第84話 悪魔公の激怒

 帝都コンスタンティノポリスに訪れたオスマンの使者は、帝国に忘れかけていた亡国の恐怖を思い出させていた。

「我がスルタンに朝貢する身でありながら、同じく属国たる身のワラキア公に王位を送ろうと企むとは許しがたい思い上がりである。この驕慢に満ちた愚行に対し、スルタンは寛大にも二つの選択肢を与える。ひとつ、ワラキア公との一切の外交関係を断絶しヘレナ姫をスルタンの側室に差し出すこと。また皇帝は直ちに退位して弟デメトリウスに譲位すること。ふたつ、コンスタンティノポリスを明け渡しモレアス専制公領に遷都すること。いずれでも好きなほうを選ぶがよい」

 迂闊にもここにきて初めて、コンスタンティノスは自分がやりすぎたことを知った。

 どちらの条件もとうてい呑めるものではない。

 ヘレナを差し出すなどワラキア公が認めるわけがなかったし、全面的にワラキア公を敵に回すことなどできようはずもない。

 帝都の復興の立役者でもあるワラキア公を裏切るような真似でもすれば、コンスタンティノポリスに暮らす市民たちの反感を買うことは確実である。

 またワラキアの先進性に影響された官僚団も、宰相ノタラスを筆頭に抵抗するのも間違いなかった。

 そしてデメトリオスに帝位を譲位することも論外である。

 デメトリオスはオスマンに心情が近すぎる。

 だからこそ皇太子とすることで、長い時間をかけて帝国の皇帝としてオスマンに傾き過ぎぬよう教育するつもりであった。

 なにより現在のデメトリオスはコンスタンティノスから見て為政者として未成熟でありすぎた。

 だからといって帝都を放棄することもできない。

 コンスタンティノポリスこそはローマ帝国の魂である。

 この地なくしてローマの精神はない。モレアスだろうとどこだろうとそれは同じであった。

 帝都をなくしてまで生きながらえる気はコンスタンティノスにはなかった。

「…………使者殿には悪いがどちらを選択する気もない。スルタン殿には貢納金を増額するゆえご容赦願いたいとお伝えいただきたい」

 使者は蔑みに顔を歪めながら皇帝の懇願を嘲笑った。

「汝らの収めることのできる貢納金など、我がオスマンの富に比べれば何ほどのことがあろうか。選べぬならばこう申せとスルタン様は仰せになられた。もはや夢の覚める時が来たと知れ。本来のものでないとうに失われた権威を、真の持ち主へと返すがよい。ローマの歴史と遺産は余が継いでやる、と」


 1451年12月………風に冬の冷気が混じり始めたころ、いよいよギャラルホルンの角笛は高らかに吹き鳴らされた。

 数々の破滅を約束しながらも訪れた戦を避ける術はない。

 結局のところ望むと望まないとに関わらず災厄は人の上に降りかかるものなのだ。



 覚悟していたとはいえ、東ローマ帝国へのオスマン朝の宣戦布告はワラキアに深刻な影響を投げかけずにはいられなかった。

 すでに正教会大主教としても、帝国の縁戚としてもコンスタンティノポリスを見捨てるという選択肢はない。

 そんなことをすればワラキアが被占領地域に対して有していた権威など、紙くず同然に成り下がるであろうし、貴族に代わって力をつけ始めた市民層に見限られるのは確実である。

「…………来るなら来い! ワラキアはあと十年は戦える! うそです。すいません」

 開戦が俺の予想よりあまりに早すぎた。

 ってかコンスタンティノープルの陥落って1453年の5月だろう? 自分で歴史変えておいてなんだけれど!

「全く伯父上も下手な手をうったものだ…………」

 ヘレナもまた呆れた顔で首を振っていた。

 聡明な瞳には明らかな疲れの色があり、いつもの精彩が感じられないようにも見える。

 それは昨晩いかにヘレナが奮闘したかを物語っていた。

 それを見守る近臣の表情は、危惧よりむしろほっとした感謝の視線をヘレナへと向けている。

 実のところ昨日見せたワラキア公の激怒は、ヴラドを知る近臣すら心底怯えさせるほどに深かったのだ。

「――ヘレナを側妾に差し出せと言ったのか」

「御意」

「…………そうか………ヘレナを、我が妻を、俺の家族を、家具か置物のように差し出せと……貴様はそういうのか! ラドゥだけでは飽き足らずヘレナまで奪おうと…………」

「………で、殿下…………?」

 低く呻くように俯くヴラドに近臣たちが心配して声をかけようとするが、彼らは一様に驚愕とともに凍りつくことになる。

 ………………嗤っていた。

 極大の愉悦に浸りきったような幸せそうな顔で、ヴラドはくつくつと嗤っていた。

 夢見るような陶然とした目で肩を震わせ、喉を鳴らしながらさも可笑しそうに嗤っていた。

「わははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」

狂笑

哄笑

邪笑

嘲笑

 もう耐え切れぬ、といった風情で腹を抱えてヴラドは嗤い続けた。

 うれしそうに

 楽しそうに

 瞳に涙させ滲ませて

「よかろう、俺は生まれて初めて喜んで人を殺そう。なんの罪もないオスマンの民の兵もどうなろうと知ったことではない。かまうものか! この目に入る女が居れば犯し、この目に入る物があれば壊し、この目に入る子供が居れば嬲り、この目に入る宝があれば奪おう。この目に入る兵が居れば殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して凱歌を歌おう。乾杯を叫ぼう。誰一人生あるもののいない死者の荒野で雄叫びをあげよう。貴様の前に首を積み上げて貴様の慟哭を聴こう。貴様がいかに矮小で未熟な野心家であったか、筆を競わせ歴史に残そう。序文は貴様に書かせてやる。史上最も愚かで卑しい君主、メフメト二世とな。あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」

 近臣たちにとってワラキア公は極めて温厚な人物であった。

 喜怒哀楽がはっきりして、表情が読みやすいおよそ政治家とは縁遠い人物であるかに見える。

 しかし、ひとたび事が起これば公はたちまち能面のような無表情になり、その身に青白く凍てついた空気を纏った冷酷な君主と化す。

 その傑出した決断力と行動力によって、完膚なきまでに敵を殲滅せずにはおかない。

 公が青白く凍りついた先には、その敵たるものには慈悲の欠片もない悲劇しか残されていないのだ。

 だが、こんな公は知らない。

 狂ったように嗤い続ける公がいったいどれほどの災厄をこの悪しき世界にもたらすものか、味方たる臣下ですら恐怖を覚えずにはいられなかった。

 ヘレナが公の口を吸い、強制的に黙らせるまで、ヴラドは嗤い続けた。


 ――――そして失神するまでヘレナを責め抜いた結果今に至っているというわけだ。

 我ながら己の鬼畜ぶりに呆れてしまう。

 もはや幼児性愛者の名は甘んじて受けよう。うむ、この決断に一片の悔いなし!

「……………やりすぎではございませんか? 殿下………」

 ヘレナひとりでは保つまい、と援軍にきたフリデリカとアンジェリーナがどん引きするようなヘレナの惨状であったという。

 正気に戻った俺が土下座を敢行したのは言うまでもない。

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