第48話 煉獄の戦い3

「――どうにか間にあったか」

 額の冷や汗を拭い、俺は安堵のため息を漏らした。

「走れぇ! 走れぇ! 後ろなんか気にするな! 走れぇ!」

 ゲクランの頼もしいダミ声が聞こえてくる。

 正直彼の奮闘がなければここまで無事に後退してくることは難しかっただろう。

 決して崩れぬ巌のように、十字軍の大軍を前に立ちふさがり続けた彼の手腕には感嘆の念を禁じえない。

 当初から正面決戦で勝ちきれないことはわかっていた。

 だが、こちらが最初からがちがちに守りを固めていればヤーノシュはそれを無視して後方へと機動してしまう。

 ならば戦端を開き散々損害を被った後ならどうか? 

 陣地戦を避けて転進しることは可能だろうか?

 戦場を最終的に支配したものが勝者とされるならわしによれば、今十字軍が撤退するという選択肢はとれない。

 ――それは敗北を自ら認めることと同義であるからだ。

 ヴラドの思惑にヤーノシュも気づいた。

「悪魔め! 最初からこれを狙っておったか!」

 目を剥くようにして怒号するヤーノシュの視線の先には、起伏はおよそ二十メートルにも及ばないなだらかな丘を目隠しに利用した、簡易な濠と有刺鉄線によって構築されるワラキア得意の野戦陣地が控えていたのである。

 濠を超えて予備の手榴弾を補給したゲクランたちは、すぐにも座りこみたい猛烈な疲弊感と戦いながら、なお顔だけは豪快に笑い拳を高く天に突上げた。

「どうしたい? 今ならケツまくっても見逃してやるぜ? おえらい騎士様よぉ!」


 ―――――――してやられた。

 ヤーノシュはようやくヴラドが、無謀とも思える出戦にうって出た意味を悟った。

 最初から奴らは正面決戦などするつもりはなかったのだ。

 こちらが分進合撃によって拠点防御を無効化しようとしたのに対し、彼らは迎撃遅滞戦術と野戦防御を組み合わせることで対抗したのである。

 その意味で、この戦いは最初から最後までヴラドの描いた絵図どおりに動いていた。 

 何よりその事実がヤーノシュのプライドを打ちのめした。

 欠乏していた弾薬を補給したワラキア軍から激しい銃撃音が響き渡った。

 十字軍のもっとも強力な攻撃手段である騎兵部隊は、有刺鉄線の手前で立ち往生しているところを次々と狙撃されみるみるうちに損害は拡大していった。

「全軍、一時集まれ!」

 ヤーノシュは決然と断を下した。

 もはや区区たる損害は考慮に値せず。

 今はただ味方の屍のうえに悪魔の息の根を止めるのみ!


