第56話 悪魔(ドラクル)の弟子

 ヴラドが去った後事を託されたベルドは責任の重さを感じつつも、湧き上がる高揚を抑えきれずにいた。

 何よりヴラドが自分を頼ってくれたことがうれしい。

 自分がヴラドのもとでどれほど成長することができたのか。果たして自分はヴラドの側近に相応しい実力を身につけることが出来たのか。

「シエナ様、ご協力をお願いします」

「無論、全ては大公殿下のために」

 もともと勝利のあとにはハンガリーを占領するつもりであったヴラドは、シエナ率いる多数の情報員を軍勢に同行させていたのである。

 誰よりも自分は殿下の近くで殿下の考えも策略もつぶさに見続けてきた。

 あとは受け継がれた力を信じるのみ。

 ベルドは負傷者を護衛とともに送り返し、二千まで減った軍を引き連れ一路ブダを目指した。

 ヤン・イスクラに対する抑えを残し、ほぼ全力を十字軍に注ぎ込んだハンガリーにはもはやまともな戦力は残されていなかった。

 首都であるブダもまたその例外ではない。

 それでもわずかに残された軍部は抵抗するために市民から志願兵を募ったが、反響は乏しいものであった。

 ここでヴラドの串刺し公という異名が劇的に効果を発揮したのである。

 もちろんそれはシエナの配下がヴラドが残酷な君主であると同時に、敵対しないかぎりにおいては寛大な君主であるという流言を広めた成果でもあった。

「今こそ正道に立ち返れ! 反逆者フニャディ・ヤーノシュのくびきから解き放たれるときは来たのだ!」

 喜色満面で声を張り上げているのはヤーノシュとの権力抗争に敗れ暗殺されたバルドル公爵の息子マルクトである。

 4男である彼は本来どこかの貴族に養子に出されるか官僚として自ら出世を争わなければならない立場にいたが、粛清によって一族の兄が全て殺されてしまったために国王の従兄弟にあたる公爵家の唯一の生存者となってしまった。

 一時は一族の不遇と自らの不幸を呪ったが、ワラキア大公がヤーノシュと対立するなかで、彼は運よくハンガリー王国を主導すべき立場を手に入れた。

 災い転じて望外の好機となったわけである。もちろんそれは彼が信じる限りにおいてではあるが。

 わずか二千ながら統制のとれたワラキアの精兵と串刺し公の恐怖、さらには反ヤーノシュ派が恭順に動いている状態で抗戦を続けるのは、さすがのハンガリー王国軍であっても不可能であった。

 ヤーノシュへの忠誠の深かった一部の軍人が立てこもる動きを見せたものの、市民によって内から城門が開かれると、たちまち彼らはワラキア公国軍によって駆逐された。

「おおっ! おおっ! またこのブダに戻れる日が来ようとは!」

 マルクトは感激にむせび泣いた。

 幼いころから王族に近しい公爵家の一員として、蝶よ花よと育てられた記憶はマルクトの人生でもっとも幸せな記憶であった。

 かつての栄華は失われてしまったが、今の自分にはかつてを凌駕するほどの栄華を築ける可能性すらあるのだ。

「マルクト様」

「おお、ベルド殿か。この度の助力感謝いたす!」

「全ては大公殿下の思し召しでございます――――ですがまだご安心なされませぬよう。まだまだヤーノシュ公に心酔していた貴族は多くマルクト様を敵視する貴族もまた多うございます。我が大公殿下はハンガリーと敵対することを望んではおられません。しかしハンガリーがワラキアを敵に回したいのならば今度こそ殿下の鉄槌が下されるでしょう」

 暗に再侵攻と処刑を匂わせるベルドの言葉に、マルクトはブルリと背筋を震わせた。

 そう、ヴラドは何も慈善事業でマルクトを助けてくれたわけではない。

 マルクトがハンガリー国内の親ワラキア勢力を結集させ、ワラキアにとって友好的な隣国を誕生させるためにこそマルクトは助けられたのである。

 目的の果たせぬ役立たずとわかったときにはどうなるか、

 ヴラドに敵対して命を失った数々の貴族たちの運命を思って、マルクトはそれが決して自分と無縁ではないことを自覚した。

「か、必ずやご期待にこたえて見せますと殿下にお伝えいただこう!」

 声を震わせながらも虚勢を張るマルクトにベルドは恭しく頭を下げた。

「もちろん殿下はマルクト様にご期待されておられますとも。……お互いのために」

 心の中では全く逆のことを考えながらベルドは微笑する。

 傀儡は傀儡らしく上手に踊ってもらわなくては――――そうでしたね? ヴラド様?


