第106話 鎧袖一触
ゆっくりと戦場の最右翼に位置したフランス軍が前進を開始した。
その数わずかに二千五百名、フランス軍にわずかに遅れてアンジェリーナ率いるワラキア式の銃兵千五百名が続く。
さらに遅れて副将であるマイヤー率いる五千名の兵団が続いていた。
最左翼であるジョルジ直率の五千名は最後尾でいまだ沈黙を守っている。
右翼による敵主力の拘束と、左翼精鋭による側面突破、それはテーバイの誇るエパミノンダスが考案した斜線陣の応用に他ならなかった。
「父上、右翼がフランス軍で大丈夫なのか? マイヤーではなく?」
娘の懸念にジョルジは軽く首を振って微笑むことで答えた。
「………あのご老体はオレが本気で戦っても勝てるかどうかわからんお人だ。マイヤーごときでは相手にもなるまいよ」
「驚いたな、人のよさそうな爺様なのに」
「まあ、お前の愛するワラキア公には勝てまいがな」
ジョルジほどの戦術手腕をもってしても、ワラキア公には勝てる気がしない。
焦土戦術を取ろうとも、ゲリラ戦術を取ろうとも、いかに戦術の妙を尽くそうともである。
ワラキア公の恐るべき本質は、そうした戦術的な部分を超えたところにあるように思われるのだ。
それを本能的に察するからこそ、ジョルジをして自らやリッシュモンよりワラキア公が上と言わしめるのであった。
一方、スカンデルベグが勝てるかどうかわからないと評したリッシュモンは三万のオスマン軍に突出しながらも悠然と微笑んでいた。
オスマン軍の主力は軽騎兵であり、歩兵の防御力が著しく向上した今、時代遅れになりつつある兵科である。
軍事的な洗練度では、リッシュモンが鎬を削ったイギリス軍に遠く及ばない。
恐れる理由はなにひとつも感じられなかった。
まして盟友たるジョルジの戦術能力は、長年戦場に立ち続けたリッシュモンでも比肩する記憶がないほどのものだ。
「時代が変わったということを教えてやるとしようか、せめてもの餞に華々しく」
悠然と呟くリッシュモンのフランス歩兵の前に、オスマン騎兵の群れが雄たけびをあげて迫ろうとしていた。
ケルグにとって敵の動きは奇異にしか見えないものであった。
わざわざフランス軍を突出させ、生贄の犠牲に捧げているようにも感じられる。
わずか二千五百程度の小勢を突出させて、いったいなんの利があるというのであろうか?
あるいはフランス軍とアルバニア軍との間で意見の相違があったのかもしれない。
古来より多国籍軍というものは統率のとり難いものなのだ。
そうであるとすればこれは好機であるはずだった。
しかも目の前の相手はあのスカンデルベグではなく、遠い地の果てからやってきたフランスの蛮族にすぎない。
「突撃せよ! 勇敢なるオスマンの戦士たちよ! 神の名の元に敵を蹴散らせ!」
砂塵を蹴立てて主力の軽騎兵たちが突進していく。
その数はフランス軍の五倍を上回る。
いかな精強な軍であっても、とうていこらえることなどできないかに思われる情景であった。
その様子はまるで無数の蛇がからみついていく様にも似ている。
だが、決して統制がとれたとは言えない騎兵の突撃は、リッシュモンにとってなんら感銘をもたらすものではありえなかった。
「釘玉を喰らわせろ!」
最前列に列を敷いていた大砲のなかに装填されていたのは、数万を超えようかという釘や鉄片である。
一斉に放たれたそれは無数の散弾となってオスマン兵たちに襲いかかった。
元来、大砲とは野戦で近接されては役に立たないと信じられてきた。
機動力のないうえ、砲弾の莫大な運動エネルギーは個々の兵を狙うのには向かないからだ。
それは榴弾が初めて実戦に投入されたフス戦争以降でも変わりは見られない。
至近で爆発してしまえば味方への損害の避けられない以上、榴弾もまた敵との間にある程度の距離を必要としたのである。
だが、実際には大砲に釘をつめて水平射撃をすればその散弾効果は計り知れないものがあるのであった。
殺傷能力こそ低いがたとえ釘による負傷でも馬にとっては致命的である。
人間とて身体に釘をいくつも撃ちこまれて無事ではいられない。
たった一撃で、フランス軍の前面に人馬の悲鳴が交錯する地獄絵図が現出した。
「砲兵後退! 銃兵前へ!」
負傷者がひしめきあい、突撃の衝力を完全に失ったオスマン軍へ向けて情け容赦のない銃撃が浴びせられる。
正面の突破を諦めたオスマン軍は、左右の両翼からフランス軍を挟撃しようと試みたが、リッシュモンがこれに備えていないわけがなかった。
右翼は槍兵の横隊が銃兵とともに完璧な防御姿勢をとっていたし、左翼のフランス軍の横腹は後方のアルバニア軍から見れば的でしかなかった。
