第73話 遠い記憶
モルダヴィア公国の首都スチャバで、ランバルドたち貴族軍の面々が焦燥を募らせていた。
ドナウ川流域は瞬く間にワラキア河川艦隊によって占拠され、キリアに駐留していたワラキア軍の精鋭はモルダヴィア南部を完全に手中に収めていた。
ワラキアに占領された南部地域には、今回の反乱に関わった貴族の領地が数多く存在していたため各州に動員令を発したもののことごとく黙殺され身動きができなくなっている。
そうしている間にも、ワラキア公自ら異例の速さでキリアに二千の兵とともに上陸したという報が伝わっていた。
――こんなはずではなかった。
自分たちは正統な権利を守っただけであり、ワラキア公に従えば貴族は衰弱死を免れないだろう。
モルダヴィア貴族はこぞって我がもとに馳せ参じるべきではないか。
何故唯々諾々と異邦の君主に頭を下げなければならない?
口をついて出るのは自己弁護と都合のよい楽観的な観測ばかりであった。
スチャバに篭城してワラキア軍が苦戦すれば、模様眺めをしている貴族たちが援軍に駆けつけるだろう。
いや、ポーランド王国軍の介入も期待できる。
彼ら貴族の期待は、あまりにも自分に都合のよい妄想のようなものであった。
なぜか原因はわからないが、中世の欧州貴族たちには主観ではなく、客観で物事を見る力が著しく欠如していた。
それが風土的なものなのか、宗教的なものなのか、教育的なものなのかはいまだに判然としない。
ただ彼らの思考がひどく自己中心的なものであり、現実を認識していないことは確かであった。
この期に及んでも彼らは想像すらしていないのだ。
彼らの前に現れるであろう男は、ワラキアの反乱貴族を串刺しに処し、フォルデスの野でカトリック教徒三万人を焼き殺した悪魔の化身である。
わずか治世四年にしてワラキアを東欧最強の大国に成長させた、立志伝中の人物を敵に回して勝てるほど己が有能だと思えるその自己肥大ぶりがいっそ滑稽であった。
静かだが激甚たる怒りとともに、ワラキア軍二千とワラキアに味方する南部諸侯二千がスチャバに姿を現したのは1450年6月も終わりに近づいた頃であった。
アンジェリーナはことの成り行きのあまりの早さに驚きを隠せなかった。
動員からキリアへの上陸までわずかに四日しか経っていない。
これが故地アルバニアであれば少なくとも1ケ月を要したであろう。
常備軍がいるから動員にかかる時間が少ない。
そして各駐屯地への情報伝達が異様に早かった。後でヘレナ姫に聞いたところでは腕木というものを使って通信しているせいだそうだ。
僻地へは伝書鳩まで活躍していると聞く。
いったいどんな発想からそんな奇略が生まれるものか………その発案者が全てワラキア公だというのだから開いた口が塞がらないとはこのことだった。
またドナウを走る艦隊の速度も陸上での進軍速度を考えれば呆れるほどの速さである。
陸においては人が歩く速度を基本として、食事、野営準備。睡眠と移動以外に存外時間をとられてしまうのだが、艦隊にはそれがない。
ワラキア公が言っていたことは全くの事実であった。
戦いは始まる前に既に決していたのだ。
「世界は広い――まさか本気で父を超える男に会えるとは」
結果の見えた戦に興味はない。
気がかりなのは行方のしれないシュテファンの安否と、この戦争の先のモルダヴィアの扱いかただけだ。
黒海の玄関口でもあるモルダヴィアの治安が悪化するのは、ワラキアにとっても好ましくない事態である。
やはりこの際併合してしまうべきだろうか。
………いまだハンガリー国内で貴族たちの反発を受けている現状ではそれも難しいだろう。
出来る限りモルダヴィア貴族の反発を買いにくい手法をもちいるべきだった。
そのためにはシュテファンが生きて助かることがもっとも望ましいのだが。
元日本人である俺は考えた末にひとつの結論にいたった。
自分と貴族の名誉に対する考えは違う。それはおそらく武士道と騎士道が似て非なるものであり、御恩と奉公も日本と欧州では意味合いが異なるせいだ。
武士道の根幹は家であるが、騎士道の根幹は個人にある。
