言葉の魔法

ろくろわ

第1話 お母さんの魔法


貴司たかしは、お兄ちゃんだから我慢しなさい」


まただ。

弟のひろしが泣くと、決まって悪いのは僕の方だ。

僕はお兄ちゃんだから我慢しないといけない。

僕はお兄ちゃんだから弟の宏に何でも貸してあげないといけない。

僕はお兄ちゃんだからお母さんと一緒にいたいのに弟に譲らないといけない。


弟の為なら、僕はいなくてもいいんだ。


「お母さんはいつもってばっかり。僕だって、僕だって………」


僕は泣きじゃくりながらお母さんを困らせた。

何が言いたかったのか言えたのかも分からず、ただ、『悔しい気持ち』も『悲しい気持ち』も『寂しい気持ち』も『弟が羨ましい気持ち』もごちゃごちゃした気持ちのまま口に出した。


「ちょっと待ちなさい。貴司、貴司」


お母さんが僕の名前を呼びながら手を伸ばしてきた。

宏の手を握ったまま。


「………お母さんなんか知らない」


僕は持っていたおもちゃを壁に投げつけると家を飛び出した。お母さんの慌てた声が聞こえたけど、僕には関係ない。


初めて1人で家を出た。

後ろを振り返ったけどお母さんは追いかけてきてくれていなかった。

溢れる涙を堪え、しゃくりあげる声を抑え、小さな拳を握り締めると前を向き目的もなくただ前に進んだ。

家を出てまっすぐ進み大きな犬のいる青色のおうちを右に曲がると、お母さんと弟と一緒に行く公園がある。

弟の宏と遊ぶ姿を遠くで見ていてくれるお母さんと行く公園。

そのまま進むと、小さなお菓子屋さんがある。

いつもお母さんが1個だけ何でも買ってくれる小さなお菓子屋さん。


その先は………。


その先は行ったことが無い。

何があるのかわからない。

公園までの道もお菓子屋さんまでの道もこんなに広かったっけ。


怖くて悔しくて情けなくて流れそうになる涙を必死に堪える。


「ねぇ、あなた迷子?」


唇を噛みしめ下を向いていると女の子の声がした。


「おうちが分からないの?」


顔を上げると自分より少しお姉ちゃんに見える女の子が心配そうに僕を見ていた。


「大丈夫…です」


僕はそれだけ言うともと来た道を引き返した。


「ねぇ、本当大丈夫??」


後ろから本当に心配している声が聞こえたが振り向かずに走った。

自分より少し年上か、あまり変わらない女の子に心配されている自分の事を思うと、僕はさっきまでのぐちゃぐちゃしていた気持ちが恥ずかしくなるのを感じていた。結局いろんな感情に1人で苛立って、おもちゃにあたって、お母さんを困らせて。


家出をした時はものすごく遠くに行った気がしていたのに、家にはあっという間に着いた。

玄関の前まで来てドアをこっそり開けようとしたが開かなかった。

鍵がかかっている。

僕はやっぱりいらない子なんだ。宏の方が可愛いから僕が出ていった時に鍵をかけたんだ。


「おかぁさん」

今度は我慢できずに声に出して泣いた。

家の前で立ち尽くして泣いた。


「貴司!」


後ろからお母さんの声が聞こえた。

小さな宏をおんぶして、お父さんのスリッパを履いて、ちょっと怒っていて、ちょっと泣いているお母さんがいる。

その姿を見た時、何も言えなくなった。

息ができない。苦しい気持ちになる。

どうしよう。


僕は玄関の前でたっているまま動けないでいる。


お母さんはそんな僕を見ると一言声をかけてくれた。


「お帰り。貴司」

「ただいまお母さん。………ごめんなさい」


お母さんは何も言わず、ぎゅっとしてくれた。

お母さんの「お帰り」はとても暖かった。




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