第24話 ブラショフの戦い

 包囲網が完成していくに従って、どんな重圧を感じているかと思えば当の本人はいたってのんきなものであった。

 戦況は俺の予想から一歩たりとも逸脱していない。

 わざわざ御苦労さま、と俺はラースローの境遇に同情すらしていた。

 残念だったな、ラースロー。ヤーノシュならきっとこんなまだるっこしいことはしないでただひたすら俺の首を取りにきたろうにな。

 ヤーノシュはオレの首にそれだけの価値があることを経験的に知っている。しかしラースローは知らない。

 悠長に、こんなことでワラキアを封じ込められると考えているのがその証拠であった。

「あまり城壁に御寄りにならないでください、ヴラド様」

 うっ………出たな小姑め。

「狙撃されたらどうするのです? 私の目が黒いうちは危ない真似はさせませんよ?」

 先日の襲撃以来ひっついて離れないベルドが、腰に手をあてて上目遣いに睨んでいた。

 可愛いかよ

 正直過保護すぎて息が詰まるのだが、ベルドの心配も決して故ないことではないので断ることも難しかった。

 ヴラディスラフの首を手土産に降伏した貴族どもだが、命惜しさにワラキア国内でのヴラド暗殺計画を洗いざらい吐いてくれたのである。

 その中にはこのところ協力的で、俺が信を置き始めていた中立派の重鎮もいたのだ。

 全く、史実のヴラドが人間不審になるのもむべなるかな。

 俺も、ベルドやゲクランたちのような気の置けない仲間がいなければ同じ道をたどったに違いない。

 そう考えると、とても可愛い可愛いベルドの善意を袖にすることなどできるはずがなかった。

「どうされました?」

 声をかけたきり動こうとしない俺を不審に思ったのか、ベルドが俺の顔を覗き込むようにして問い返した。

 苦笑するとともに俺はベルドの赤みがかった金髪を乱暴に撫でまわした。

「ベルドには心配をかけるな」

「し、臣下として当然のことです!」

 赤面して照れるベルドに思わず笑みが漏れる。

 ――――――――本当にお前たちが俺の精神の命綱だよ。


 トランシルヴァニア軍による包囲は順調とは程遠いものであった。 

「おい腰ぬけ!巣にこもってねえで出てこいや!」

「殿下のお慈悲にすがりたいってんなら話は別だけどよ!」

 傭兵あがりの竜騎兵数騎が城門を開いてトランシルヴァニア軍を挑発する。

 今までワラキア軍に馬鹿にされたことなどないトランシルヴァニア軍にとって、この暴言は到底容認しがたいものに感じられた。

「ぬぬ……言わせておけば………!」

「その口を閉じなければあの世で後悔させてくれるぞ!」

「おお! おお! 口だけは達者なもんだ!」

 しかし怒りにまかせて追撃にうつると、すぐさま火縄銃を発砲して竜騎兵はブラショフの城内に引き揚げてしまう。

 これを深追いすれば、再び城壁からの十字砲火に誘いこまれるのは明らかであった。

 それでもなお憤怒に任せて突撃してしまう粗忽者もいたが、あっというまに壊滅に等しい損害を出して撃退されて以来、この手の追撃はセスタスによって厳禁とされていた。

 理性としては、もう追い詰められたワラキアには挑発してトランシルヴァニア軍に攻め込ませる以外に道はないのだということは理解できる。

 だからこそ内心の嚇怒を押し殺して、ラースローやセスタスも己の心に忍耐を強いていた。

 しかしたび重なる挑発がトランシルヴァニア軍内にいらだちと疲れを蓄積していくのは如何ともしがたい。

 ただ完成にこぎつけつつあるブラショフ包囲の防柵が完成すれば、ワラキアの最後のあがきも封じることができるだろう。

 今はそれだけが救いであった。

「さすがのワラキア公ももはや進退窮まったであろう………………」

「さようですな。あの程度の安い挑発しか打つ手がないとは」

 もちろん油断は禁物であり、ワラキア軍が乾坤一擲の勝負を挑んでくる可能性もセスタスは考慮していた。

 また東部諸侯の討伐に派遣されたという支軍が、慌てて援軍としてやってくる可能性も否定できない。

 しかし東部方面とワラキアへと続く南部方面には十分な斥候を送りこんで、決して援軍を見逃すことのないよう準備を整えている。

 それに防柵の完成により、ワラキア軍がブラショフのどの門から出撃しても味方が駆けつけるまで戦線を支えることは容易いはずであった。

 これほどの重囲になれば、セスタス自身も勝利どころか脱出することさえ不可能と考えざるを得ない。

