第11話 パッと咲いて散って灰に 3


 ディアナは2回の演技を完璧に終え、日陰のスペースで体を休めながら、今夜の会食のことを考えていた。

「サクラ選手の演技が始まるよ」

 ユリウスが声をかけてきて、ディアナは軽くグラウンドに目を向ける。小柄なシバ系の選手と、スロワーが定位置に向かっていた。

(……惜しいな)

 ディアナほどの実力になれば、一目で選手の実力が分かる。シバ・サクラは優秀な選手だ。スロワーとの相性も良く、陸上選手並みの瞬発力には目を見張るものがある。単純な実力でいえば、ミカド・ドーベルマンと並ぶと言って差し支えない。今日は調子もよさそうだ。ユリウスによれば、この大会の中で自己ベストを更新してきているらしい。もしかしたら、彼女のキャリアにおける成長のピークなのかもしれない。

(だからこそ、惜しい。短すぎるその花盛りに、私と戦わなければならないことが)

 もしかしたら、彼女の身体能力を限界まで発揮すれば、リスクを犯して危険な演技に臨めば、すべてを投げ打てば。ひょっとすると、サクラはディアナに勝つかもしれない。そんな演技をしなくてはならない状況になってしまったことが、惜しい。

 ディアナは内心、少しだけ自分を恥じた。3桁を超える点数を出せなかった、諦めさせることができなかった自分を。

(できるなら諦めてほしい。その才能を、私に勝とうとして危機に晒さないでほしい。そんなことは、万にひとつしかありえないのだから)

 しかし、ディアナは同時に知っていた。一度夢を見てしまったら、簡単には諦められないということも。シバ・サクラは、それを裏付けるような、強い足取りでスタート位置についた。



 グラウンドの上は静かだった。風が吹き抜ける音だけが、大輔の耳に届く。大輔はサクラの背中を一つ叩き、サクラは頷いた。

「頼むわよ」

「任せろ」

 短く言葉を交わすと、サクラはスタートの体勢をとって、走り出した。グラウンドに残った花びらが巻きあがる。それがキレイにまとめにいく演技でないことは、最初の瞬間から明かだった。

 観客はざわめいていることだろう。きっと大輔の視界の外ではエリが、もしかしたらサクラの父・タケアキも、サクラの無事を祈っているかもしれない。明は無謀な行為に呆れているかもしれない。しかし、それらは大輔にも、そしておそらくサクラにも、聞こえていないし、見えていない。

(……静かだ)

 大輔は、自分がきちんと集中できているのがわかった。遠くに駆けていくサクラと、自分しか、意識の中にいない。深呼吸をひとつして、大輔はディスクを構える。

 大きく体を巻き込み、回転のエネルギーをディスクに乗せる。決めるのは方角だけ、最大限遠くまで飛ぶように、角度をつける。胴体、腕、肘、指先。まっすぐに力のモーメントを伝達させる。


 ――お前が

 ――俺が

 ――俺のせいで

 ――お前のせいで


 何かが聞こえた気がした。大輔はそれを振り切って、投げた。


 ディスクが大輔の手を離れ、中空に射出された瞬間、大輔の視界に景色と音が戻ってきた。わあっ、と湧き上がる観客の声、サクラの脚がグラウンドを踏みしめる音、暮れはじめた空の色合い。雲に夕方の光が反射し、絵画のような影と光を作っている。そこに、ディスクが飛んでいく。

 大輔が狙った通りの角度だった。このコースでいけば、グラウンドの端につくころにはちょうどいい高さになっているだろう。

「頼んだぞ」

 大輔は小さくつぶやいて、高速で遠ざかっていくサクラの、茶色い背中を見送った。



 シバの家は日本のイヌ人の中でも、古い家柄として知られていて、あたしはその一人娘だ。

 パパは(良く知らないけど)教育委員会の仕事をしている。ママはおばあちゃんの代から政治家で、あまり家にいない。だからあたしが小さいころは、おじいちゃんがよく遊び相手になってくれた。

 おじいちゃんは脚が少し悪くて、毛並みもすっかりぼさぼさのヘロヘロになっていたけど、それでも元スポーツ選手だけあって、よくあたしをいろんな場所に散歩に連れて行ってくれた。もちろん、ディスクドッグごっこもやった。おじいちゃんがスロワーで、あたしはおじいちゃんが投げてくれたものを取ってくるだけで、楽しかった。

 ある時、風にあおられたディスクを無理やりとろうとして、脚をひねってしまったことがある。けっこう痛くて、しばらくは松葉づえだった。パパとママはおじいちゃんにものすごく怒って、おじいちゃんはめずらしく尻尾をしょんぼりさせていた。でも、あたしは治った次の日には、おじいちゃんにディスクドッグごっこをねだっていた。おじいちゃんは笑いながら、