 ハンガリー王宮にかつてヤーノシュに粛清された貴族たちが復権するとその報復は熾烈を極めた。

「このヤーノシュの犬め!」

 ヤーノシュの政権で中枢を担ってきたものたちが、次々と粛清されその多くはブダの郊外で磔の刑に処された。

 復讐の快感に酔ったマルクトたちは、婦女子も容赦なく磔にしてその死にざまを酒宴を開きながら歓声をあげて見守ったという。

 当然庶民の風評は最悪であり、マルクトたちがハンガリーの政権を担っていくことに深刻な社会不安が醸成されつつあった。

 さらに行政の実権を握ったマルクトは、処刑した貴族の資産を没収するとともに増税を実施し、ヤーノシュが軍事費をねん出するため痛めつけたハンガリー国民にさらに負担を押し付けていく。

 マルクトの政策に反対した良識ある官僚は、全て罷免されるか処刑されていった。

 中にはハンガリーに見切りをつけて辞職する官僚たちもいたが、その者たちの多くはなぜか豊富な資金を持ち、国外に移動することなく自宅で悠々自適な生活を送っていた。

「策のためとはいえ、せっかくの有能な持ち駒を失わせるのは非効率的というものです」

 顔色ひとつ変えずにシエナはそう呟く。

 こんな茶番がいつまでも続くはずがない。いや、自分が続けさせはしない。全てはヴラドが戻るまでの時間稼ぎにすぎないのだから。

 そのために速やかなハンガリーの占領と掌握のために、有能な官僚はいくらいても足りはしないのだった。

「―――――どうやら全てはうまくいったようです。殿下も妃殿下もご無事で休息中、明日にはトゥルゴヴィシテを発つとのこと」

 腕木通信の内容を一読したベルドが相好を崩した。

 ヴラドがザワディロフごときに負けるとは思わなかったが、ヘレナの無事だけが心配だった。

 神のごとく尊敬するヴラドだが、どこか細く頼りない糸でしかこの世界と繋がっていないような危うさをベルドは感じている。

 おそらくヘレナは、ラドゥ以外で初めてヴラドを繋ぎとめる碇となりうる人物であった。

「そろそろ用済みということですか」

「殿下が到着する前に片づけて置きましょう」

 あっさりとベルドはシエナに答える。

 マルクトは実に良い仕事をした。

 ヤーノシュの息のかかった貴族を粛清し、国民と官僚にハンガリー王家に対する信頼を完全に失わせた。

 改革を標榜するヴラドがハンガリーに善政を布けば、たちまち国民はヴラドを歓呼の声で賞賛するだろう。

 そのために傀儡は出来る限り即物的で馬鹿な男でなければならなかった。

「それにあの男、オーストリアのフリードリヒ3世と交渉を始めているようです。いつまでも我が国の傀儡でいるつもりはないらしい」

「なるほど、同情する価値もないというわけですね」

 暗くベルドは嗤い、シエナは相変わらず無表情のままワインを飲みほした。

「全ては予定通りに」

「お任せを」



 ベルドとシエナの間でそんな会話が交わされているとは露知らず、マルクトはわが世の春を謳歌していた。

 ヤーノシュに尻尾を振っていた連中は大半が粛清されるか権力を失い、ハンガリー宮廷の主要なポストはあらかたマルクトの血族と縁者によって固められていた。

 軍事的にはワラキアに屈服したような状態だが、増税で得た資金で軍を再建すればもともと国力に勝るハンガリーは、いずれかつての栄光を取り戻すであろう。

 それまでの間は神聖ローマ帝国を利用してワラキアに対抗するのも選択肢のひとつだ。

 落ち目であるとはいえ神聖ローマ帝国の権威と底力は欧州世界に冠たるものである。

 成り上がりのワラキアが、正面から対抗することは難しいに違いない。

 ハンガリー王国そのものが地上から存在を消されようとしているのに、マルクトはその現実に全く気づいていなかった。

 フリードリヒ3世がハンガリーを帝国に取り戻そうとしていることすら気づいていない。

 彼の頭にはフリードリヒ3世の後援を受けて、新たなハンガリー国王に即位する極彩色の未来図しかないのである。

「そのためにもまずは余の親衛隊を整備しなくてはな」

 現在ブダの治安維持は駐留しているワラキア軍に頼っているが、マルクトが信頼できる親衛隊が整備できれば、それを理由にワラキア軍の撤収を依頼するつもりであった。

 さすがにワラキア軍の懐の中で、神聖ローマ帝国や教皇庁と連絡を取りあうの精神衛生上よいものではない。

 マルクトは苦笑いを浮かべて練兵場へと足を運んだ。

 「この者たちが騎士候補か」

 「はい。いずれ劣らぬ剛の者でございます」

 マルクトの前に見事な体躯の若者たちが並べられる。

 親衛隊候補として、縁者たちに推薦させた信頼できる若者たちである。

 彼らが自分に忠誠を誓い、手足となって戦うならばワラキアとて恐れるに足らないのではないか、そう思わせるほどに素晴らしい若者の雄姿にマルクトは満足そうに笑みを深めた。

 そして激励の言葉を与えようと彼らに近づいた瞬間。

「我が一族の仇! 思い知れ!」

 1人の少年が体当たりするようにマルクトの腹部へ深々と剣を突き刺していた。誰も止める猶予もないあっという間の出来事だった。

「ば、馬鹿な! そんな馬鹿な!」

 こんな馬鹿な話があってたまるか!

 これから、我が栄華はこれからではないか!

 ようやく至高の座に手が届くところまで来たのに、こんなところで死んでたまるか!

