第89話 コンスタンティノポリス侵攻
ここで時系列はオスマン朝の軍がコンスタンティノポリスへとアドリアノーポリから南下を始めたころに遡る。
すでにコンスタンティノポリスからは、悲鳴と焦燥の入り混じった悲壮な便りがヴラドのもとに送られてきていた。
どうか一刻も早い援軍を!
そのあられもない懇願の様子が、なによりコンスタンティノポリスの窮状を物語っていた。
皇帝の浅慮に端を発したこの戦いは、あまりに猶予期間が短すぎたのだ。
慌てて兵を募り援軍を要請するも、西欧の軍はロードス島に釘つけであり傭兵の価格も高騰の一途を辿っている。
ようやく持ち直し始めた経済力を総動員しても雇えた傭兵はわずかに二千にすぎなかった。
コンスタンティノポリスに集結させた騎士団と従兵を合わせて、総数五千余が帝都防衛の全兵力であった。
これとは別にガラタ地区には傭兵隊長ジュスティニアーニを筆頭に、二千名のジェノバ兵が立てこもっている。
かつて繁栄を極めたローマ帝国の総力が一万の兵にも満たないのが悲しくも厳しい現実なのだった。
対するオスマン軍は、第一波としてスルタン直卒のトラキア方面軍六万がコンスタンティノポリスを包囲していた。
その後アナトリアから第二波、第三派が送られる手はずになっており最終的には軍属を含めて二十万の大兵になることが予想されていた。
ウルバンの巨砲こそないものの、確実に増した大砲の数と、オスマンが世界に誇る坑道戦術の進歩は、コンスタンティノポリスにとってあまりに大きな重圧となってのしかかっていたのである。
今にワラキア公国軍が援軍に来てくれる!
ヴラド公ならばオスマンの圧倒的な大軍にも勝利してくれるはず!
コンスタンティノポリスの貴族も市民も、その希望だけを支えに徹底抗戦の構えを崩していない。
だがそれはワラキア軍が援軍を遣さなかったり、ワラキア軍がオスマン軍に敗れるようなことがあればたちまち壊乱する危険と隣り合わせのものであったのだった。
帝国の重鎮が深刻な顔で軍議を開いている。
「ワラキア公が駆けつけるまで我らは耐え抜かねばなりません」
宰相ノタラスは軍議の冒頭でそう告げた。
帝都防衛の根幹をどう捉えているか、その最大公約数的なものをよく表現していると言えよう。
さすがに二十万に達しようとするオスマン軍を相手に、単独で撃退が可能であるなどという夢想を共有しているものはいなかったのである。
「問題はそのワラキア軍がいつごろ到着するかということですな」
宰相の言葉を受けて発言したのは傭兵隊長ヴァニエールであった。
いまだ三十代後半の精力的な若さを保ったこのフィレンツェ出身の傭兵は、ちょうど一段落した百年戦争からの流れ者であり、豊富な実戦経験を持っていたのである。
「オスマンがトラキアにどれほど兵を残しているかによるだろう…………」
難しげな顔で思案に首をかしげたのは、騎士団を取りまとめるサーマルドである。
おそるべきはオスマン朝の底力であった。
二十万(五万は軍属であるにせよ)の大兵を催したからといって、首都アドリアノーポリやその周辺が無防備になったとは考えられない。
おそらくは数万の守備兵とさらに数万の遊撃兵が残されているはずである。
全くの無防備であるなどありえない。それを為しうる国力がオスマンにはあるのだから。
これらの軍を南下するワラキア軍の拘置に当てたなら、ワラキア軍の到着は相当遅れることになるだろう。
だが、オスマンの予備兵力を正確に知るものが会議の席上にいない以上、明確な答えが出るはずもない。
「一ヶ月は私も責任を持ちますがね、二ヶ月となるとさすがに責任は持てませんよ………」
篭城戦とは消耗戦であることをヴァニエールはよく承知していた。
生命だけではなく、体力的にも精神力的にも、寡兵での篭城は加速度的な消耗を強いるものなのである。
それでなくともコンスタンティノポリスの城壁は長大にすぎ、戦闘正面が大きい。
ある程度の兵員が損耗した時点で、長い防衛線のどこかが破綻をきたすのは目に見えていた。
「ワラキア公には一月を超えぬよう余が改めて要請の書状を認めるとしよう………」
コンスタンティノス11世は己の無力さをかみしめていた。
全ては自分の政治的な識見の甘さが引き起こしたというのに、誰も責めようとはしないことが逆に皇帝の肺腑を痛めつけている。
そして後継に指名したデメトリオスには背かれ、体よく利用しようとしたワラキアの援軍が唯一の頼みの綱とはなんとも皮肉なことであった。
デメトリオスに足止めされたソマスもまた、オスマンの包囲網が完成した今となってはたとえモレアス専制公領を脱出したとしても間に合わない。
(…………自分は皇帝の座には相応しくないのかもしれないな…………)
よくよく考えれば即位以降コンスタンティノスが挙げた明確な成果といえば、ワラキア公を皇族に取り込んだことぐらいである。
兄から引き継いだ東西教会の合同は破綻し、十字軍を呼び込むことも出来ず、奪われた国土も一寸たりと奪回してはいない。
帝都の経済的復興も、ワラキア公の力添えがあったればこそのものであった。
しかし、そのコンスタンティノスの懊悩こそ彼の誠実さの証であり、政教が一致したコンスタンティノポリスにおいて誠実と公正において比類ない皇帝が忠誠に値する人物であることも、間違いのない事実であったのである。
そのころワラキア軍はオスマン朝に対して属国を脱して正式に宣戦を布告し、ブカレストに集結させた国軍二万八千を一気に南下させていた。
その後たちまちのうちにラズグラドやシュメンの北部都市を制圧したワラキア軍だが、ここで一旦南下を停止し軍を東に向けてブルガリア最大の港湾都市ヴァルナを占拠するにいたっている。
このワラキア軍の侵攻は、多くのブルガリア国民にとって福音として受け入れられていた。
もちろん同じ正教徒の多い国柄もあるだろうが、シエナが手配したワラキア公の宣伝工作やジプシーの民が、奏でる音曲で表されたワラキア公の英雄譚の影響も無視できるものではない。
戦に起てば必ず勝ち、政ではワラキアを未曾有の繁栄に導いた生ける伝説を繰り返し聞かされれば、オスマンに搾取され続けるより、ワラキア公に国を治めてもらいたいと願うのは民にとって本能のようなものであるのであった。
アドリアノ―ポリの北部に位置するスリプエンとスタラザゴラでも、旧ブルガリア王国貴族が反乱の狼煙をあげていた。
半世紀以上に及ぶ支配に自信を抱いていたオスマンにとっては、こうした叛乱は全く予想外のものであった
緩やかに搾取され続けてきた東欧の正教徒国家、ブルガリア・セルビア・トラキア・ボスニアなどの諸国でも、武装した市民による抵抗が明確な形をとり始めていた。
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