「サクラは本当にディスクドッグが好きなんだな」

と言って、あたしの頭をなでた。


 そのころから、おじいちゃんはあたしに、自分が現役のころの映像を見せてくれるようになった。パパはその時もあまりいい顔はしなかったけど、二人でこっそり見た。画面の中のおじいちゃんはとにかくスゴくて、海外の大きな体の選手に負けないぐらいスゴい演技をしていた。

「どうしておじいちゃんは、ディスクドッグやめちゃったの?嫌いになっちゃったの?」

 小さいあたしが膝の中で聞くと、おじいちゃんは少し寂しそうな顔をした。

「おじいちゃんはケガをして、走れなくなったけど……それでも、ディスクドッグが大好きだよ。今だって大好きだ。オリンピックで勝った時も、その前も後も、勝っても負けても、ケガをしても……サクラと同じだよ」

 あたしはたしか、その時、幼稚園の運動会のディスクドッグごっこで、うまくできなくて自信を失っていた。おじいちゃんはそれを知っていて、あたしに聞き返した。

「サクラは、ディスクドッグが嫌いになったかい?」

「……ううん、そんなことない。おっきい子に負けちゃっても、うまくいかなくても、転んで痛くても、嫌いになんかならないの」

 おじいちゃんは目を細めた。

「やっぱりサクラはおじいちゃんの孫だな。どうしてもやめられないんだ。出会ってしまったからね、ディスクドッグに。楽しくて仕方がないものに……その気持ちを忘れなければ、きっとサクラもいい選手になれるよ」

「ほんとに?!おじいちゃんみたいになれる?」

「なれるとも、一番大事な才能を持っているんだからね。『やらずにはいられない』っていう大事な才能を」


 ――本当に調子がいい時、体は完璧に動くのに、頭がぜんぜん違うことを考えていることがある。フロー状態とかゾーンとか呼ぶって、エリが言ってた。今がそれで、あたしは大事な競技会の決勝、その競技の真っ最中だというのに、昔のことを思い出していた。

 あたしの脚は全ての筋肉を使って地面を踏みしめ、エネルギーを速度に変えていく。周囲の景色はどんどん曖昧になるけど、感覚は研ぎ澄まされている。靴のソール越しに肉球に地表の感触が伝わり、流れていく視界の中で観客の顔もわかる。何度も全力疾走したせいで体力は底をつきそうだけど、不思議と気持ちは落ち着いている。ただ、走る。まっすぐに。ディスクの位置すら確認しないで、走り続ける。


「マジでグラウンドの端まで行く気か?!危険すぎるぞ!?」

「私見てられないよ、勝てるわけないのに」

「そんなことしなくても、十分がんばったじゃん」


 観客たちの声だって耳に届く。もう何度も何度も聞いた言葉だ。ディスクドッグを始めた頃と違って、バカにされたり見下されたりするだけじゃない。本気で心配する者が混ざっているのも、わかる。でも、そんな言葉を聞くたびに、あたしの心臓は全身に熱い血流を送り出す。怒りや、もどかしさや、悔しさ。いつだって慣れることはない。


 体が小さいから?

 ルール上不利だから?

 勝てない理由があるなら、頑張ることすらオカシいのか?

 間違っているのか?正しくないのか?

 だったらあたしは、夢を持ってしまったことすら間違いなのか?


 危険でもいい。間違いでもいい。正しくなくていい。全部、全部どうでもいい。あたしは、走りたいから走る。あのディスクを捕まえる、それだけのために走る。全部、全部、ぜんぶぜんぶぜんぶ――。


「知ったことかァァァアアアアーーーーーーッ!!!!!」


 声が漏れていた。ディスクの影と、グラウンドの端の壁が視界に入った。

 他には何も見えないし、何も聞こえない。

 捕れる。

 この速度を全部乗せて、自分の体を空中に打ち出せば。捕れる、勝てる、捕れる――。


 その時、風が吹いた。強烈な向かい風が、あたしの鼻を叩いた。

 グラウンドの砂埃が舞う。花びらが舞う。見開いていた目に砂粒が入り、同時にディスクが空中でがくんと揺れる。見えたのはそこまでだった。異物が入った目が、反射的に閉じたからだ。

 あたしは、自分の体がバランスを失い、倒れていくのを感じた。硬いものに全身がぶつかったが、それが地面なのか、グラウンドの壁なのかすらわからない。目を閉じて真っ暗だった視界が、衝撃に白く明滅した。


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