16
ああ、明らかに二十代に見える白のワンピースを着た成人女性が、ちょこんと正座しながら、積み木で遊んでいるのだ。
「はじめまして」
井ノ道の声は震えていた。女性は怯えるようにピクンと肩を上げると、こちらを見上げた。
「こんにちは」
ふたたび視線を落とすと、積み木の列車と人形を並べて遊び始めた。精神年齢と実年齢が明らかに乖離している。
「素敵な部屋だね」
井ノ道は言葉に詰まり、なんの面白みもないセリフを吐く。
テーブルや椅子、食器棚などが置かれた、ごく一般的なリビングだ。照明さえ整えれば、充分に家庭的な部屋として目に映るだろう。
「ありがとう。でも、奥のお部屋は、お母さんの場所。秘密の部屋だよ。あたしが入ったら怒られるから」
「はあ」
彼女が言及した部屋のドアには、金色の額縁に飾られた大きな顔写真が、画鋲と紐で吊り下げられていた。シワが薄く刻まれた顔をニッコリ崩す初老の男性。いかにも高級そうな黒のシルクハットを被り、白地に金のアクセントが効いたジャケットを羽織っている。相当な金を持っている人物に違いない。
「これは、お父さん?」
ドアの顔写真を指さしながら、井ノ道はそう聞いてみた。
「わかんない。けど、そう呼べって言われている」
つまり、血縁上の父親ではないということか。この話題を深く掘り下げると彼女を傷つけてしまいそうなので、井ノ道は、さっそく本題を切り出すことにした。
「変なことを聞いて悪かった。すこし見てもらいたいものがあるんだ」
二枚の写真をポケットから取り出そうと体を捻った、その時。
「あんた、何者?」
背後からドスの効いた声が聞えてきた。
ふり返ると、そこには女性の母親らしき人物が立っていた。長らく手入れされていないであろうボサボサの頭髪。くぼんだ眼窩。色の悪いやつれた頬。『落穂拾い』の貧しい農婦みたく曲がった背筋。中年くらいだろうか。全身から疲労の匂いを漂わせていた。
目が合った。色味のない女性の瞳に、さらに色が消えたかと思うと、ふっと花のような光が咲いた。
「ウチの子に手を出したら、エライ目に遭うよ」
脅しというより、警告に近い口調だった。怒って当然である。我が家に帰ったら、煤まみれのアロハシャツを着たほろ酔い気味の見知らぬ二十七歳一般人男性が、ドブ川のような息を吐きかけながら、愛娘に話しかけているのだから。
「勝手におじゃまして申し訳ございません。偶然通りかかったところを、つい話し込んでしまって、気づいたらこんな具合に……」
「だらしないチャックを上げてからモノを言いな。インポ野郎」
クソ。井ノ道は言い返す言葉が見つからなかった。母親の発言は、すべて的を得ていたのである。ホテルのバーテンダーに殺されかけた事実がある以上、ここにいてはヤバい。知らぬ存ぜぬを押し通して、いち早くここを立ち去ろう。
「決してモノを盗んだわけでも、襲ったわけでもありません。それじゃあこのへんで失礼いたします」
井ノ道は、頭をヘコヘコ下げながら部屋を出ようとする。
「待ちな」
「はい?」
母親は、なにか写真のようなものをまじまじと眺めている。写真が一枚手元にない。どうやらポケットから、風車の写真が滑り落ちてしまったらしい。
「この写真、どこで手に入れた?」
「え、なにか知っていらっしゃるんですか?」
「もちろん。この風車は、あたしが見つけたものだから」
驚愕した。まさか、風車の発見者と出会うなんて。
「では、ここの座標を送ったのも?」
母親は写真を井ノ道に渡すと、落ち着きのない手つきでタバコをくわえた。安物のライターでだらしなく火をつける。
「まあ、座って」
ぷかぷか紫煙を吐きながら、乱雑に椅子を引く。なんだか知らないが、とつぜん母親は、俺を歓迎する態度に一変した。ここは大人しく従うことにしよう。
「なにか食べる? 空腹だと頭が働かないよ」
「ええ、ありがたいです」
井ノ道が着座すると、母親は台所へ向かった。地べたに座る女性をぼうっと眺める。見た目にそぐわない積み木遊びに興じる女性。人形を並べて積み木の汽車を置く。汽車を走らせて人形にぶつける。ふたたび人形を並べると、積み木の汽車を置く。
