応援コメント

経立(ふったち)/朝吹 への簡単な感想」への応援コメント

  •  素晴らしい感想をありがとうございました。
     一読して、芥川龍之介「羅生門」の最後の一行を思い浮べました。
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     しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪しらがを倒さかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々こくとうとうたる夜があるばかりである。
     下人の行方ゆくえは、誰も知らない。
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     この、最後の「下人のゆくえは、誰も知らない。」が要るか要らないか? なんですけれど。
     倉橋由美子が「要らない」と断じているんです。
     要らないときいたら、確かに不要だな~って想うのですが、「要らない」ときく前にはとくに引っかかることがなかった最後の一文でもあります。
     それを「要らない」と想える人、つまりフィンディルさんのような鋭い読み方は、ぜひ自分の中にも取り入れて研鑽したいものです。
     ……無理な気がしますが(;'∀')

     ありがとうございました。

    作者からの返信

    確かに方向性としては似た話だと思います。
    本作の葛西は「下人の行方は、誰も知らない。」をもっと巨大にした感じでしょうかね。「下人の行方は、誰も知らない。」のあとに下人の行方を誰も知らないとする根拠が数文続いているような感じ。
    また(記憶のかぎりでは)下人の行方は「羅生門」にとっては大事ではなかったはずなので、「羅生門」にとって大事かつ不明としている要素(あるなら)に、どうして不明なのかの説明があるのをイメージしてみてもいいかもしれません。

    とにかく、作品の方角を左右するということは、作品の面白さの性質を左右しているということなので、一考の価値はあると思います。
    「下人の行方は、誰も知らない。」よりは派手だと思います。

    ありがとうございました!