家を背負う責任が薄いから個人的な名誉のために、あっさり自らを投げ出すことができるのだ。長年続いた名家ですらそれは例外ではなかった。
君は一代、家は末代という考え方は欧州にはない。労働集約的な米作が日本人に集団主義をもたらし、作付面積あたりの収穫率が低い欧州では個人主義が発展した、と大学の教授に聞いたような気がするがそのとおりなのかもしれない。
また、御恩と奉公についても日本では家臣に領土の保障を与えることに価値はあったが、欧州では日本ほどの価値はない。
それは日本では朝廷と幕府の二重権力体制にあり、朝廷の枠組みのなかでの武士の土地所有が禁じられていたからである。
故にこそ日本では将軍という新たな権威への服従というステージが確立したが、欧州では君主が領土の保障をするのは当然のことであって、保障できない君主にはそもそも仕える必要がないのであった。
まして日本には天皇家という古い権威が滅びることなく継続していたが、欧州では栄枯盛衰が激しすぎ、君主に対して確固たる権威が構築できずにいたのである。
そうである以上、忠誠というものは打算か義侠のうえにしか期待できないと考えたほうがよいのだろう。
当座はそれでしのぐとして、従来の価値観を教育によって塗り替えることが絶対に必要であった。
現在トゥルゴヴィシュテ・ブダ・シギショアラに設置した、大学をキリアやスチャバにも新設しなければなるまい。
この時代なら万能の賢者レオン・バッティスタ・アルベルティが存命なはずであった。ロレンツォ・ヴァッラもまだ死んでいなかったはず。
ルネサンスを代表するこれらの人文主義者を招くことも検討しなくては。
特にアルベルティは数学者でもあり、科学者でもあるから是非とも欲しい人材だ。
難点をいうならどちらも聖職者であり、教皇庁の息のかかった人間ということなのだが。
錬金術師たちも相変わらず頑張ってくれているのだが、今は石炭鉱山の開発とコークスの製造で森林資源を木炭から建築資材へと転用している矢先であるし、どうにもあの連中が人に物を教えるということに向いているとは思えないのだった。
「難しい顔をしておるの、わが君」
気がつくとヘレナが俺の隣にちょこんと座っていた。
「全く、世の中ままならぬことだらけさ」
おどけて肩をすくめる俺をなぐさめるように、ヘレナは優しく俺の頭を小さな胸に抱え込んだ。
「全てを思うままにできるのは神だけだ。我が夫はそれをよく知っていたはずだぞ?」
ちょうど額のあたりに、最近自己主張を始めたヘレナの胸のふくらみがあたってかなり照れる。
照れるシチュエーションではあるがヘレナの気遣いがうれしかった。
神ならぬこの身には、何かを犠牲にしなくては前に進むことはできない。
恐怖をもって統治にあてる政治的理由を、誰よりもよく理解してくれるヘレナだからこその気遣いであった。
このモルダヴィアでも悪魔公の恐怖をもって語られるであろう、断罪の時がもはや目前に迫っていたのである。
スチャバに立て籠もる貴族軍は二千余りであった。
対するワラキア軍は行軍中さらに兵を増やして七千名に達している。
うち四千名強がモルダヴィア諸侯であることは不安要素のひとつでもあったが、不安が顕在化するほど戦闘を長期化させるつもりは俺にはなかった。
「罪を悔いて降伏せよ。今なら貴殿の命ひとつで済ませてやる」
「ふざけるな! ワラキアの田舎者ごときなにほどやあらん。立てよ同胞たち! 敵は目の前にあるぞ!」
ワラキア軍と行動をともにしたモルダヴィア貴族に向けたランバルドの煽動は、彼らになんの感銘ももたらさなかった。
もともとランバルドは数ある諸侯の一人に過ぎず、モルダヴィアを統治する資格がないうえ、かくも軍事指揮官としての格の違いを見せつけられてはもはや呆れるほかない。
誰だって負ける戦いにわざわざ参加する気はないだろう。
思わずもれた失笑にランバルドは激怒した。
「おのれ! 売国奴め! 必ずやその報いを受けさせてやるぞ!」
「売国奴はお前だ、愚か者」
もう限界だ。
こんな男になんの慈悲が必要だろうか。