まてよ。一見すると何の変哲もない積み木遊びだが、じっくり観察すると、ある規則性が浮かび上がってくるではないか。人形は必ず二つのグループに別けられる。片方のグループは五体、もう片方は一体。汽車は一方通行で五体のグループに向かって直進する。
ああ、これは、トロッコ問題だ。彼女は、倫理学上の課題として名高いトロッコ問題を黙々と解いているのだ。
汽車の進行を止めることはできない。このままでは五人が轢き殺されてしまう。しかし、線路を切り替えることで五人の命を救うことができる。代わりに、一人の命が犠牲になる。
さて、彼女はどちらを選ぶか。
片側に寝そべる一体の人形を、素早い動作で五体のグループに加える。汽車は六体の人形を吹き飛ばした。つまり、彼女の解答はこうだ。
線路から立ち去らない不注意な人間は、全員、轢き殺す。
「どうかした?」
「いえ、なにも」
母親がコーヒー豆の袋を抱えて戻ってきた。
「家に食べ物が、これしかなくて」
「とてもありがたいです。いただきます」
井ノ道は、コーヒー豆を鷲掴みにすると、バリボリと貪った。人が食えるものならば、なんでもよかった。
「島中で指名手配されてるよ」
思わず砂利のようなコーヒー豆を吹き出す。
「私、ですか。身に覚えがないのですが」
身に覚えしかなかった。もしかすると、空木から貰ったチケットをセキュリティに見せた際、すでに不法侵入者であることが知られていたのかもしれない。
空木と島の連中がグルだった? いや、貧乏な探偵を絶海の孤島に送り込むことに、一体なんのメリットがあるというのだ。
空木への疑いを晴らすためにも、目の前の人物から、島について詳しく話を聞きたかった。
「その、やはり、お邪魔でしょうか」
タバコの灰が、じゅっとテーブルに落下した。要件を話せ。タバコを挟んだ二本の指が、そう言っていた。
「お伺いしたいのですが、本当に写真の風車は、この島に落ちていたんですか」
「買い物の帰りに偶然、見つけてね。忘れもしないよ。前の晩に、恐ろしいことが起きたから」
「恐ろしいこと?」
母親は、井ノ道の言葉を無視して続ける。
「島を貫く一本道。そこの、病院の一歩手前の位置に、写真の風車は落ちていた」
「レンガの道の上ですか?」
「違う。舗装されていない、けもの道だよ」
どうやら島を貫く一本道というのは、クソホテルの二階から見えた土の道のことを指すらしかった。そして……孤立した建物は、やはり病院だった。そんな場所にぽつんと風車が落ちていたなんて、奇妙な話だ。
けもの道とはつまり、動物の足裏だけで作られた道であるということ。完成には長い年月が必要だ。やはりこの島には、なにか重大な歴史が隠されている……。
「風車の実物はありますか?」
「ないよ」
苦し気にゴホゴホ咽ると、母親は続ける。
「神社に奉納した」
「神社? そんなものが、この島にあるんですか」
「一本道の先に、鳥居と本殿が眠っている。場所は、双子山の奥。詩文様の家を挟んで、ちょうど灯台の反対側」
まるで魔術のように、紫煙がもくもくと母親を包んだ。
双子山。豪邸の背後にそびえ立つフタコブラクダのような山のことだ。やけに詳しく説明してくれるじゃないか。
「一本道は、どこまで続いているんです?」
「村の方まで。不思議なことに、一本道は、村から神社までの最短距離を辿るんだよ」
「この島に村があるんですか」
「あった、と言うほうが正確かもね」
「つまり、消滅したということですか?」
「ほとんどの村人が招集されたんだよ」
「招集?」
まさか、足枷の人物と何か関係があるのだろうか。母親はタバコの吸い殻をぐりぐりとテーブルに押し付ける。これ以上聞くな。そう言っているらしい。
深く掘り下げたい話題であったが、井ノ道は仕方なく話題を変えることにした。
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