17
「『ジョンの贈り物』という名のブログは、ここで作られたんですか?」
「風車を見つけたのはあたしだよ。だけどね、ブログを作ったのは、あの子」
母親は、地べたに座り込んでトロッコ問題を解き続ける女性を無表情で眺めた。
「彼女が?」
「詩文様からとつぜん『これで、いままでのことを忘れてくれ』って、ノートパソコンと無線の機械を渡されたらしくてね。あたしにはよく分からないから、好きにやらせてるけど」
また現れた。『詩文様』という単語が。
「詩文様、というのは」
「ここの領主」
覗き込むように窓の外を確認すると、母親は鬱陶しそうにタバコに火をつけた。真っ赤に燃えたタバコの先端が、かすかに震えていた。
「ここに住めているのも、詩文様のおかげ」
ブログについて問いたいことが山ほどあるが、変に話題を逸らして、会話を途切れさせたくはない。井ノ道は続けた。
「その、詩文様とは、どのようなご関係なんですか」
「あの子を気に入ってもらえてね。出張に行っているんだよ、詩文様の家に」
「出張?」
「個室で二人きりに……。まあ、そういうこと」
つまり詩文様という人物は、彼女の精神的な未熟さを利用して、己の欲を十分に発散させているという訳か。性的搾取。
「彼女は、詩文様をどう思っているんですか」
しばらく母親は黙りこくる。吹き飛んだ人形の左腕が、井ノ道の側頭に直撃した。
「最近は行っていない。パソコンを貰った日から、なぜだか出張の命令がぱったり途絶えて」
とつぜん、頭蓋骨を叩き割って脳ミソを搔きむしりたい衝動に駆られた。先のコーヒー豆のカフェインが、濁流みたく体中を巡っているのだ。ひどく興奮した井ノ道は、なんの脈絡もなく、
「脳ミソをアイスピックでかき回して、尻の穴と膣の穴が一つに繋がるまでファックしてやろうか、性奴隷の生産者め」
と口走っていた。
「あの子は養子。あたしは偶然、選ばれただけ」
「『人間の赤ちゃんは、何も書かれていないホワイトボードのような存在である』。ワトソン先生の偉大な言葉だ。額に貼り付けておくといい」
「あたしの愛情が歪んでいるとでも? ジョンだって、これだけ長生きしているんだよ。そうでしょ、ジョン?」
タバコを窓の外へ投げ捨てる。吸い終えるには、まだ長かった。
「……ああ、すみません。つい言葉が過ぎました」
下品な言葉を吐き出し、やっと興奮が冷めてきた井ノ道を置き去りにして、母親は、部屋を後にした。人形を轢き殺す汽車の悲鳴だけが部屋に響いた。
「ワン! ワン!」
井ノ道は、氷水をぶっかけられたかのように、冷静さを取り戻した。白目をむいて奇妙な犬マネをしながら、母親がたるんだリードを連れて部屋に入ってきたのだ。
リードの先には、黒色の毛がびっしりと生えた獣の頭蓋骨らしきものがくくり付けられている。腐った臭気にたかった蝿。
「ワン! ワン!」
動物の遺骨ごときで胃を痙攣させるほど軟弱者ではない。だが、母親の病的な精神に後押しされ、井ノ道は失禁寸前まで追い込まれていた。
「母性の正体が分からないだと? これだけ愛を注いでいるのに」
「はい、そうですね」
本土へ帰る方法を聞き出す前に、母親の狂気的なスイッチを押してしまったことに後悔しながら、井ノ道は女性の横に座った。例のブログについて話を聞きたかった。
「答えは見つかった?」
彼女が操作する汽車の殺気が、すっと立ち消える。
「ジョンは生きていない。ストーブの火を消さないから、熱中症で死んじゃったの」
「そうだね、君の言う通りだ」
母親は、なにかブツブツ呟きながら、しきりにジョンの頭蓋骨を撫でている。指の間に黒い毛がびっしり絡まっていた。
「本当に君一人で、『ジョンの贈り物』を作ったの?」
「うん。見せてあげるね」
そう言うと女性は、食器棚の横に立てかけられたノートパソコンを嬉しそうに持ってきた。かなりの厚みがある灰色の本体だ。背面にカメラの小さな穴がある。
「かっこいいパソコンだ」