「敵は腹を見せたぞ! 躍進射撃開始!」
アンジェリーナは正しくスカンデルベグの血をひいていることを証明した。
ワラキア流の交互射撃でオスマン軍左翼の騎兵部隊の側面を痛撃すると、たちまち騎兵部隊は統制を失って壊乱する。
側面から射撃を継続しながら迫ってくる銃兵部隊は、オスマン騎兵の心に深刻な心理的衝撃を叩き込んだのだった。
オスマン軍としては、この完璧な相互支援を前にしては、和則を生かしさらに包囲の輪を広げる以外に方法がない。
アンジェリーナの銃兵部隊の側面迂回を試みたオスマン騎兵部隊は、すぐにマイヤー率いるアルバニア槍歩兵部隊の阻止行動を受けることになる。
いまやオスマンの全軍がアルバニア・フランス軍の敷いた斜線陣に完全に拘束を余儀なくされていた。
もしも大空を舞う鳥の目があったならば、オスマンの戦列が斜めに伸びきってケルグの統制が行き届かなくなりつつあるのがわかっただろう。
左翼は突出しており、そこを突破されればその後ろには剥き出しの無防備な後方が晒されていた。
戦術の鬼才、スカンデルベグことジョルジ・カストリオティの軍配が振るわれたのはまさにその瞬間であった。
「吶喊!!」
おそらくはジョルジだけがなし得る苛烈さで、アルバニア軍五千が行動を開始した。
およそ三千を最左翼で拘束にあて、スカンデルベグはアルバニア王国最精鋭部隊二千とともにオスマン軍の外縁部を神速の勢いで蹂躙する。
まさに鎧袖一触とはこのことであろうか。
完璧な集団戦を展開するアルバニア軍のまえに、オスマンの誇る軽騎兵も軽歩兵もその機動を阻止するどころか遅滞させることすらかなわない。
無人の野を行くスカンデルベグの行く手には、三千ほどの手兵に守られたケルグ・アブドルの本陣が大海の小島よろしく孤立した姿をさらしていた。
「こんな……こんな馬鹿な話があるか!?」
スカンデルベグの手腕は承知している。
だからこそ、スカンデルベグが後陣で戦いに関与しないうちに勝負を決めてしまうつもりであった。
戦いは勝利への流れにのってしまったほうが圧倒的に優位に立つものだからである。
先陣を突き崩され敗兵に飲み込まれては、いかにスカンデルベグといえども建て直しは至難の技のはずであった。
にもかかわらず現実は完全にケルグの希望を裏切っている。わけてもフランス軍の精強さは想像を遥かに上回っていた。
わずかフランス軍二千五百名のためにほぼ同数の死傷者が量産され、なお一万余の軍勢が釘付けにされていた。
いったいあのフランス人は何者なのだ?
まさかスカンデルベグ以外にもこれほどの強者がいようとは誤算もいいところだ。
目に見えて兵たちが萎縮していくさまがケルグにはよくわかっていた。
敵に倍する兵力を揃えながらまんまと敵の思惑にはまってしまっている事実が、必要以上に兵たちを恐怖させてしまっているのだった。
古来より、そうした時に指揮官が統制を回復する手段はひとつしかない。
「誇り高きイスラムの戦士たちよ! 恐れるな! 汝の勇気をアラーの神はよみしたもう!!」
剣を高々と掲げて先頭に踊り出たケルグは、そのまま単騎でアルバニア軍へと突撃を開始した。
怖気づいた兵を瞬時に立て直すことためには、怯えた兵に主将の勇気を見せつけること以外にないのである。
勇気ある主将を一人で敵のえさにするわけにはいかない。
ケルグの見せた無謀ともいえる勇気の発露は確かに味方の士気を回復し、アルバニア軍への逆撃を可能とした。
「………よい判断だが、所詮犬は獅子にはかなわぬと心得よ」
するすると自らも先頭に立ったジョルジは、動物的ともいえる勘によって双眸にケルグの姿を捉えていた。
若き日から長年の戦塵に磨かれたその武の輝きはとうてい凡人のよくするところではない。
ただジョルジが手首を返して騎槍をしごいたと見えたその瞬間には、ケルグの首は槍の穂先に突き立てられていた。
獅子が吠え掛かる犬に全力でその牙を剥いたかのような、圧倒的な武量の差だった。
「主将と同じ運命をたどりたいものは我が前に出よ」
その口調は淡々として、決して戦場に轟くような激しいものではなかった。
しかし、言葉ではなく覇気が、理性ではなく本能がオスマン兵に危険を告げていた。
この男に挑んで命永らえることは不可能であるということを。
半日もかからぬうちにケルグ率いるオスマン帝国軍は駆逐され、二人の武の化身というべき男たちが野に放たれたのだった。
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