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宿花/@shibachu への簡単な感想」への応援コメント


  • 編集済

    感想ありがとうございます。
    地の文を書いているときの思考、台詞を書いているときの思考、物語の進行を考えているときの思考、これらが自分の中では全部別の回路を使っているような感覚で、うまくバランスが取れていないとは感じていました。
    「僕」は「彼女」に恋をしているから、多少大袈裟な表現の方が相応しいだろうと意識していましたが、読み直してみると「彼女」以外に関しても仰々しい表現になっていますね。なるほど癖が強い。
    引用してくださっている一文は勝手に出てきた感覚があり、「僕」の解像度が上がっているときに生まれたのだと思います。
    「僕」の言動と思考の乖離性は、意図して作っていました。「僕」が能動的な行動を起こすときは、主格をどこかしらの部位にして主語を構築しています。「僕」の意志と言動が一致したのは一度だけ。内心の焦燥や衝動に駆られた自身の行動を、多少は大人になった自我が観測している。そういう構図で書いていましたが、同一人物の印象が弱まるとの指摘は考慮していなかった知見です。作者的には地の文が「僕」の素で、どちらかと言うと彼女の前の方が明るく振る舞おうとする「肩に力が入った」人格なのですが。
    ともあれ、この度は貴重なご意見ありがとうございました。もうひとつ参加作品がありますが、よろしくお願いします。

    作者からの返信

    「仰々しい表現」の割合が減って「勝手に出てきた感覚」の割合が増えるようになると、良作化待ったなしだと思います。

    「多少は大人になった自我」の大人感がもっと出ると、地の文と台詞(言動と思考)の意図的な乖離が表現として映えてくるんじゃないかなと思います。現時点の乖離は本当に描写レベル語彙レベルの乖離で、意図的な表現としてなかなか見えにくいものだと思います。肩に力が入った描写をしてしまうケースは一般的に少なくないので、余計に。
    そのためにも人物表現を深めて、「多少は大人になった自我が観測している」をちゃんと人物表現のレベルで示せるようになると良いと思います。人物表現のレベルで乖離が示されると「同一人物らしくなさ」が表現としてポジティブに捉えられるのですが、描写レベル語彙レベルの乖離だと「同一人物らしくなさ」が作者の筆力不足としてネガティブに捉えられてしまう危険があると思います。
    要は、乖離させるならもっと根から乖離させたほうが良いということですね。