第28話 コンスタンティノポリスへの使者
アクロポリスの宮殿内で、使者は帝国の頂点に君臨する人物を前にして恐ろしく緊張していた。
「そ、それで教皇庁からは、ヴラド・ドラクリヤを破門してしまうようにとの督促が参っております」
「全く不遜な連中だな。いったいどんな理由をもってだ?」
「ワラキア公はオスマンに臣従しているからだそうで」
「ふん! 我らが帝国もオスマン朝に形式的には臣従しているのだが、それは遠まわしに我々を異端と呼んでいるのかね?」
でっぷりと肥えた壮年の男がテーブルの水差しに手を伸ばした。
その態度にいささか反感を覚えるものもいるが、誰ひとり彼に諫言しようとするものはいない。
実質的な権力において、宰相であるノタラスに対抗しうるものは少ないのだ。もし彼にものを言えるものがいるとすればそれは――――――。
「彼らは同じ神の使徒であり、兄弟である。決して我らに仇為すものではない」
鷲のように鋭い眼光。
痩せた頬には骨が浮き出ているが、人を惹きつける大きな瞳と威厳に満ちた容貌を損なうことはない。
彼こそはこのローマ帝国の皇帝ヨハネス8世であった。
現在のローマ帝国の窮状は実のところ、皇帝ヨハネス8世の失政に負うところが大きかった。
もし彼がムラト1世死去に及んで、オスマン朝の分裂を画策しなければ温厚をもってなるムラト2世の事である。
今でも帝国とオスマンは、平和的な友好関係を維持することも不可能ではなかったであろう。
だからこそ、このところ体調の悪化を自覚している皇帝としては、自分の生あるうちによりよい未来への道標を後に残すものたちのために示す必要に迫られていた。
「―――――かといってワラキア公は同じ正教会の同胞だ。これを見捨てれば我が正教会の権威は地に堕ちる」
「しかしそれでは教皇庁がっ!」
もはや単独でオスマンに対抗することが不可能になったローマ帝国は、分裂してしまったカトリックと正教を合併することでより巨大な宗教組織として延命しようと画策していた。
これは東欧において布教が滞っているカトリックとしても、渡りに船のような提案であり、両者の協議は順調に推移していたと言っていい。
いずれオスマンに滅ぼされるくらいなら、カトリックの力を借りてでも異教徒を倒す。仮に失敗してもカトリックのなかに正教の命脈は残り続ける。
そう考えた皇帝であったが、国内の聖職者や国民から思わぬ猛反発を受け、この合同は現在のところ挫折していた。
しかし皇弟であるコンスタンティノスは、なおも合同への希望を諦めてはいなかった。
ワラキアを救うという皇帝の判断に、思わず彼が叫んでしまったのはそう言う理由であった。
「皇弟殿下、我々はいったい何のために東西合同を推し進めてきたのでしょう?」
静かな声でコンスタンティノスに問いかけたのは、髪を真っ白に染めた立派な顎髭を伸ばしたやせぎすの老人だった。
老人の名をグレゴリウス3世という。
もともとは長身でその存在感に相応しい巨躯の男であったが、この数年の東西合同に関わる軋轢の後遺症か、このところめっきり老いさらばえてしまっていた。
皇帝ヨハネス8世に親しかった彼は、コンスタンティノポリス総大主教の地位にありながら東西合同には常に賛成の立場を取り続けていた。
「答えは簡単です。我々が生き延びるためには他国の力を借りる必要があったからです。十字軍のような大軍によってオスマンの影響を排除しなければ遠からず帝国が滅亡すると思われたからです」
「そのとおりだ! 今教皇庁の不興を買えば十字軍の遠征など夢のまた夢に終わるだろう!」
「………はたしてそうでしょうか?」
カトリックと正教会、ローマ分裂とともにわかたれた兄弟の合同にずっと賛成してくれていたはずの総大主教の言葉にコンスタンティノスは思わず呻いた。
彼がいつの間にか、教会合同の否定へと傾いていたことに気づいたのだ。
「彼らはオスマンの脅威に直面しているわけではありません。神聖ローマ帝国は対外遠征に否定的でイングランドとフランスは戦争の真っ最中。形ばかり傭兵数千を派遣してもらったところで寿命が何年かのびるだけ。それで彼らは東西のキリスト教を代表するという果実だけを貪るのではないですか? 私は陛下とともに各国の使者に会い、各国の現実を見てきました。彼らが十字軍に大軍を派遣できるとはどうしても思えないのですよ」
「―――――ですが、その数千の傭兵すらなければこの都市は明日にも滅びかねないのです!」
コンスタンティノスは理性の人である。
確かにグレゴリウス3世のいうように今の世界情勢では、獅子心王や尊厳王のような君主直卒の大軍がコンスタンティノポリスを救援に来るという可能性が低いことはわかっていた。
しかし同時に、ヴェネツィア艦隊の支援や数千の援兵程度は十分に見込めるとも思っている。
コンスタンティノポリス防衛の上で、これらの戦力はなくてはならないのものであった。
帝国が抱える旧態然とした騎士だけでは、とうていこの巨大な都市を守りきるには足らないし、独自に傭兵を雇うほどの潤沢な予算が帝国にはなかった。
「そう、殿下のおっしゃるとおりです。しかしその程度の戦力ならばわざわざ教皇庁に頭を下げる必要はないのではないですか?」
「はっ?」
「―――――ですから、その程度の戦力ならワラキア公でも提供できる可能性があると申し上げているのです」
なにをそんな馬鹿なことを―――――と言い切ることはできなかった。
それを言うならばわずか数千の軍しか所有していないワラキア軍が、即位して間もない16歳の少年に率いられてトランシルヴァニアを占領したことのほうがよほどありえない。
しかもワラキアに帰還したばかりのころはともかく、トランシルヴァニア侵攻にはオスマンの力を一切借りていないのである。
万が一さらにヤーノシュが敗れるようなことがあれば、東欧随一の大国ハンガリーまでもがワラキアの軍門に降ることになりかねなかった。
そうなればワラキアは堂々とオスマンに挑戦するだけの、キリスト教世界を代表する資格を手に入れるというべきであろう。
「で、ですがワラキア公はオスマンに臣従している身。はたして我々に味方してくれますかどうか?」
もう一人の皇弟、アカシア侯ソマスが恐る恐る反論した。
滅亡の瀬戸際にいる帝国にとって、ワラキアという賭けの対象はリスクが大きすぎる。
やはりカトリックという巨大な組織力を頼るべきなのではないか。
コンスタンティノスもソマスも、地平線の彼方まで埋め尽くすかに思えたオスマンの侵攻を昨日のことのように覚えている。
その恐怖を払しょくするには、ワラキアの存在感はまだまだ小さくか弱いものに思われた。
「それについては私より彼に語ってもらうほうが早いだろう」
パンッという乾いた音を立ててノタラスが両手を合わせるのを合図にして、広間の扉がゆっくりと開かれた。
そこには憧れの地にやってきて心を熱く昂らせる、ワラキアきっての伊達男にして芸術の守護者、イワン・ソポロイがその美麗な顔に微笑を湛えて佇んでいた。
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