 ヤーノシュはすぐさま全軍を本陣を中心に集結させた。

 尋常な手段ではあのワラキアの野戦陣地を突破できないことをヤーノシュは十分に承知していた。

 だからといってここで撤退などすればもはやヤーノシュの政治生命は尽きる。

 ただでさえ莫大な損害を出し、対立教皇まで担ぎ出した政治的冒険が失敗に終われば彼がその責任を取らされることは明白であった。

 いくらヤーノシュが傑出した政治家であり軍人であっても、敗北を積み重ねてその地位にとどまれるほどこの世界は甘いものではない。

 生き残るには勝つしかなかった。

 いかなる損害を蒙ろうと、ここで片腕、片足を失うことになろうとも、ヴラドの首をあげる以外にヤーノシュが生きる道は残されていなかったのだ。

「父上! このうえは私も先陣にお加えください!」

 そこには覚悟を決めた戦人の顔をした息子が、埃に塗れながらもその秀麗な美貌を輝かせて立っていた。

 ――――惜しいな。ラースローも一皮剥けたというのに。

 ほぼ十中八九まで助からないと考えているだけに、ヤーノシュは一瞬躊躇したが、それも一瞬だけのことであった。

「よかろう。父の名を辱めるなよ」

「我が命に誓って!」

 このラースローの直情的な性質は母に似たものだろうか。

 王都に残してきたマーチャーシュのほうが政治家としての自分の血は濃いのかもしれない。

 そう思いながらも、ラースローの益荒男ぶりが父として誇らしいのもまた事実であった。

「ならば征くか」

「はいっ!」

 ヤーノシュを中心に十字軍、とりわけハンガリー兵はまだまだその戦意を失ってはいない。

 十字軍がその集団密度を高めていくのを、俺はある種の感慨をもって見つめていた。

 ―――――ヤーノシュ公よ、貴方は正しい。

 すでに日がやや西に傾きつつある今、戦いを放棄することのできないヤーノシュが確実に勝利を望むなら、味方の損害を度外視した一斉飽和攻撃以外にはなかった。

 陣地に拠ったとはいえ、兵数で圧倒的にワラキアが劣るのは事実。

 ならばワラキア兵が対応不可能な数と密度で、一気に陣地を突破してしまうのが最良の戦術であった。

 有刺鉄線を軍馬の死体で乗り壊し、塹壕を味方の死体で埋めて一気にワラキア兵の死命を制する。

 肉を切らせて骨を絶つ……そんな意味の言葉があるいはこの東欧にもあるのかもしれなかった。だが。

「私は貴方が正しい判断をすることが予想できた。ゆえに……貴方の負けです、ヤーノシュ公」

 この戦いは本当はこの陣地に到着する前に、いかにしてワラキア軍を敗退させるかにかかっていたのだ。

 もしこの損害度外視の自爆攻撃が、もう一時間前に行われていればヴラドの命はなかったに違いない。 

 ヤーノシュは優れた戦術指揮官であったゆえに、追い詰められるまでそうした外道の統帥に手を染めることをよしとしなかった。

 倒すべき敵であったとはいえ、紛れもなく当代の英雄であり、命を賭けるに相応しい雄敵であった。ほんの一瞬、俺はヤーノシュのために瞑目した。

 再編を終え、最後の突撃に移ろうとした十字軍に向けて、俺の右手が振り下ろされた。

「いったいなんだ? 何が起きた?」

 突如としてワラキア軍の目の前に、轟々たる炎が壁となって立ち塞がったことに突撃に移ろうとしていた十字軍兵士は惑乱した。

 いかに勇猛無比な神の兵士たちも、さすがに自ら炎に身を投げ出すのはためらわれたからだ。

 よく見れば荷馬車から、濠に向かって油らしきものが滾々と流し込まれている様子であった。

(――――――この期に及んでなんという卑怯な!)

 どこまでも武人の戦いというものを愚弄してくれる! ヴラドよ、お前には騎士の誇りの一片すら理解できぬのか!

 ヤーノシュの憤激も長くは続かなかった。

 燃えあがった炎の壁は、草原をなめるように十字軍を取り囲もうとその魔手を伸ばし始めたのだ。

 急いで逃げようとするには十字軍はあまりに密集しすぎていた。

 混乱が混乱を呼び、怒号が交錯するなか、ヤーノシュ率いるハンガリー王国の主力は一辺を600mとした巨大な炎の輪の中に閉じ込められたのである。

 ほんの数十センチほどの溝ゆえに、この罠をヤーノシュたちは完全に見落としていた。

 困惑の極に達した兵士の一人が、覚悟を決めて炎の中に身を躍らせる。

「ぐぎゃああああああああ!!」

 魂切る悲鳴が兵士の末路を知らせた。

 ほんのわずかない間、炎を消そうと兵士は地面を転げまわって暴れたがすぐにおとなしくなり、その後は指一本すら動かすことはなかった。

 ようやくにしてヤーノシュたちはこれがただの炎でないことに気づいた。

 ヴラドが戦場に投入した油の正体は精製したナフサである。

 通常の炎より遥かに高温で燃焼するナフサの炎に焼かれて、防火服の存在しないこの時代の人間が生き残ることは難しかった。


「こんなものが戦と言えるのか!」

 追い打ちをかけるようにワラキア軍から焼夷弾が投擲され、銃兵たちが射撃を開始する。

 オスマン朝を相手に獅子奮迅の働きをした精鋭の重騎兵も、炎の重囲のなかではただの良い的にしかならなかった。

 頭の血管が擦りきれそうなほどの怒りに全身を苛まれながらヤーノシュは独語する。

 戦?

