産物である。私は恋人のふりをあと少しだけ続けて、さっさと妻になりたい。妻になって、誰のプリテンダーでもない、肩書き通りの存在と感情になりたい、などと楽曲に自分を重ねるイタさを自覚しつつ、こいつの好きなあいみょんを1曲だけ歌った。『愛を知るまでは』。今日はずいぶんセンチメンタル。歌い終わった後に求められたキスも少しだけ舌を入れて応えてこいつの中でのポイントを増やして、婚約に向けた投資だなと思う。
井の頭公園でアヒルボートに乗りたがるこいつに「水の上が怖くて」と3回くらい言って納得させた。最後の足掻きみたいなものだった。こいつはその帰りにヒルに咬まれた。井の頭公園ってヒルいるんだ、と思ったが誰かが今日のために撒いてくれたのかもしれないと思った。ヒルの分布も知らないが。
情緒の話をするけど、ヒルに咬まれたならもっとこう、ぽつぽつと悲しんで欲しかったのだが、感情表現の出力が基本MinとMaxしかないこいつはずっとギャーギャー言うていて、私はこれがあと60年…と思うと同時に年収2000万円のことを思った。手取りはいくらになるんだっけか?人間の価値とは?少なくとも、こいつが確かに必要とされ、愛され、それどころか有り難られる世界がある。金じゃなくて、人間的に。金でありがたがっているのは私だし。世界の広さを考えるとき、いつも北センチネル島のことを考える。いまだ文明手付かずな未開の地。支援物資を運ぶヘリに矢を放つ先住民。一つも理解できないが、確かにそこに存在している人々のことを。
吉祥寺でくら寿司食うか?楽天ポイント貯まるからいいけどさ。まだヒルに咬まれた足を気にしているこいつに、いつかこの心の渦を見せともにとぐろを巻く日は来るのだろうかと思う。アワビとヒルが似てて嫌だとかぬかしとりますわ。何かのふりをしていることは本当の自分を明らかにしないということで、そのせいで本当の自分は永遠に独りぼっち、牢に入れられ経済的な潤沢という高級な餌だけを与えられた人生になる。
『今度鳴門海峡に行きたい』
『もしかしてもうそろ結婚するの?』
『勘の良さ笑』
『ほな休みとるわ』
「びっくらポン出た!」
目の前に突然ビントロが現れた。さっき私がとったやつだ。現実へ揺り戻される。ああ、びっくらポンではしゃぐ将来の高収入、こいつはなんなんだ?鳴門海峡に行く手はずを即整える、段取りの良い画面の向こうの彼はなんだ?私が1ミリも知らない、ホテルの候補があとで送られてくるのだろう。それにしても私と違って純粋だな君は。「ビントロあげる」と言ったら喜ぶ、はしゃぐ。なんか紀元前みたいだね、とこういうところが好きなのかもしれない、と錯覚してみることにする。びっくらポンで当たったのは炭次郎だったらしい、『鬼滅の刃 無限列車編』しか見てないくせにさ。でも君のおかげで回っている世界が確実にあるんだよな。恋人のふりしてないと見えない世界も確かにある。ご褒美はちゃんとある。しかし、私にとってのアメムチの比率をどうにかしなきゃやってられんぞ、と思いながら鉄火巻をほおばり、「おいしいね」と言ってみた。回転寿司は回転を続け、その上をときどき、特急くら寿司ライナーが駆け抜けていき、近くの子供がそのたびにはしゃいでいた。悪い気はしなかった。
吉祥寺Pretender 瀧本緑 @takimotomidori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます