第105話 二人の巨星

 アドリアノーポリへの途上にあるオスマンの本営には続々と凶報が舞い込んでいた。

 まずポーランド王国が遂にオスマン戦に本格介入することを決断し、精鋭五千をブルガリアへ向けて進発させていた。

 不干渉条約を結んでいたはずのポーランド王国の裏切りにメムノンも怒りを禁じえない。

 なによりすでにオスマンが敗北するかのように、ポーランド王国に見定められていることが承服できなかった。

 戦場でワラキアを打ち破ったのはオスマン側であり、ワラキアはただコンスタンティノポリスの延命に成功したにすぎないのである。

 それもさし当たってはのことに過ぎぬ。

 ヴラドの生命が失われれば、短期間でコンスタンティノポリスは叶くするだろう。

「勝負はまだついていない。最後に勝つのは我らのほうだ」

 特に強兵であるわけでもないポーランド兵が、五千ばかり増えたところで戦況に大差はない。

 しかしブルガリアやセルビアなどの国民や、神聖ローマ帝国をはじめとする中立諸外国がそれをどう見るかは別問題であった。

 そうした外交的な意味で、やはりポーランド参戦の傷口は大きいと言わざるを得ない。

 また、ブルガリアに集結していた旧貴族たちの反乱兵が、次々と立ち上がり遊軍として各地に支配領域を拡大させていた。

 ブルガリアはほぼその半分がオスマンの支配を脱し、井山セルビアやボスニアでも反乱勢力が次第に優位に立ちつつある。

 ここでもし、再びワラキア軍に撤退されるようなことがあれば、戦況の悪化は避けられないところであった。

 特にスカンデルベグとリッシュモン連合軍が、大人しく傍観に徹しているわけがないことを考えれば尚更である。

「最低限オスマンの勝利という体裁だけでも整えなければならぬ」

 メフメト二世にもこだわる部分があった。

 コンスタンティノポリスでの戦いは、ヤン・イスクラのあまりに劇的な救援ぶりもあって、ワラキア軍の撤退は敗北ではなく既定の転進であるように受け止められている。

 オスマンとしては諸外国に勝利を喧伝できるだけの、はっきりとした勝利の形が喉から手が出るほどに欲しいところであった。

 今は甘い夢を見ているブルガリアやセルビアの叛徒どもも、ワラキアが敗北すれば根を失った木のように朽ち果てるだろう。

「それがただの夢であることを教えてやる」

 今度こそヴラドと雌雄を決し、オスマンの勝利を確固たるものにするのだ。

 そのためには、何が何でもヴラドを戦場に引きとめなくてはならない。

「先生(ラーラ)よ」

 メフメト二世は青白く血の気を失った肌に目だけを血走らせながら呟くように言った。

「二度目の慈悲はないぞ」

「御意」

 メフメト二世の瞳にもはや寵臣を見る余裕は欠片も感じられない。

 あるのは憤怒と焦燥と勝利への渇望だけだ。

 もちろん次の機会などありえぬことをメムノンも承知していた。

 唯一の君主たるスルタンに責任を取らせることが出来ない以上、敗戦の責めを負うべきは宰相たる自分以外にはいない。

 もっとも、この戦いに万が一にも敗れるようなことがあればオスマン朝は国家そのものが存亡の危機に立たされるであろうが。

「まずは講和のための使者を発てましょう」

「なんだと?」

 講和という言葉を聞いた瞬間、メフメト二世の表情に狂的な怒りの色が浮かぶのを見て慌ててメムノンは先を続けた。

 ヴラドと和解することなど、考えることすら拒否すべき話であった。

「もちろんこれは形だけのこと、講和する気などもとよりございませぬ」

「なるほど、足止めというわけか」

 一度冷静になってしまえばメフメト二世の理解は早かった。

 講和の交渉というテーブルに着かせてしまえば、またワラキア軍に逃げられることもないはずだからだ。

「しかしあの男が簡単に交渉にのるものか?」

 メムノンは満面に邪笑を浮かべてくつくつと嗤った。

 この男どれほどのものか、と思わせるほどに幸せそうな笑みだった。

「講和交渉の全権大使がラドゥだといえば、あの甘い男が断ることはありえませぬ」



 その二人の威容は傍目にも異常であった。

 フランス王国大元帥アルチュール・ド・リッシュモン、百年戦争をフランスの勝利に導いた立役者であり、後のブルターニュ公でもある。ある意味で一国の主に匹敵する地位だ。

