如月喫茶で優雅な一時を

真幻 緋蓮

第1巻-第1幕- 開店前の如月喫茶

 四月になり、あの震えていた寒さはどこかへ消え、暖かい春の陽気が全国を覆った。桜も咲き始め、新社会人や新入生を祝っているようだ。

 水無月市みなづきし内の住宅街。朝焼けの太陽は周りの家々によって遮られているが、春の陽気のおかげで影になっていても暖かい。

 住宅街の一角、『如月きさらぎ』と書かれた喫茶店。通称『如月喫茶』と言う。朝早い中、そこは開店の準備をしていた。厨房からは何かを焼いているような音が聞こえ、店の外の入り口付近には看板を立てかけている少年がいる。

 少年は緑と黒を混ぜたような濃緑のブレザーとズボンを着用しており、黒髪からは清潔さが伝わってくるほど整えられている。ブレザーの胸元のポケットには『水無月』と読める校章が黄色の糸で刻まれていた。

「よっし」

 風に飛ばされないよう重りを乗せて、少年――如月一牙きさらぎいちがは一息入れた。立てかけた看板にはモーニングのセット、オススメメニューなどが手書きで書かれている。

 ドアにかけられているオープンクローズプレートを『Open』にする。『Open』の文字が一牙の視線の高さと釣り合っている。店に入るとカランカランと楽しそうなベルの音が、ドアを開くと同時に鳴る。

「父さん、外の準備終わったぞ」

 バタンとドアを閉めて一牙は、厨房の様子がよく見える場所のカウンター席に座った。

 店内はそこそこ広い。四人掛けのテーブル席を十ほど設け、テーブル席の奥のカウンター席は七、八人ほど座れる長いスペースがある。ポトスやパキラといった観葉植物が植えられた花壇が店の中央にあり、落ち着いた雰囲気を作り出してくれる。

 店から入って右手にある三つのテーブルは窓際にあり、住宅地の景色を見ることができる。反対に左側の壁際にある三つのテーブルは、静かな一時を過ごしたい人におすすめだ。中央には花壇に分けられた四つの机があり、右と左にそれぞれ二つずつある。お手洗いは左手の奥の方から行くことができる。

 カウンター席は厨房の様子がよく見えるところや、紅茶やドリンクなどの保管場所がよく見える場所がある。店の人と気軽に話せるスペースでもあるため、常連客の固定位置だったりする。

 先ほどまで聞こえていた焼き音がピタリと止み、十数秒後、厨房からコックのような服装のがたいのいい屈強な男性が現れた。白い調理服と帽子に身を包んでいる男性はその姿がとても板に付いているように思える。

「ありがとな。ほら、朝飯だ」

 男性は一牙の父親であり、この如月喫茶の店主である。名を如月隆善きさらぎりゅうぜんと言う。

 隆善の手には四切れくらいの焼きサンドイッチが載った皿があり、一牙はそれを受け取る。ベーコンと卵のサンドイッチが二切れ、レタスとトマトのサンドイッチが二切れあった。

「いただきます」

 アイスディスペンサーから氷水を汲んで、一牙はサンドイッチを食べる。ザクッとしたパンの感触と、ベーコンの香ばしさ、卵のふわふわ、レタスとトマトのみずみずしさが混ざり合う。

「今日は入学式だろ?」

 サンドイッチを食べている一牙に、隆善がカウンターに肘を付けて話してきた。

「うん。一年生で学級委員をやってた人は入学式の準備をしないといけないみたいだから、もうすぐ出る」

「そっか。ま、頑張ってきな」

 一牙が通う高校は私立水無月高等学校しりつみなづきこうとうがっこうと言う。生徒の三分の二は水無月市内であり、一学年一六〇人、全校生徒合わせて四八〇人の学校である。規模はそれほど大きくなく、進学校というわけでもないため、至って普通の私立高校である。変わった校風や校則もない。校則はやや緩めではあるが。ブレザーに刻まれている『水無月』という校章はこの学校のものだ。

「ごちそうさま」

 一牙はサンドイッチを食べ終え、氷水も一気飲みをし、空になった皿とコップを隆善に渡す。二つを受け取った隆善は何かを思いついたように、厨房へ入る足を止めた。

「なぁ一牙。校長ってまだ染崎そめざきの奴か?」

「そうだと思う。離任するって終了式の時には言ってなかったはず」

 水無月高校の校長、染崎は隆善の悪友である。今でも交流は続いているそうで、如月喫茶が休みの時はよく飲みに行っているようだ。

「入学式準備の時にどうせ会うだろ? 会ったらこう言ってくれ」

「伝言? 別にいいけど」

「『近々店に来いよ』って」

 染崎はたまに如月喫茶に来る。その時はちょうど今一牙が座っているカウンター席に座って、厨房の中をじろじろと見ていることが多い。最近はあまり来なくなってしまっているが、校長としての仕事が忙しいのだろうと隆善は思っている。

「分かった。見かけたら言っておく」

「よろしくな。ついでに入学式の時の校長の話で、店のことも言ってくれるように頼んでおいてくれ」

「いや、祝辞に個人の話を入れたらダメだろ」

「始業式は?」

「さぁ? 始業式なら言えるかもしれないけど、染崎さん次第じゃないか」

「だなぁー。奴に言っておくよう俺からも頼んでおくか」

「父さん、さっきの伝言、要らなくない?」

 なんて漫才みたいなことをしている間に、学校へ行く時間が迫っていた。一牙は予めカウンターの裏に準備しておいた鞄を背負う。

「よっと」

 とその時、店内のベルが鳴り響き、誰かが入ってきた。

「おはようございます」

 入ってきたのは三十代のように見える女性だった。すらりとした高身長に、ウェーブのかかった長い黒髪。手には白いバッグを持っており、バッグから何かの布がはみ出ている。

「おはようございます、弓夏きゅうかさん」

「お、おはようございます」

 隆善と一牙は入ってきた女性――六輪むわ弓夏に挨拶を返す。

 弓夏はこの店の従業員だ。主にモーニングから昼過ぎくらいまでの時間帯を担当してくれている。バッグからはみ出ている布は如月喫茶のエプロンだ。

「あら、一牙君。もう学校行くの?」

「はい。入学式の準備があるので」

「大変ね。クラスは離れちゃうかもしれないけど、今年も曇妬どんとと仲良くしてくれると嬉しいわ。よろしくね」

「はい」

 水無月高校は毎年クラス替えがある。各クラスの成績を均等にするために行っていると聞いたことがあるが、真実は教師しか知らない。

 曇妬というのは弓夏の息子であり、一牙の友人である。中学一年生の時に曇妬の方から一牙に話かけ、そこから意気投合して仲良くなり、店にもたまに顔を出す。主に放課後に来るため、モーニングの時間帯を担当している弓夏とは鉢合わせになることはあまりない。

「それじゃあ行ってきます」

「おう、行ってきな」

「気を付けてね」

 一牙はドアのノブを捻り、外に出ようとするが、ふと立ち止まって振り返る。

「あ、そう。午前で学校終わるから、帰ってきたら店手伝うよ」

「はいはい。分かった」

 カランカランとドアのベルが鳴って、一牙は外へ飛び出した。

「それじゃあ今日も頑張りますか。弓夏さん、お願いします」

「はい」

 隆善と弓夏は一牙の様子を見送りながらモーニングの準備をし始めた。

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