8
非常口の先へ進むと、なにやら金色の取っ手の付いた扉が現れた。取っ手を引く。乾いた音を立てて扉が開いた。木目調の壁。点々と並んだガス灯の火。ぼんやり橙色の明かりに包まれた西洋風の廊下。まるで洋館の廊下だけを切り取って、テントの尻穴にぶっ刺したかのような光景である。
一体なぜ、こんなにも手の込んだマネをするのだろう。悶々と廊下を歩んでいると、突然、行き止まりにぶつかった。
行く手を阻む巨大な絵画。机に置かれた頭蓋骨と腐ったリンゴ。枯れて萎れた花が、活き活きと花瓶に飾られている。なんとも言えない不気味な絵だった。
もしや。井ノ道は、巨大な絵画を手で押してみる。絵画が奥へ沈んで、眩い光が廊下に差し込んだ。なるほど、隠し扉になっていたのか。
廊下の外へ出る。徐々に目が慣れて、山のようにそびえ立つテントと、東京湾に囲まれた、海岸の広場が見えてきた。
海岸の広場で、数名の老紳士がシャンパン片手に優雅に談笑している。老人の周囲には、黒スーツの怖い人がウロウロとあたりを警戒していた。間違いなく武装している。シークレットサービスだろうか。
すると、信じられない情報が目に飛び込んでくる。婦人だ。事務所のカネノナルキを奪った、例の肥えた婦人が、いかにも金持ちそうな老人たちと一緒にシャンパンを飲み交わしているではないか。
ここは、ヤバい。井ノ道は本能で悟った。
ふたたび廊下の中へ戻ろうと、絵画の隠し扉を押してみる。ああ、ダメだ。ビクとも動かない。ニタニタ笑いの髑髏がこちらを見つめて、なんだか腹が立った。
シークレットサービスが井ノ道の存在に気付いた。なにかを叫んだ後、腰に両手を当てる。老人たちの視線が一斉に井ノ道へ注がれる。丸ぶちのサングラス越しに、肥えた婦人と目が合った。
線香くさい汗が顎先から滴り落ちる。口にくわえたパイプ煙草がポトリと地面に落下した。
次の瞬間、海の先から「ボー」と船の汽笛が聞こえてきた。老人たちは、ニヤリ不気味な笑みを浮かべると、残りのシャンパンをグビと豪快に飲み下し、汽笛の方へ歩いてゆく。老人たちの背を守るようにしてシークレットサービスが後をつける。
井ノ道はパイプ煙草を拾い上げると、安堵のあまり、歯が壊れんばかりにパイプ煙草の先を口の中で転がした。カラ、カラ。文化祭の仮装めいた安上がりの変装が、命を助けたのである。
老人たちが、次々と停船した小型ボートへ乗り込んでいく。あのボートは一体どこへ向かうのだろう……。
老人たちを見送ったシークレットサービスが、案の定、拳銃を構えながらこちらへ歩み寄ってきた。井ノ道は両腕をお空に向けた。口元だけは、性懲りもなくモゴモゴ動いていた。
「ワンで」
井ノ道の言葉を無視すると、シークレットサービスは井ノ道の額にピタリと銃口を押し当てた。氷のように冷たい感触。奴の顔面に尿をふっかけてやりたい衝動に駆られたが、すこしでも動けば脳髄を鉛玉に犯されてしまいそうで必死に我慢する。
シークレットサービスは、銃口を額に貼り付けたまま耳の無線機に手を当てると、拳銃をしまい、井ノ道の腕を強く掴んだ。
ずるずる海の方へ引きずられていく。ああ、怪力。不健康な貧乏人が、鍛錬された男の筋力に敵うはずはなかった。
静脈血の沼に銀のウナギを浮かべたような海面が眼下に見える。いっそのこと、右足首の拳銃で相撃ちして、二人仲良く海の上をぷうかぷうかしてやろうか。
すると遠くの方から、小ぶりなボートが白い波を立てこちらに滑り込んできた。
シークレットサービスは、とつぜん腕の拘束を解くと、何事もなかったかのように直立する。銅像のように固まっていて、彼の心中は読めない。
小型ボートは、落ち着きなくエンジンをふかしながら、尻をこちらに向けている。乗れ。そう言っているのか。クソ。どこに連れられるか知ったものではない。ああ、簡単な仕事のつもりが、とんでもない事態に巻き込まれてしまった……。
背後に立つ銅像によって、完全に退路は絶たれている。仕方ない。半ば投げやりな気持ちで、井ノ道は小型ボートに乗り込んだ。
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