 その横に断つジョルジ・カストリオティもアルバニアという小国を率いて大国オスマンを相手に一歩も引かない生きる伝説の男であった。

 この二人が揃っているというだけで、この地上に敵などいないのではないかという錯覚を覚えそうなほどである。

 しかしこの二人、兵士たちの思いをよそに全く関係のない話で盛り上がっていた。

「我が人生最良の日とはまさにあの日でありました。愛する妻には悪いですが、自分の心に嘘はつかないのです」

「そ、それほどですか――――」

 ごくり、とジョルジの喉が鳴った。

 リッシュモンは重々しく頷くと、老人らしからぬ鋭い眼光をきらめかせて微笑する。

「あれはこの世で最も尊い無垢そのものなのです。同時にただ愛のみを求めるこの世で最も無力な存在でもある。その無力さが問うのですよ、愛とはなんなのか? 絆とはなんなのか? とね」

「いまだ出会わぬ私ですら確信を持って言えます。彼の者のためなら私はこの命を投げ出すことすら厭わぬでしょう」

 二人の男は互いが共有する陶酔に酔いながら固く手を握り合わずにはいられなかった。

 爺二人は今こそわかりあったのである。

 事の起こりはアンジェリーナから、先月から生理が来ないとジョルジが知らされたことにある。

 すわ初孫の誕生か、と頭ハッピーになったジョルジは、すでに孫を持つリッシュモンから経験者の訓示を受けていたのであった。

「我らは孫のためによりよい世界を与えてやらなくてはなりませぬ」

「そう、孫のために!」

「孫のために!」

 アルバニアとフランスの爺馬鹿二人が熱いタッグを組んだ瞬間であった。

「………………ごめんなさい………やっぱり、生理きちゃった…………」

 アンジェリーナから遅れに遅れていた生理の到来を知らされ、スカンデルベグが砂の柱と化すのはまた後の話である。


 アンジェリーナとソマスの手兵を加えたアルバニア・フランス連合軍は総勢一万四千にのぼる。

 対するケルグ・アブドル率いるオスマン軍は三万余、戦力比は一対二を超えるが、ケルグはかつてない緊張を強いられていた。

 なにしろ相手が相手である。

 スカンデルベグことジョルジ・カストリオティはワラキア公を除けばオスマン帝国が最もその武勇を恐れる男である。

 ムラト二世の親征を受け、七倍の敵を相手にアルバニアの国土を守りきったその手腕は伝説的であるとさえ言えた。

 その男が初めて攻勢に転じたことに脅威を感じぬ武人がいるだろうか。

 史実においても遂にスカンデルベグが存命のうちは、アルバニアがオスマンに屈服することはなかったのである。

 兄弟と腹心に裏切られ、十倍の敵を相手にしても国土を守りきったスカンデルベグの戦術的才能は、おそらくはワラキア公を遥かにしのぐだろう。


 だが、ケルグはもうひとりの男の存在に注意を払ってはいなかった。

 遠い小アジアのオスマン朝の一指揮官にとって、英仏の百年戦争など御伽噺の世界でしかない。

 しかし目の前で陣を敷くこの男は実質的に百年戦争を終結させた、ある意味西欧世界最強の将帥なのである。

 リッチモンド伯アルチュール・ド・リッシュモン、フランス王国軍大元帥……百年戦争前半の英雄がベルトラン・デュ・ゲクランであるとするなら、百年戦争後半の英雄は間違いなく彼である。

 ジャンヌ・ダルクという光が眩すぎるため、知名度の低い彼ではあるが、実質的にフランス王国軍の戦略を主導したのは彼だ。

 そう、フランス軍はリッシュモンの大戦略と卓越した戦術手腕によって勝利したのである。

 なかでも砲兵火力の集中と機動を戦史上初めて機能的に運用したという事実は、後年のゴンサーロ大元帥やオラニエ公ウィレムの功績に匹敵するものだった。

 頑固で味方の無能を許容できず、フランス国内に敵が多いことと、後にブルターニュ公として王権と衝突せざるをえなかったことがなければ、フランス史上でも屈指の英雄に数えられて当然の人物なのである。

 ケルグはその事実を全く認識することができずにいた。

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