 こんなものが戦?

 神の恩寵をたたえるべき聖なる戦が、こんな理不尽な暴挙によって穢されてよいものか!!

 異教徒であるオスマン兵のほうが貴様の万倍も男らしく立派な戦士だった。ヴラドよ、貴様はいったい何者なのだ?

「――父上、最後のご奉公をして参ります」

 そういってラースローは近習の騎士とともに正面にむかって突撃を開始した。

 退路がない以上進むより法がない。もともと味方の人馬の死体を乗り越えてヴラドの喉元に剣を突きたてるはずではなかったか。

 ならば今死すべきは自分の役割である、とラースローは卒然と悟ったのであった。

「お前は我が自慢の息子であった」

「何よりのお言葉、ありがたく頂戴つかまつります。ではおさらば!」

 遠ざかっていく息子の背中にまだ戦いが終わっていないことをヤーノシュは自覚した。

 何よりこのまま一矢報いることなく敗れるのは、ヤーノシュの矜持が許さなかった。

「よいか! 我らに進路あれども退路なし! 生きる道はあの異教徒どもの向こうにあると知れ!!」

 炎の壁によって分断された傭兵たちは残らず逃げ散っていたが、それでもなおヤーノシュの手元には精鋭のハンガリー軍五千が残されていた。

 彼らの死体を積み上げ、その身体を盾にすればあの炎の壁を突破することは出来る。 

 たとえ外道の統帥とよばれようと、このままあの悪魔を放置することはできなかった。

 もしも自分に与えられた天命があるとすれば、今、奴の命を奪うためにこそ自分は今まで生きてきたのだ!

「我に続けええええ!」

「おおおおおおおおおおおおっ!!」

 勇将の下に弱卒なしという言葉に嘘はなかった。

 灼熱の地獄に向かってハンガリー軍は怒涛の進軍を開始した。


「敵ながら大したもんでさぁね」

「天晴れといいてえところだが……それも結局は大将の読みのうちよ」

 迫りくる騎兵の地響きを感じながら素直に感嘆するレーブを見て、ゲクランは内心で若いな、と笑った。

 ヤーノシュは逆方向に逃げるべきだった。

 少なくとも味方の犠牲を気にしなければ間違いなくヤーノシュは逃げ切れたはずだった。ワラキア軍に追うべき戦力はないのだから。

 ヤーノシュほどの男であれば、一時は権力を失っても、再びただ一介の傭兵隊長に身を落としたとしても、各国がもろ手をあげて歓迎してくれることは確実であっただろう。

 彼は彼自身の矜持と名誉という不確定なもののために、分の悪すぎる賭けに出なくてはならなかったのだ。

「なんというかまあ、見事だわな。ならここは俺らも気張って最後を飾らしてやろうかい!」

 炎の壁といってもその幅は1メートル程度の貧弱なものであって、騎馬に慣れたものならば飛び越えられそうなのだが、炎の壁の向こうには柵と逆茂木が設置してあるためまともな方法で乗り越えることは不可能に近かった。

