第86話 ヴェネツィアの二股膏薬

 コンスタンティノープルの北側、史実では要塞ルメリ・ヒサルの建築地点にあたるその場所では急ピッチで砲台の建設が急がれていた。

 ボスフォラス海峡の最狭部であるこの地を、大砲をもって封鎖すれば黒海側からの艦隊戦力を無効化することが可能であるからである。

 要塞としての防御力は低いが、設置された大砲の数は史実の実に十倍に達しようとしていた。

「ジェノバ艦隊もこれでは身動きがとれまい」

「油断は禁物でございます陛下。船乗りの経験は時として、陸の人間である我々の想像を超えるものですゆえ」

「もちろん承知しているとも。だが、身動きがとれぬのは事実であろう? 先生(ラーラ)よ」

 人の悪い笑みを浮かべてメフメト二世は肩をゆすった。

 金角湾に張られた鉄鎖のように封鎖は完全ではないが、両岸に並べられた百を数えようかという砲台は、それだけで脅威以上の何かである。

 メフメト二世は目の前の有能な宰相が、さらにそれを誇大に言い立てて外交の具にしていることを知っていたのだ。

「ジェノバはヴェネツィアと違って国家としてのまとまりに欠けますので…………おそらく二割も戦力が揃えば上等でありましょう。とは申しましても二割でも海軍の歴史の浅い我々には十分脅威であることに変わりはありませぬ………ガラタの司令官も取り込みに失敗したことでもありますし」

「むっ……」

 メムノンの言葉を聞いて、メフメト二世は不機嫌に黙り込む。 

 オスマンの外交戦略にとっては、ガラタ地区のジェノバ部隊の中立を引き出せなかったことは痛恨事であった。

 コンスタンティノポリスの商業利権をちらつかせ、あからさまに海峡を封鎖して見せれば尻尾を振るだろうと思っていたのだが、どうして敵にも先の見える人間がいたらしい。

 しかしながら目先の利権にあっさり尻尾を振る者も中にはいるわけで、ジェノバの国論はほぼ二分されるにいたっている。

 指導層は相変わらずワラキアよりだが、黒海よりオリエントに貿易の比重を置く有力商人たちは親オスマンを叫び共和国の指導を受けつけずにいた。

 権益は各国間のパワーバランスを抜きにしては語れないのだが、それを理解できぬ人間は一定数いるものだ。

 スルタンの意向が全てに優先される絶対君主制を採るオスマン朝が恒久的な権益を保障できるはずもないにもかかわらず、利権を約束されれば飛びつく輩にはメムノンも失笑を禁じえない。

 とはいえ知恵の回る連中がオスマンと敵対するというのであれば、そう笑ってばかりもいられなかった。

 カッファに常駐するジェノバの黒海艦隊は、ワラキアに同調するものが多いがボスフォラス海峡を無傷で突破することが難しい以上、危険な行動は慎むはずである。

 ジェノバ本国艦隊は、距離的にも質的にもそれほどの脅威ではなかった。

 変転を極める欧州の政治情勢を考えれば、迂闊に本国を空にすることなどありえないからだ。

 残るもうひとつの雄敵ヴェネツィアだが……………。

「今頃は教皇に使者が届いたかも知れぬな………」

「きっと大慌てでございましょう」

 マムルーク朝の率いる上陸船団が、ロードス島近海に姿を現したのはつい先週のことであった。




 ロードス島は聖ヨハネ騎士団が1310年に全島を掌握して以来、対イスラム戦の最前線であり続けた。

 1444年にはマムルーク朝の遠征を退け、改めて修道騎士団の精強さを内外に示している。

 また、小アジアにごく近い島の位置環境からロードスは、地中海貿易においてクレタ島に次いで重要な中継拠点でもあった。

 そればかりではない。

 病院騎士団という俗称で親しまれた聖ヨハネ騎士団は、ロードスに地中海最大の病院施設を完備していたのである。

 ロードスの病院は遠隔地で病に倒れたものにとって、唯一の希望の地であり、聖地巡礼者などにとってはなくてはならない施設となっていた。

 その多くの施設が瓦礫の一部に成り果てようとしている。

 大角度で落下する砲弾は、いかな精強をもってなる騎士団にとっても受け止めることはかなわないからだ。

「いったいなんだ? あの大砲の数は?」

 かつて聖地で最も堅固な城であった、クラック・デ・シュバリエを築いたヨハネ騎士団の築城能力は当代随一を誇る。

 しかしそれも大砲が集中して運用される前の設計思想に基づいたものだ。

 オスマン朝から供給された大砲による艦砲射撃の激しさは、騎士団の戦前の予想を遥かに超えるものであった。

 歴戦の騎士団員も、こんな戦は知らない。

 弩の矢も投石器も届かぬ彼方から、一方的にひたすら嬲られるだけの戦いなど聞いたことがない。

 ごくわずかなロードス側の大砲が、かろうじて沖合いのマムルークの戦船に損害を与えるが、たちまち十数倍の砲撃の前に沈黙を強いられてしまう。

 このままでは攻城戦の前に味方の兵はあらかた消耗しつくしてしまうやも知れぬ。

 悲鳴のような使者が複数にわたって欧州大陸に送られた。

 ロードス島は今存亡の危機にさらされている。

 小アジアに残された最後のキリスト教徒の拠点を失うことがあってはならない。

 ロードス島を失えば、次はクレタ島が危険にさらされ、遂には東地中海すべてが異教徒の手に落ちるであろう。 

 今こそキリスト教国は一致して救援の兵を起こすべきときである。

 聖ヨハネ騎士団でもっとも多数を占めるフランスと、それに次ぐスペインにも使者は送られており、教皇ニコラウス五世は両国の王とともにヴェネツィア共和国にも出兵と援助を要請した。

 黒海の覇者ジェノバと違い、多角交易を旨とするヴェネツィアにとっては、クレタ島はコンスタンティノポリス以上に重要な交易拠点である。

 対立する利害を持つ聖ヨハネ騎士団だが、ここで見捨てることはヴェネツィアの国益を損なうことになるのは自明の理であった。

 いったいどこへ救援を贈るべきか、議論は短くも沸騰した。

 モチェニーゴをはじめとする親ワラキア商人は、数の大小はあれどもコンスタンティノポリスへ艦隊を派兵すべきであることを主張した。

 コンスタンティノポリスは、確かにヴェネツィアにとって欠くべからざるものではない。

 しかしローマを継ぐ精神的支柱がオスマンの手に落ちるようなことがあれば、東欧は芯棒を失ったように瓦解する可能性がある。

 コンスタンティノポリスを失うということは、歴史ある大都市を失う以上の何かなのだ。

 しかしミラノ攻囲戦を戦うヴェネツィア共和国にとって、さらにロードスとコンスタンティノポリスという三正面を戦うことはヴェネツィアの国力を大きく上回っていた。

 現実主義者の彼らは断腸の思いで決断を下した。

 ヴェネツィア元老院はワラキアに対し、資金と糧食を援助するとともにコンスタンティノポリスへの派兵の中止を決定したのだ。

「全く、石頭の馬鹿野郎どもめ! こうなったらかねてよりの策を進めるぞ!」

 千年の歴史を誇るコンスタンティノポリスが陥落することを、理屈ではなく感情が認めない連中が多すぎる。

 モチェニーゴは海の向こうの盟友に祈るような思いであった。

(どうか私が助けに行くまで無事でいてくださいよ!)

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