声を失った令嬢は、次期公爵の義理のお兄さまに恋をしました

八重

プロローグ

「ローゼマリー!!なによこの廊下っ! もっとしっかり拭きあげなさいっ! 水浸しじゃない!!」

「申し訳ございません、シスター」


 バケツに雑巾を浸して汚れを落としたあと、もう一度ぎゅっと絞って拭きますが、私の力ではなかなかしっかり水を絞れなくて床に水分が残ってしまいます。

 そんな様子を見たシスターは苛立ってバケツを蹴り上げると、そのまま「掃除をしておきなさいよ」と言い残して去っていきました。

 じんわりとまた木の板に水が入り込み、自分のまわりを見渡すとさっきよりも水浸し。

 これはまた一段と気合をいれて拭かなければなりませんね。

 ずれ落ちてきた服の袖を上げて雑巾でまた拭き始めます。


 ああ、今日もシスターを怒らせてしまったから食事はきっとなしですね。


 言われた通りに廊下を拭きあげてバケツを流し台にかけると、手を洗って自室へと戻ることにしました。


「ぐう~」


 はあ……。

 また空腹でお腹が鳴ってしまいますが、いつものことなので水でしのぐことにします。

 ああ、やっぱりここのお水は美味しいですね。

 私はベッドに横になると、そのまま疲れに負けるようにゆっくりと目を閉じました──



 次に私が気づいた時は明け方のような薄暗い感じの景色で、部屋のドアのほうを見ると、扉の隙間から何か明るい光が見えています。

 何か変だなと思ってベッドから降りて扉をあけました。


「──っ!!!!」


 目の前一面に炎が広がっていて、階段や隣の部屋のほうにも炎があり、私はどうしていいかわからなくなって足がすくんでへたり込んでしまいました。


「ど、どうしよう」


 火事だと気づいたのはその少し後で、シスターや他の子たちを呼んでも誰からも返事がありません。

 そして、私の記憶はここでぷつりと途切れました。




◇◆◇




 ふと目が覚めるとそこは見たことがないところでした。

 これはどこかのお屋敷でしょうか。

 白いカーテンのある窓に大きな本棚、机に椅子、天井には豪華な灯りもあります。

 私以外にも人がいらっしゃったようで、少し離れたところにいたメイドさんが私と目が合うと慌てて部屋の外に出て行かれました。


 数分後、ノックのあとで男のひとが二人部屋にいらっしゃいました。

 身なりがかなりよさそうな方なので、このお家のご主人さまでしょうか。


「よかった、目が覚めたんだね。私はフリード・ヴィルヘルト。ここは私の家だから安心して休むといい」


 そのお名前を聞き、私ははっとしました。

 フリード・ヴィルヘルト公爵さま──この地方の領主さまという偉い方です。

 もちろん実際に会ったことはございませんが、修道院にいた私でも名前くらいは知っています。

 ということはこの隣にいるお若い方は、ご子息でしょうか。


「私はラルス。何かあれば遠慮なく私にいって構わないからね」


 こうしてみると、かなりお二人は似ていて綺麗なサファイアブルーの瞳がそっくりです。

 ラルスさまは20歳くらいでしょうか? 大人びているのでもう少し上かもしれませんね。


「父上、医師の診断では幸い外傷はほとんど見当たらず、軽いやけどだけだと」

「そうか、よかった」


 公爵さまは優しく微笑むと、私に話しかけてきました。


「君がいた修道院は火事でなくなったんだ。シスターは行方不明で修道院の立て直し時期も決まっていない。だから、勝手なことをして申し訳ないが身寄りのない君を引き取らせてもらった」


 その言葉があまり理解できなくて少し私は首をかしげてしまう。

 そうすると、今度はラルスさまが話を始める。


「君は私の義理の妹になったし、いつでも頼ってほしい。でもまずはゆっくり休むことが先だね」


 そういってめくれていたシーツをまた私にかけなおしてくださる。

 つまり、私はこのお家の子になったということでしょうか?


 こんな素敵なお家の子に?


「遠慮はしないでくれ。そうだ、君はなんて名前なんだい?」


 そう言われて私は「ローゼマリー」と答えました。


 なのにお二人はきょとんとして私のほうをじっとみています。


「まさか」

「もしかして」


 公爵さまとラルス様は顔を見合わせて難しい顔をしています。


 お二人に私の名前は届きませんでした。



 私は声を失ってしまっていたのです──

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