「この剣には毒が塗ってある。万が一にも助からぬよ! 精々絶望して死ぬがいいさ!」

 そう言った少年は、満面に笑みを浮かべて剣を引き抜くと自らの頸動脈へ刃を向け一気に剣を引き下ろした。

 噴水のように血しぶきがあがり、甲高い哄笑したままゆっくりと少年はあおむけに倒れる。

 満足そうに息を引き取った少年とは対照的に、マルクトは赤子のように泣きわめき助けを乞うていた。


「いやだ! いやだああああ! 死にたくない! 誰か、誰か余を助けよ! なんなりと褒美をとらす! 余を殺す……な」

 ゴフリとひと際大きく口から血を吐きマルクトは絶命した。

「誰だ? この男を推薦したのはいったいどこの家のものだ??」

 しかしその問いに答えられる者はいなかった。

 どうやら集合に遅れてやってきた少年を、誰も見覚えがないにもかかわらずその堂々とした態度と見事な体躯のために、誰も疑問に思わず隊列に加えてしまったらしかった。

 後に判明したところによれば、マルクトに族滅させられたノブレ家の遺児である少年は城の後宮から内部に潜入し、偶然にも衛兵に出会うことなく練兵場へ向かい、運悪く全ての騎士候補の審査を終えて休憩のため無人となっていた受付を通り抜けて練兵場の列に加わったらしかった。

 あまりに不幸な偶然が幾重にも重なった結果に、誰もがマルクトの非道を思い出し、自業自得であると噂した。

 しかし不幸とは往々にして人為的なものであることを知っているものは、その背後の意思を想像して戦慄したが、賢明にも誰も表立って口に出すことはなかった。

 そんなことをすれば今度は自分たちに不幸な偶然がやってくることを彼らは知っていたからである。

 マルクトの死は新たな政治の季節の到来であった。

 次期国王にもっとも近い男が死んだ以上その代わりになるものが必要であるはずである。

 自分こそ新たな指導者に相応しいと思う野心家が頼ったのは、現在ハンガリーを実効支配するワラキア軍にほかならなかった。

 ワラキア大公の支持を受けた者こそが新たな王に近づく。

 先を争うように貴族たちは駐留ワラキア軍の宿舎に押しかけたのである。

「何卒大公殿下に取り次いで下され」

「貴様はひっこんでいろ!」

「わ、私は大公殿下のためならば国土の割譲も……」

「この売国奴め! そこまでして王位が欲しいか!」

「お黙りなさい!」

 静かだが有無を言わせぬベルドの声に貴族たちは言い争いを止めた。

 取るに足らぬ子供だが、ベルドはワラキア公の側近であり寵臣である。彼の機嫌を損ねればワラキア公の支持はおぼつかないのだ。

「さきほど大公殿下より通信がありました。謹んでお聞きなさい」

 ワラキアが腕木なるもので情報をやりとりしていることをほとんどの貴族は知っている。

 国境からブダまでの間に新たに三つの腕木が、昼夜兼行で建設されていたからである。

「余はハンガリーがワラキアのよき友であることを願いマルクト殿を支援した。しかしそのマルクト殿を醜い権力争いで殺すにいたったのは事実上ワラキアへの宣戦布告である。余はハンガリーを友とすることを諦め、自らこれを統治することを決意した」

「そんな!」

「このハンガリー王国を滅ぼすおつもりか!」

 激昂する貴族たちに向かってベルドは高々と右手をあげる。

 同時にネイとタンブルが率いるワラキアの精鋭部隊が、貴族たちを包囲するように完全武装で宿舎に整列した。

「殿下は貴方方に失望しておられます。さらに失望されることを望むならそれも結構、殿下の手を煩わせることもなく今ここで殺してさしあげる。失望させぬために何をすればよいか考えるものは幸いです。それこそが自らの命を救いよりよい将来の扉を開くでしょう」

 理不尽なベルドの物言いに怒りが募るが、悲しいかな軍事力という後ろ盾のない彼らに抵抗するという選択肢はなかった。

 逆らえば死あるのみ、という現実をようやく彼らは認識した。

 そして力なく床に膝をつき貴族たちは次々とベルドに向かって頭を下げた。

「我ら大公殿下の御ために忠誠を尽くしまする」

「良い判断をなさいました。きっと殿下もお喜びになることでしょう」

 もはやそこに若すぎるヴラドの寵臣はいない。

 悪魔的な策士が罠に落ちた獲物を眺めて、美味しそうに舌舐めずりする姿があるだけだ。

 ヴラドの創業の家臣として、子供のころからベルドを見守り、どこか兄貴分を自認している風のあるネイとタンブルはさすがに顔色を青くして顔を見合わせた。

「怖っ!」

「悪魔の弟子はやはり悪魔だってことか。金輪際あいつには逆らわんぞ俺は」

 同僚の隠し持っていた牙の鋭さに、冷や汗を浮かべるネイとタンブルをよそに、シエナは誰にも聞かれぬよう呟きを漏らしていた。

「――貴女はそれでいい……殿下にとっても、貴女にとっても」

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