「最後にひとつだけ聞く。シュテファンをどうした?」
「あの腰抜けは父親を殺されてから行方を眩ましておるわ! 今頃どこかで野たれ死んでいるだろうよ!」
不幸中の幸いだな。シュテファンはこいつらに殺されてはいないらしい。
「忠実なる神の使徒ボグダン二世殿下を正統な理由なく殺した汝の罪は重い。ここにランバルド・マシュディーを背教者に認定し破門とする。死後永遠の煉獄のなかで己の為した罪の重さを噛みしめるがいい」
「なんだと! いったいなんの権限があってそんな………! あっ!!」
ここにいたって参集した全ての者がヴラドのもうひとつの顔を思い出していた。
ワラキア公ヴラド三世は同時に正教会大主教でもあるのであった。
「背教者に味方しようとする者はいるか?」
敵も味方もヴラドの声にただ呑まれるばかりであった。
逆らえない。
逆らえるわけがない。
地上の民と天上の神を同時に代弁するこの男には。
「よろしい、ならば背教者に死を」
ワラキア軍の牽引砲の射撃とともに一方的な攻城が始まった。
カトリック世界でも破門の及ぼす効果は大きい。
カノッサの屈辱で皇帝ハインリヒ四世がグレゴリウス七世に屈服したのはそのもっとも有名な一例である。
しかし教会の分裂や破門の乱発でその後破門の権威は薄れていたが、正教会世界ではそんなことはなかった。
カトリックほど世俗に交わらず、カトリックほど非寛容な組織ではなかったからだ。
それにオスマン帝国というれっきとした異教徒との対峙を強いられ、同胞同士でいがみあう余裕もなかった。
ゆえに破門がもたらした精神的衝撃は計り知れぬほどに大きかったのである。
戦闘が始まってたちまちのうちに、叛徒の末端の兵士から裏切るものが続出していった。
城門は砲兵の一斉射撃で瞬く間に瓦礫と化し、敗北を悟った反乱貴族同士が各所で熾烈な同士討ちを開始する有様だった。
「待て! 待ってくれ! 私はゆえなく背いたのではない! 私は義によって起ったのだ!」
名誉の死ならば受け入れよう。
モルダヴィアの貴族の誇りにかけて自分は不当な圧力と戦ったのだ。
しかし背教の徒として、臨終の秘蹟も与えられず地獄へ落とされることは耐えられない。
なぜだ? どうしてこんなことになってしまったのだ?
「殺さないでくれ!」
ランバルドの悲鳴もむなしく、彼に剣を振り上げたのは、共に決起に加担したはずの叔父のマルドであった。
「すまぬな。背教者に味方して地獄へ逝く覚悟はないのだ」
こんなものはもはや戦であって戦ではない。
アンジェリーナは、己が見てきたいかなる戦とも異なる成り行きに戸惑いを隠せなかった。
言ってみればこれは獅子が己を虎と勘違いしている猫に、四方から罠を張って全力で殴りかかったようなものだ。
戦の形にすらなっていなかった。
あるのはただただ一方的な掃討である。
恐ろしい
ただひたすらヴラドが恐ろしかった。
父ジョルジのような武人とは違う。
明らかに何かが決定的に異なった人間である。
アンジェリーナはその何かが恐ろしくて仕方がなかったのだ。
…………悪魔(ドラクル)………
背教の汚名を着た叛徒より、大主教であるはずのヴラドのほうがよほどその言葉に似合っているような気がした。
まるで世界を天上から見下ろしたかのようなヴラドのやり口に、ドナウの船上で感じたような畏敬を感じることはできなかった。
弱い者いじめのような嫌悪感のような感情にアンジェリーナは囚われていた。
ランバルドの首を手に手柄顔で投降してきた馬鹿どもを捕らえた後すぐに、俺はシュテファンの捜索にあたっていた。
どうやらボグダン二世が暗殺された時点で、スチャバにいたことは確かであるらしい。
城門の門番にも気づかれずスチャバを出ることは難しいことうえに、近隣の貴族領でも一切目撃がないことを考えれば、いまだスチャバ内に隠れ潜んでいると考えるのが妥当だった。
もしかすると義侠心ある市民に匿われているのかもしれない、とスチャバの解放を触れて回ったが一向にシュテファンが見つかる気配はなかった。
…………従兄様!
