第29話 帝都の姫君
金角湾の波止場では、荒くれの船乗りでごった返す桟橋にはあまりにも不似合いな少女が、目を輝かせて一人の船乗りの話に聞きいっていた。
年の頃は十を少し超えたところであろうか。
ビスクドールのような白磁の肌にさくらんぼのような愛らしい小振りの唇が、幼い少女の愛らしさをこのうえなく強調していて、荒くれものの船乗りもこの可愛らしさには目尻を下げてしまうしかなかった。
この世に天使がいるとすればこんな少女であるのかもしれない。
船乗りの男は、半ば本気で同量の黄金よりも美しく輝く少女の見事な髪に目を奪われながらも、少女の歓心を買おうと必死で言葉を紡ぎ出した。
「そりゃあ俺達だって一流の船乗りだ。星を読み、風を読んで船の場所を探ることだって出来らあ。だけどよ、都合よく星が拝めるなんで保障ありはしねえんだ。現に3日に一度は星の読めねえ闇夜にぶつかる。そしたら錨を下ろしてその夜は店じまいさ。なぜかって? お嬢ちゃん、一晩で船がどれだけ進むか知ってるかい?風向きにもよるがへたすりゃ5・60キロはもっていかれる。それが北なのか南なのか、東なのか、西なのかもわからないとなりゃ最悪目的地に着くまでに水と食糧が尽きちまうんだ。嵐が何日も続いたりした日にはとても生きた心地がしねえもんさ………ところが今はワラキアのおえらいさんが考え出したらしい新型の羅針盤があってな。この羅針盤ってなあ方角を示すカラクリなんだが、今までのは水に浮かべてるだけなんで嵐の日にゃ使いものにならなかったさ。それがもうどんな嵐でも暗闇でもきっちり方角のわかる羅針盤のおかげで船旅が何日も短縮できて大助かりよ」
「すごいわね。それじゃこれから港に入る船はもっと増えるかしら」
無邪気に笑う少女に船乗りの男はますます調子にのって話し出した。
不思議なことだが、少女を喜ばせるためにはどんな話をしたらいいか必死に考えている自分がいる。
もともと男は話好きな男であったが、傍から見ればまるで惚れた女の気を惹こうとしている埒もない男のようでもあった。
あるいは幼女嗜好の変態に見られたかもしれないが。
「ああ、間違いなく増える。それにこれからの航海は絶対に長足………遠くて長い航海が当たり前になる。さっきの羅針盤だけの話じゃねえんだ。味は酸っぱくて俺の好みじゃねえんだが、一年は保存がきいて壊血病に罹らずに済む魔法の食べ物をそのワラキアのおえらいさんが作ってくれたんでな。おかげで腐って食べられない不良品を掴まされることも少なくなって、食い物のためにいちいち寄港する必要もなくなったのさ。ありゃあきっと本当に聖アンセルムスの化身なんだろうぜ」
「ふふふ…………きっと船乗りのおじさんに神様がご褒美をくれたのね」
珍しい話を聞かせてもらった、と目を丸くして驚いてみせる少女に船乗りは照れたような苦笑を浮かべていたが、もう少し観察力のある人間なら少女の目が決して笑っていないことに気づいただろう。
実際に少女の内心は驚きと恐れで嵐のように荒れ狂っていたのだ。
なんじゃ? なんなのじゃ? その非常識な発明のオンパレードは?
壊血病ってあの船乗り殺しの呪いみたいな病気のはず。それが食べ物で予防できるものなのか?
だいたいいったいどうやったら干物以外で一年以上も食べ物が保存できる?
「おいこらっ! いつまでも余所もんと食っちゃべってるんじゃねえ!!」
大きな手振り身振りで盛んに少女に話しかけようとする部下に業を煮やしたのか、中年の航海長が船から桟橋に下りてきた。
興味は尽きぬがどうやら潮どきが来たらしいことを少女は悟った。
「お嬢ちゃん、こんな男の話を聞くより家に帰って習いごとでもしたほうが何倍も将来の役に立つぜ?」
「おやっさん、そりゃねえでしょう?」
「あほぅ! 子供相手だと思って余計なことまでペラペラしゃべりやがって! 今度しゃべったら沖で鮫の餌にするぞ!」
「へ、へえっ………すいやせん………」
航海長の言葉に脅し以上のものを感じ取った男は目に見えて萎縮した。
彼が漏らしたことの内容は、実際に公になれば処刑されても文句は言えない類のものであることを男もようやく思いだしたのである。
「お願い、おじさん。叱らないであげて? 私小さいからあまりよくわからなかったけど、お兄さん私にいろいろ面白い話を聞かせてくれただけなの!」
「ああ、嬢ちゃん、こいつのヨタ話は忘れて親の言いつけをちゃんと聞きな。今でもそれだけ可愛いんだ、この先年頃になればきっとえらい美人になっているだろうぜ?」
「………そうね、ありがとうおじさん…………」
にこやかに笑う少女の瞳に、少女らしからぬ鋭い知性の光が宿っていることに船乗りたちは気づかなかった。
甲板へと姿を消していく男たちを見送って、少女は振り返ると胸の高鳴りに頬をほころばせて船着き場から一本入った裏路地で待つ侍女のもとへと足を向けた。
「どうやら収穫がおありでしたようですね?」
「ふふふ……最近羽振りのいいヴェネツィアの船と思って探りを入れてみたら大収穫じゃ。妾もまさかこれほどとは思わなかったわ」
先ほどまでの無邪気な様子とは打って変わって、少女は適齢期の女性のような大人びた笑いを浮かべた。
やれやれと言いたげに侍女が肩をすくめて嘆息する。
これさえなければ姫はどこに出しても恥ずかしくない完璧な令嬢なのだが。
そう考えながらも、侍女は彼女がその生まれもった性質のままに生きられることを望んでいた。
侍女の名をサレス・マジョラスと言う。
長身でスラリと伸びた手足は、良く見れば鍛え上げられ刃物を扱うための筋肉が無駄なくついていることが窺える。
もともとは彼女はオスマンからコンスタンティノポリスに送りこまれたスパイであった。
ひょんなことから少女に素性を暴かれて一時はサレスも死を覚悟したのだが、なぜか今では侍女兼護衛として少女に雇われる身となっていた。
しかしそんな環境がなぜかとても心地いい。
――――――サレスにとって、少女はまたとない命を託すに足りる主人であったのである。
少女の名をヘレナ・パレオロギナ。
数奇な運命を背負って生まれてきた、ローマ帝国でも数少ない帝家の姫君だった。
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