「『これがあれば、外の世界と繋がることができる』ってお父さんがくれたの。あの時のお父さん、すっごく優しい顔をしていたの。あの顔のままだったら、また会いに行きたいな」
「お父さんっていうのは、あの写真の人物?」
彼女は小さく頷いてみせた。部屋のドア、金色の額縁に囲まれた初老の男性。偽善の笑みに刻まれた顔のシワ一本一本に、川のように皮脂が垂れ流れている。金や権力だけでは隠しきれない野蛮な本性が、写真から腕を伸ばして首を締め付けてくるようで、井ノ道は身震いせずにはいられなかった。
彼女は慣れた手つきでパソコンを操作すると、『ジョンの贈り物』の管理画面を開いた。
「すごいね。どこで習ったの?」
「自分で調べて作ったの。ジョンを色々な場所に連れていってあげたいから」
「じゃあ、画像も自分で?」
「種明かしする?」
「うん、する」
「わかった。ジョンとよく似た犬の画像を切り抜いて、世界中の名所の写真と合成したの」
なるほど。そうしてブログ上に画像を公開することで、あたかもジョンが世界中を旅しているような虚構を創り上げたのか。
「お母さんが拾ってきた風車は、裏返したお父さんの写真の上に乗せて、パソコンのカメラで撮った」
「どうして風車の画像を?」
「ジョンと同じだったから」
これ以外の回答が存在しないかのような、即答だった。
「そっか。ここの座標をメールで送ったのも君?」
「あたしだよ」
「どうして座標を送ったの?」
すると突然、窓の外から閃光弾のような白い光が差し込んできた。あまりの眩しさに、井ノ道は両手で顔を覆い隠す。しばらくの間、光線の刺激に耐えていると、光は何事もなかったかのように消え去った。
「なんだ、今の光は」
「ポッポー、ポッポー」
女性は、変な声を発しながら、ふたたびトロッコ問題を解きはじめてしまう。母親は、より素早くジョンの頭蓋骨を撫でまわす。黒い毛が半分、抜け落ちていた。
「ポッポー。船が来た。ポッポー」
またもや強烈な光が網膜を襲う。光は数秒間、部屋中を焼いたのち、煙のようにパッと消える。
井ノ道は窓の外の様子を調べた。木々の葉が作り出す緑の天井。その隙間から、空に光の帯をまっすぐ発射する灯台の頭が見えた。真っ昼間だというのに、灯台の光が、この小屋を眩しく照らしているのだ。
「監視されている。悪さをしたら病院に送られる。ジョンは違うよね? ワン! ワン!」
幼稚なオノマトペが脳内に響いて吐き気がこみ上げてきた。早くこの小屋を出たい。しかしまだ、肝心なことを聞き出せていないのだ。
「もう一度聞きたい。どうして座標を送ったの?」
汽車を静止させて、彼女は答える。
「ブログにメールが届いて『場所はどこ?』って聞かれたの。ブログの画像を探す時、よく世界地図を眺めていて座標の数字を覚えていたから、それを送った。あとのことは、メールの文章が難しくてよく分からなかった」
「ありがとう。色々話してくれて」
なるほど。事情は理解できた。しかし……なぜ詩文様は、彼女に立派なインターネット環境を与えたのだろうか。話を聞くかぎり、詩文様はこの島の権力者に違いない。国をあげて島の存在を隠しているというのに、そんな人物が島民にパソコンを与えてしまうなんて、どうかしているのではないか? 彼女がSNSを通じて世界中に島の存在を公表してしまえば、これまでの隠蔽活動の努力は、すべて水の泡と化すのだ。いくら精神的に未熟とはいえ、彼女はここまで優秀なのである。現に、彼女の運営するブログをきっかけに、貧乏な私立探偵がこの島へ不法侵入しているではないか。
「ポッポー、ポッポー」
周期的におとずれる眩い光の呼吸が、カフェインで疲労した神経を逆撫でする。この空間がもたらすストレスに、井ノ道は、とうとう耐えられそうになかった。
スマホを見る。微弱だがワイファイの電波を確認できた。
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