 ヤーノシュの息子であるフニャディ・ラースローは、最初から助かろうという前提を捨てていた。

 思えば自分がトランシルヴァニアで惨敗したことがこの現状の遠因でもある。

 こうして父とヴラドの戦いの中に身をおけば、自分がいかに未熟な存在にすぎなかったかを実感出来て背筋の寒くなる思いである。

 ―――――及ばずながら父のために死ぬ。武人の本望である。

 のちの世に、戯曲フニャディ・ラースローに謳われるラースロー一世一代の突撃が始まった。

「突撃いいいいいいいい!!」

 馬を駆り疾走状態から思い切り馬腹を蹴る。炎を前に一瞬膝を折って前足に力をためた愛馬が高々と宙に舞い上がった。

 立ちはだかるように設置された木柵と逆茂木が近づいてくる。

 しかし急ごしらえの柵では、天から降ってくる巨大な馬の体重までは支えられない。

 いささかも速度を緩めることなく、ラースローは馬ごと木柵にぶちあたっていった。

 巨大な質量に体当たりされた柵はたまらず後ろ向けに倒れる。

 ラースローとその配下は、身体を賭して炎の壁に一穴を穿って見せたのだ。

「悪魔に組するものよ! 神の戦士の覚悟を見よ!」


 横倒しになって絶命した愛馬の首を愛おしそうに撫でるとラースローは剣を杖にしてヨロヨロと立ち上がった。

 不屈の闘志を露わにする若武者に敬意を表してゲクランは瞑目する。

 そして眩い閃光のなかにラースローの身体は永久に消滅した。


「先に逝ったか、息子よ」


 数にものを言わせた騎兵の特攻は確かにワラキアの堅陣を穿ったかに見えた。

 しかしそのようやく見えた希望は、穿たれた柵の向こうから放たれるふた筋の火流―――――それがなんであるのか、ヤーノシュは知識として知っていた。

 すなわち、ギリシャの火(火炎放射器)にほかならぬ。

 本来海上戦で使われるローマ帝国の秘匿兵器を、ヴラドはこともあろうに野戦に持ち込んだのであった。

 神話の悪竜から放たれる炎のブレスのような火炎が原初的な恐怖を呼び起こし、身を焼かれる騎士たちの肉の焦げる匂いが充満してさすがの神の兵士たちも精神の限界を超えた恐怖に錯乱するものが続出した。

 もはや組織だった抗戦が不可能となったことをヤーノシュは悟った。

「恐れるな! 我が忠勇なる兵(つわもの)たちよ! 神のために命捨つる名誉は今ぞ!」

 悪魔め

 悪魔め

 悪魔め

 今は勝ち誇っているがいい

 しかし今にきっと神罰が貴様の頭上に下されよう。

 暗黒地下で主のお裁きを受けるのは誓って悪魔である貴様なのだ。

 そのときこそオレは永遠の煉獄に落ちる貴様を存分に嬲り嘲り嗤ってくれる。

 その日を楽しみに待っているぞ!

「ハンガリー国王フニャディ・ヤーノシュの最後を見よ!」

 馬上で剣を掲げるヤーノシュは、小柄だが誰よりも巨大な国王であった。

 彼は腹心の近習とともに馬を走らせ、どこか穏やかな笑みをたたえたままその姿は炎の奔流の中に消えていった。

 戦後彼の遺体は発見されず、キリスト教徒としての彼の名はのちに伝説として残ったという。

 後日十字軍壊滅の報はローマ教皇を震撼させる。

 戦場で騎士たちが生きながら焼き殺されていく生々しい描写に、使者が報告が終わったとき、すでに教皇は失神していたと伝えられる。

 戦史に特筆すべきこの戦いを人は誰がよぶともなく、煉獄の戦いと呼んだ。

 

 感傷に浸る間もなく、俺はシエナに告げた。

「このままハンガリーに急行してブダを占領するぞ。失脚したバルドル公の縁者を召しだして宮廷工作を図れ。」

「御意」

 ハンガリー王国はこの戦いで完全に戦力を失った。

 ここでワラキアが占領しなければ、いずれ他国の草刈場と化すことは必定である。

 それはワラキアの安全保障にとっても得策ではない。

 ハンガリーの領国化についてその方策を検討している俺のもとに、信じられない報が飛び込んできたのはそのときだった。

「殿下! お急ぎお戻りください! 先ほどの腕木通信によれば不平貴族の一部がトゥルゴヴィシテに侵攻いたしました!」

「なんだと!?」

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