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伸手/久志木 梓 への簡単な感想」への応援コメント


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    感想ありがとうございます。

    おっしゃるとおり、本作は「中国歴史物としては強めのエンタメストーリーと中国歴史物としては強めの難解語彙叙述が同居している」作品として執筆しました。
    パーツをカスタマイズできる車のイメージです。
    高い馬力が出るがハンドリングの悪いエンジン(「中国歴史物としては強めの難解語彙叙述」)を搭載し、ハンドリング性能を高めるパーツ(「中国歴史物としては強めのエンタメストーリー」)で固めると、どうなるか。
    実際にそのようなマシンがレースで有用かどうかは別の問題ですが、技術的に可能な場合、一度くらいコースを走らせてみたくなります。
    そのような冒険心を出発点のひとつとして、本作を執筆しました。

    難解語彙を用いる際の技術、「読みにくいなかの読みやすい」を表現する技術についても言及いただいて嬉しいです。
    言及いただいた箇所を例にあげれば、使われた技術は大きく三種類に分類できるかと思います。
    1、字面で推測できるようにする。二字熟語のうち一字は一般的な漢字をふくむ熟語を採用する(「劫灰」)
    2、文脈で推測できるようにする(「陋屋と豊屋の区別なく火を放って」)
    3、前後に似た文意の文を添える(「しかれば帝王の慣例にならい、貴君を冊封し宗廟を継がせ、臣として迎え入れるために来たのです」)
    あくまで歴史小説の一読者でしかない私の個人研究ですが、どれも歴史小説がエンタメ(「大衆文学」)の一角またはそれ以上を占めていた時代に、商業歴史小説作家によって発明された技術だと考えています。
    「現代の語彙相場と明らかに一線を画することによるタイムスリップ感、歴史実感」で(大衆)読者を楽しませつつ、(大衆)読者にとっての通読性を確保するために用いられた、真北的技術だと推測しています。
    もしコメントまで読まれていて「難しい語彙を使いたいけど、読みにくいと言われるんだよね」と悩まれているかたがいらっしゃるなら、参考になれば幸いです。

    先に引用してしまいましたが、「読みにくいなかの読みやすい」を表現する技術を駆使してまで難解語彙を用いる意義についても、読み取っていただいき嬉しいです。
    フィンディルさんの予想通り、主人公の宦官は作者が想像した架空の人物です。歴史上の人物はともかく、架空の人物にまでここまで一切の救いがない結末でよいのか、という考えは執筆途中で頭をよぎりました。
    けれどもそれ以上に、凄惨な歴史的事件の凄惨さをそのまま書きたいという欲求がありました。凄惨な歴史的事件を凄惨なまま小説に落とし込むにはどうしたらよいか。しかもその小説は、性質としては真北近くに位置させたい。こういった問題に頭を悩ませながら執筆しました。
    ですから、
    ――――
    しかし難解語彙を贅沢に用いて、宦官を含めた作品全体にタイムスリップ感・歴史実感を演出することで、宦官および宦官の顛末に強い説得力を持たせているように思います。
    そして永嘉の乱という歴史事象の凄惨さを、エンタメに過度に阿ることなく小説作品に落としこむことができているものと考えます。
    ――――
    とフィンディルさんに伝わったことに安堵しています。

    ご指摘についても興味深く拝読しました。
    「其は宦官です」という男の発言は、髭のない遺体が宦官の遺体であると「歴史の知識がある人にも、ない人にも伝わる」ようにしたい、という作者の意図しか感じられない。そのため発言に必然性がなく野暮(「作品的妥協」)と映る、というのが指摘の大意だと考えています。
    ただ私としては指摘の本筋ではない箇所に衝撃を受けました。
    男の「其は宦官です」という発言は噛み砕けば「この遺体は宦官のようですが、他の人と同列に扱うのですか?」と仏図澄に問いかけていた、というのは作者の意図と一致します。
    髭のない遺体が宦官の遺体であると「歴史の知識がある人にも、ない人にも伝わる」ようにしつつ、仏図澄のこの時代にしては革新的な平等さを、この時代の平均的な価値観を持つ男の反応によって強調したい、という意図がありました。
    しかし男が驚いたのは「この遺体は宦官のようですが、他の人と同列に扱うのですか?(宦官は帝の側近であることが多く、地位が高かったらしい)」からではありません。
    作者としては逆に「いやしい宦官まで同列に扱うのですか?」という驚きを書いたつもりでいました。

