落陽/大田康湖 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




落陽/大田康湖

https://kakuyomu.jp/works/16817330653289007977


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。


本作は人と人との縁の不思議さ、儚さ、尊さを描いた作品であると思います。キャッチコピーの

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写真も出逢いも、一期一会だから。

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がまさしく本作を言い表していると思います。

人、人生、人が生きるということ。これらを扱うのは西向きの特徴であると思います。純文学と親和性が高く、起伏をつけようとしない作話を見ても北らしさはあまり感じられません。


であるのに、どうして北北西という解釈なのか。それは、本作がどういう作品であるかを言い表せすぎるからです。「本作は一期一会を描いてます」という解釈に異論を投じる人はおそらくいないと思います。それは本作の書き方が端的で無駄がないからです。描きたいものが過不足なく描けているあまり、読者の胸に言いようのない何かが湧いてこないのです。


西向き、あるいは純文学って、その作品を一言で言い表すことができないんですよね。あるいは憚られる。

何故かというと西向き作品の多くは、作者の胸にある“何か”を“何か”のまま作品にしているから。

エンタメは「書きたいこと」が浮かんだら、それを一旦短いフレーズに圧縮して焦点を絞ってから、それを物語レベルに膨張させるという手続きをとることが珍しくありません。「これを描いたら面白くなる」ポイントを見定めるということですね。優れた作家は自作のあらすじを書くのが上手だみたいなことも言われますがそれは、“何か”→短いフレーズ→物語、と圧縮・膨張の作業を行っているからだという考えを示すことができます。ですのでエンタメ作家は「この作品は何を表現したんですか?」という問いに簡潔な回答を返すことができるし、できる人は上手い。

ただ西向きとなると、上述の作業はまずしないだろうと想像します。胸にある“何か”を圧縮せずに“何か”のまま作品(物語)として表す。圧縮しない理由は、圧縮加工することで“何か”を構成する大事なものが漏れてしまってきちんと表せなくなると考えるから。ある部屋を言葉で説明するとき、短い言葉に収めようとすればするほど、その部屋の実態からは遠ざかります。これを望まない。その部屋の天井の木目の感じが収録漏れする事実を良しとしないのですね。

つまり西向き作品の場合、その作品こそが作者の「書きたいこと」の言語化の最小である、と考えることができます。濃縮還元みたいな作業はしておらず、できるだけ“何か”と作品が等倍のままになるように努めている。そういう手続きを踏むことが珍しくないと思います。もちろん人によりますでしょうけど。


ですので西向き作品、あるいは純文学には、何とも言い表せない何かが読者の胸に残ります。その作品を一言で言い表せなくなります。言語化前の“何か”そのままの混沌さえも言葉に残そうと試みられているから。濃縮還元と対にするなら、天然果汁ならではの何ともいえない雑味ですね。

北向き作品、あるいはエンタメにはこれがありません。書きたいことを一旦短いフレーズに圧縮しているから。圧縮してシンプルになったものは、それから物語レベルに膨張してもシンプルなままです。エンタメはその良さがあります。作品の大事なことが過不足なく広く読者に伝わるから。だからあらすじにまとめやすくなりますし、表現したいことも掴みやすくなります。

純文学作品のあらすじや「表現したいこととは?」にどこまでも野暮な空気が纏わりつくのは、作品そのものが作者の「書きたいこと」の最小表現であるはずだからだとフィンディルは考えます。


そしてそれを考えたとき、本作は大田さんの手によって一回圧縮されているんじゃないかと妄想します。

「こういう作品書きたい」というぼんやりしたものが、構想のどこかで「一期一会の感じを目指そう」などとワンフレーズに一旦圧縮されたのではないかと妄想します。おそらく無意識だろうとは思いますが。

仮にそのような作業がされたとしたら、「一期一会」から膨らまされた本作から「一期一会」以上以外の“何か”が感じられないのも道理だと思います。

そしてこの作業は西的ではなく北的なものであると考えられますので、北北西が妥当だろうと考えます。


本作に対して西を強く感じられている方は「人と人との縁の不思議さ、儚さ、尊さを描いている」点を重視していて、本作に対して北を強く感じられている人は「『一期一会』に圧縮されていて、何とも言い表せられない“何か”がない」点を重視しているんじゃないかと考えます。

どちらの考え方もあるのですが、フィンディルは後者は重視したいかなという気持ちがあります。

また読書体験として、「一期一会」という言葉をキャッチコピーに据えることで作品内容が「一期一会」に収斂していっている感覚もありますので、もし大田さんが北西にづけたいとお近考えの場合は、「一期一会」を禁止ワードにするだけでそれらしくなるんじゃないかなという気がします。


ただここまで述べてきた内容は飽くまで北北西と判断した理由に過ぎません。「一期一会」に収斂できるすっきりしたかたちで人や人生を描くことは、その作品の方向性として確かな作品価値があるものだと思います。

文章の語順には洗練が期待できますが、物語全体としては綺麗にまとまっていると思います。

特に冒頭の富士美と金剛富士が出会う流れは上手いと思います。“納得感”に偏って出会いの動機づけをゴテゴテに用意するのではなく、「一期一会」がより際立つようなシンプルな出会いになっていると思います。出会いの不思議さを外連味なく示せていて、好印象です。

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