まるでラドゥのように懐いてくれた従弟だった。
俺にとって数少ない無条件の信頼を寄せられる人間の一人でもある。
シュテファン…………頼むから生きていてくれ………!
このモルダヴィアを、今後絶対にお前を害することのない国に造り替えてみせる。
だからこの俺を置いていくな!
「…………私は従兄様を信じていますから………」
唐突に俺の脳裏に蘇るシュテファンの言葉があった。
あれは――二年前、まだシュテファンが十一歳だったときのことだ。
ボクダン二世を訪問していた俺は、シュテファンに城内を案内されていた。
日ごろの教育が厳しいのか俺が贈ったルービックキューブに涙を流したり、五目ならべを教えたらえらく感激していたがよほど遊びに飢えていたと見える。
そんななか、シュテファンがスチャバの城内にある鐘塔を指差して言った。
「従兄様、あの鐘の部屋から見る景色は最高なのですよ! 僕だけの秘密なのです!」
「……あんだけ高ければそりゃあ見晴らしもいいだろうけど……どうやって昇るんだよ」
「機械室から鐘のロープを昇っていけばすぐですよ?」
「機械室って、どこの曲芸師だ! お前は!」
「内緒ですよ? 従兄様だからお話したんですから………絶対ですよ?」
そう気がついたら俺は無意識のうちに駆け出していた。
ボクダン二世が暗殺されてから一週間………非常食でもないかぎり生きている可能性はそう高くない。
だがおそらく、鐘塔はシュテファンの隠れ家だ。
たまに城を抜け出してくつろぐために、好物を隠しておいても不思議ではあるまい。
現に俺も子供の頃に同じようなことをした覚えがある。
太い鐘のロープをよじ登りだすと、ネイたちが口々に「殿下、お止めください!」と叫ぶ声が聞こえてきたが構っている余裕はなかった。
それにロープのぼりは俺のガキのころの得意技だった。
ああ、やはりいた。
鐘の周囲を囲む壁に寄りかかるようにして、やつれ果てた顔をしたシュテファンが待っていた。
「ああ………従兄様……やはり来てくれたのですね」
「もう少しましな場所を思いつけ! 俺が気がつかなかったらどうするつもりだったんだ!」
「大丈夫ですよ………従兄様なら気づいてくれると思っていました………」
「この馬鹿野郎……」
羽のように軽くなったシュテファンを背負いながら、不覚にも俺は涙が溢れるのを止められずにいた。
大丈夫、俺を信じてくれる家族がいるかぎり、俺はまだ人間でいられる。
たとえ立ち塞がる敵には悪魔の化身のように思われようとも。
「急いで典医を呼べ! 水と重湯を用意しろ! シュテファンを寝かせるベッドの用意もだ!」
「殿下、私が替わりに背負いまする」
ネイの言葉を俺は右手で制した。
「よい、 これは俺の仕事だ」
シュテファンがベッドに身を横たえ、食事をすませて眠りにおちるまで、俺はシュテファンの傍を離れるつもりはなかった。
そんな光景を見せつけられたアンジェリーナは混乱の極にいた。
人の心を掌に弄ぶ悪魔のようなヴラドと、シュテファンの無事に涙を流すヴラドが全く接続しないのだ。
それでいて、ひどくシュテファンをうらやましいと感じる自分がいた。
いったい自分はどうしてしまったというのか?
ワラキア公はいったい何者なのだ?
「全て何もかも救えるのは神だけだ」
まるで迷子の幼子を諭すような口調でヘレナが言った。
「我が夫は神ではないゆえ、犠牲なしに何かを救うことはできない。しかし救うために汚名を着ることをためらわない。そういうお人だ、我が夫は」
「私は………あの方を見誤っておりました。恐ろしい方だと。人の心を弄ぶ悪魔だと」
まさかヴラドが他人のために身を投げ出せる人だとは想像すらできなかった。
「まあ、我が夫にそこまで愛されているのはほんの一握りではあるがな」
アンジェリーナはヘレナの言葉に挑発の響きを感じ取った。
げに恐ろしきは女の情念なのだった。
ならばよい。私もその一握りになって見せよう!
「ふふふふ……アルバニアの掟に戦わずに引き下がるという選択肢はないのですよ」
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