第57話 再始動

 間一髪の再会から、俺はほとんど丸一日熟睡していたらしい。

 48時間近く一睡もせず馬を飛ばしていたのだから当然とも言える。

 途中で山賊紛いに農民を脅して馬を略奪してきたうえ乗りつぶしてしまったし、後で補償してやらないといけないだろう。

 ところでさも当然のように俺のベッドにもぐりこんでいるこのお子様をどうしたものだろうか。

 少し会わない間に身体の曲線がまた少し大人に近づいたような気がするのは俺の気の迷いだろうか。

 体臭も子供臭いミルク臭さが抜けて、どこか華のような甘い香りを漂わせるヘレナに俺は理性が徐々に浸食されつつあることを自覚した。

 可愛いじゃねえかこんちくしょううううう!!

 ヘレナが目覚めるまでの一時間ほどを、身動きが取れず悶々とする俺であった。

 ザワディロフの謀反の失敗は、ワラキアにおける貴族の抵抗にとどめをさしたと言っていい。

 ヴラドを倒すのにこれほどの機会は二度と訪れないだろう。

 にもかかわらずザワディロフは失敗した。

 そしてザワディロフを見捨てた貴族たちはこれから先なんらかの機会があったとしても、より確実な機会でなければ動けまい。

 さらに副次的な効果として、トランシルヴァニアの貴族たちが一斉に恭順してきたため、モルダヴィアを狙うポーランドに備えるための予備兵力の抽出が可能となった。

 やはりヤーノシュの存在がトランシルヴァニア貴族にとって、解放のための唯一の支えであったのだ。

 強国ハンガリーの壊滅とトランシルヴァニアの恭順。

 老獪なポーランド王カジミェシュ4世が、いかにモルダヴィア侵攻に意欲を燃やそうとも、無理な敵対行為は差し控えることになるだろう。

 それにしても驚いたのはハンガリーでのベルドの見事な手腕である。

 とりあえず現状維持をしてくれれば十分だと考えていたはずが、ヤーノシュ一派を粛清し、さらに汚名をマルクトに着せて処分するとは、同じことを自分も考えていたとはいえ驚愕の念を禁じえない。

 子供だ子供だと思ってきたが、いつのまにかベルドも免許皆伝ということか。

 ハンガリー貴族に俺の不在が不審に思われないうちに、ブダに行って褒めてやらんといかんな。

 食事もそこそこにブダへ戻ろうとトゥルゴヴィシュテを出立しようとした俺であったが…………。

「ところで……そこにいられると俺が動けんのだが?」

「妾を連れていくというまでは絶対にここから動かぬのじゃ!」

 俺の膝のうえでいたくご立腹の様子のヘレナが、梃子でも動かぬとばかりに腰に手を回していた。

 こういう態度そのものはまだまだお子様なのだがな。

「いや、だからね? これから行くブダは敵の真っ只中なわけで。ヘレナにこれ以上危ない思いをさせたくなくてだね?」

「危ないのはどこでもいっしょじゃ! それに……妾はもう我が夫から絶対に離れぬと決めたのじゃ!」

 スリスリと子犬のように頭を胸にこすりつけるヘレナの姿にクラクラと眩暈にも似た症状が俺を襲う。

 まさかこの俺がこの言葉を使う日がこようとは!

(――――俺を萌え殺す気か!)

 ザワディロフの反乱から間一髪生き延びて以来、ヘレナは俺にべったりで離れようとしなかった。

 天使のように可愛いヘレナにまとわりつかれるのは男として悪い気はしないので放置していたのだが、まさかブダまで同行すると言い出すとは。

 ヤーノシュに勝利した現在、ワラキアにおける脅威は限りなく小さくなったはずであった。

 もちろん毒殺やテロの可能性がないわけではないが、どこもかしこも敵だらけであった先ごろとは事情が違う。

 だがブダとなればそうもいかない。

 先王ヤーノシュを殺したのは何といってもヴラドなのであり、その後のマルクトの悪政もワラキアに非なしとは言えないのである。

 むしろ実情を考えればすべてはワラキアの思惑通りに進んだといえる。

 政治を見通す目をもったものであれば、その真実に気づいていてもおかしくはなかった。

 そんなところへヘレナを伴うのはさすがの俺でも容認することはできなかった。

「我ままを言わないで。今度はある程度兵も残していくしブダはこことは比較にならないくらい危険なんだから」

「でも我が夫は、その危険な場所に行くのではないか! 妾を置いて!」

 自分の知らない場所でヴラドが死んでしまうなど想像しただけでも身が凍る思いである。

 まだ自分は何もしていない。この気持ちを何一つ伝えていない。 

 あの生と死の挟間で自覚したヴラドへの思いは、ヘレナの中で消化不良のまま澱のようにたまり続けていた。

「そ、それに妾はまだ我が夫に……その、つ、伝えていないことが」

 どんどん尻すぼみになっていく自分の声を不甲斐無く思いつつも、ヘレナは瞬く間に頬が熱く血が勢いよく頭に上っていくのを抑えることができなかった。

 そんなヘレナを、柱の陰からサレスが腕を回して応援している。

 磁器のように白いヘレナの顔が、まるで林檎のように真っ赤に染まっていった。

 天才と呼ばれり聡明な頭脳も、ローマ皇帝の高貴な血も、初恋という障害の前には全くと言っていいほど役に立たない。

「何? 何かあった?」

「う、うるさいのじゃ! 女の我儘くらい叶えてやれぬと我が夫の器量がしれるのじゃ!」

 再び癇癪を起してヘレナはヴラドに抱きついた。

 こうなると意地になったヘレナを説得することは不可能だ。

 無理やり置いていくこともできるが、下手をするとあの侍女といっしょに城を抜け出して追いかけて来かねない。

 困ったことにそうするだけの実行力が、あの暗殺者あがりのおかしな侍女にはあるだろう。

 そんなことになるくらいならまだ一緒に連れて監視していたほうがましである。 

 それに心のどこかで、ヘレナについてきてほしいという気持ちもあるというのが嘘偽らざる本音でもあった。

 ヘレナがザワディロフに殺されているかもしれないと知ったあの時の絶望感を今でもまざまざと覚えている。

 この世のすべてが色を失って、何もかも破壊してしまいたいという衝動にかられた憎悪とも怒りともつかぬあの感情を。

 いつの間にかヘレナは仲間以上に大切な俺にとっても家族の一人となってしまっていた。

 いつからだろう? 彼女の天才を知ったときか、はたまた夫と呼んでくれたときなのか、あるいは初めて彼女の美貌を見たときか――――。

 今はまだ妹以上恋人未満といったところだが、あと数年ほどヘレナが成長した暁にはそのときには本当の意味で夫婦となるときが来るのだろうか。

「俺の傍から離れるんじゃないぞ?」

「う、うむ! 望むところなのじゃ!」

 パッと花が咲いたように微笑むヘレナの頭を撫でる俺の視界に、なぜか計画通り、とばかりに口の端を吊り上げる侍女の姿が映った。

 ―――――もしかして全て作戦通りか?

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