    どうして作者と読者(フィンディルさん)の間でこのような大きな齟齬が起こったのか、理由を二つ推測しました。
    まず考えられるのは歴史知識の有無でしょう。中国の歴史において身分としての宦官がどのようなものであったのか、作者には知識があり、読者にはありません。
    作者には宦官について「綿々と子孫をつなぎ親をふくめた祖先をまつることを一番重要だと考えている儒教が浸透した中国において、子をなせない宦官は忌避される存在である。しかし子をなせないという特殊性から、後宮などで皇帝の側近として重宝された。その結果、皇帝を裏から操って権力を握り政治を乱す存在として、嫌悪されてきた。宦官、外戚(皇后や皇太后、および彼女たちの父などの男系親族)、官僚による権力闘争は中国王朝の宿痾であった」という知識(便宜上すごくおおざっぱに書いています)がありますが、読者にはありません。
    しかし作者の考えでは身分としての宦官がどのような存在であるかの説明を、歴史の専門用語である「宦官」の語だけに頼ったわけではありません。小説本編のところどころで、宦官が下に見られ差別されるシーンを盛り込みました(「宦官のくせに碧血(忠誠心が高い)」と”ほめられる”、真っ先に内通を疑われる、踏み台にされる、呼びかけられるときに名前ではなく「宦官」とだけ呼ばれる、など)。

    というところから齟齬が起こった理由の二つめを推測するのですが、「中国歴史物としては強めの難解語彙叙述」をやりすぎたのだろうと考えています。
    「頻繁に出る難解語彙を調べつつでないとなかなか読みきれない」ため難解語彙の読解に読書リソースを取られて、宦官という特殊な存在のニュアンスが伝わらなかったのだろうと推測しています。
    さらに踏み込めば、宦官という特殊な存在のニュアンスが伝わらなかった以上、本作で書きたかったテーマも伝わらなかったと考えています。

    最初に本作は「高い馬力が出るがハンドリングの悪いエンジン(「中国歴史物としては強めの難解語彙叙述」)を搭載し、ハンドリング性能を高めるパーツ(「中国歴史物としては強めのエンタメストーリー」)で固め」た車だとお話ししました。
    そのような車が「永嘉の乱という歴史事象の凄惨さを、エンタメに過度に阿ることなく小説作品に落としこむ」というコースを走りきったっことを嬉しく思います。
    しかし、この車にはさらに荷物(テーマ)が積載されていました。
    主人公を暗に差別されている宦官にすることで、明らかに差別されている胡人と対応させる。
    最初から登場している個人としての宦官も、クライマックスに登場する個人としての胡人も、意思疎通できるふつうの人として描くことで、差別は偏見にもとづくものだと提示する。
    最後に差別する主体である帝側が負けることで旧時代が終わり、差別しない仏図澄が登場することで新時代の到来を予感させる。
    という荷物です。
    この荷物の存在について、フィンディルさんがお気づきかどうかはわかりません。気付いているけれど言及されなかっただけかもしれません。
    ただ宦官について齟齬が発生している以上、作者の意図したとおりには伝わらなかったものと考えています。

    そして伝わらなかったのは作者の力量不足だと反省しています。
    「中国歴史物としては強めの難解語彙叙述」を強めすぎました。
    より正確には、宦官や胡人といった歴史の専門用語をテーマに据えるには語彙が難解に過ぎたのだと考えています。難しい専門用語かける難しすぎる語彙、難しいの二乗でさらに伝わらなくなるのだとわかりました。
    ただ伝わらなかった、という経験は大きな収穫だったと考えています。
    歴史物など現実世界の知識を土台に書かれた、真北付近を志向するフィクションにとって「知識がない人には伝わるし、知識がある人も満足させる」ことは永遠の課題だと考えます。この課題をクリアするにあたって有益なフィードバックが得られたと考えています。

    ありがとうございました。

    作者からの返信

    本作のコンセプトや「読みにくいなかの読みやすい」など、一通り作者の意図を読みとれていたようで良かったです。
    「高い馬力が出るがハンドリングの悪いエンジン」と「ハンドリング性能を高めるパーツ」の組みあわせ、中国歴史物らしさを存分に出しつつ大衆を楽しませるひとつの選択肢として良いものだったと思います。北北西をちゃんと指し示せているといいますか。

    後半の指摘についてのフィンディルの“誤読”、その原因については別所にてじっくりお話ししたいと思います。ここでは割愛と。
    ただ印象として、久志木さんは「中国歴史物ならではの難しさ」に囚われすぎているように感じました。フィンディルは思う“誤読”の原因は、中国歴史物(≒難解語彙叙述)とはそんなに関係ないと考えています。