 夜陰に紛れて逃亡されることのないよう、大量の篝火が赤々とたかれブラショフの夜はまるで祭りの日のような輝きに彩られていた。

 ―――――あとはブラショフの市民を寝返らせれることができれば犠牲らしい犠牲も出さずに勝てる―――そのはずだ。

 ブラショフにはヴラドと利害が敵対するサス人商人が多く居住する。

 いくらでも内応する人間はいるはずであった。

 それでも、なお心のどこかに一抹の不安を隠せないでいる。

 これほどの見事な奇襲攻撃を見せたワラキア公が、ただ無策のままブラショフに籠城している理由がわからないためだ。

 いくらなんでもオスマンの大軍が現れるまで、籠城し続けるというわけでもあるまいに………。

 乾いた射撃音が闇に轟く。

 またいつもの嫌がらせに違いなかった。

 いくらトランシルヴァニア軍を疲れさせるためとはいえ、種を見られては効果は薄い。

 ワラキア公、貴方はいったい何を考えているのだ――――?

 セスタスは気づかなかった。

 安眠を防ぐ嫌がらせと思われた銃撃には、実は時間と射撃数に規則性のあったということを。


 最初にその異常に気づいたのはやはり戦場勘の鋭い傭兵であった。

 彼はシギショアラのある西の方角から、恐ろしくもの静かで統制のとれた一団が近づいてくるのを察知した。

「こりゃあもしかして御大のご登場かぁ?」

 粛然として一糸乱れぬ統率ぶりに、思わず彼らはヤーノシュ公が上部ハンガリーから帰還したのではないかと疑った。

 それほどにその軍は整然としていて、かつトランシルヴァニア軍を警戒する様子が見られなかったからである。

 少なくともハンガリー軍の名のある将の援軍であろうと推測した彼は、その軍の接近を報告しようとはしなかった。

 なぜならシギショアラとハンガリーの位置する西方から接近する軍が、まさかワラキア軍であるはずがなかったからであった。

「シェフ殿の手品を見るのは慣れたもんだが、ワラキア公の手品も怖くていけねえや………」

 堂々と接近すれば敵とは見抜かれない、というワラキア公の言葉を信じてはいたが、別働隊の指揮を任されたレーブにしてみれば実に寿命が縮む思いであった。

 下手を打てば圧倒的多数のトランシルヴァニア軍に、袋叩きにあいかねないためだ。

 しかし同時に、ゲクランの指揮で敵兵に化けて潜入した経験があったレーブは、存外に戦場では敵と味方の判別がつきにくいということを思い出す。

 これまでのところ、こちらの接近に気づいた人間は幾人かいたようだが、誰もこちらが敵であるとは疑ってはいないようであった。


「イカサマみたいで気が引けるが、こっちも勝たにゃシェフ殿に大目玉だ。悪いがおっ死んでもらうぜ?」

 全く無防備のトランシルヴァニア軍の背後を取ったレーブ率いる別働隊は一斉に剣を抜き放って雄たけびをあげる。

 きらめく白刃の輝きと響き渡る怒号に敵の奇襲を悟ったときには遅かった。

「突撃いいいいいいいい!!!」

 レーブ指揮下の精鋭千名が、ブラショフを包囲するトランシルヴァニア軍左翼に襲いかかったである。

「そんな馬鹿な! ワラキア軍の背中には羽根が生えているとでもいうのか? それとも奴は本当の悪魔なのか!?」

 ありえない。

 そんなことはありえない。

 いったいどうやったらワラキア軍が西から現れるというのだ?

 我が軍は西からブラショフに侵攻して東部と南部は水も漏らさぬ警戒網を作り上げていたのだぞ?

 混乱するラースローとは裏腹に、セスタスは事のからくりをある程度正確に洞察していた。

 おそらくワラキア軍は最初から軍を二手に分け、我が軍の攻勢を誘発するためにことさら軍を過小に見せていたのだ。

 ブラショフの北西にハーチェスと呼ばれる深い森があるが、きっと地元ルーマニア人の手引きで別動隊を密かにブラショフから分離してそこに潜ませていたに違いなかった。

 我々は敵が東部ならともかく西部に身を潜ませているはずがない、という先入観から監視対象を見誤った!

「――――――どうやら死に時が来たらしい」

 最初からこうなる覚悟は決めていた。

 すべてはヴラドの力量を見抜けず、策を見破れなかった自分の責任である。

 後は己の役目をまっとうして悔いのない死を迎えるだけであった。

 現実が認められずなお喚き続けるラースローに向かって、セスタスは深々と一礼した。

「御免仕る。―――――今生の別れでございます。ラースロー様」

 そう言い終えたときには、すでにセスタスの年齢とともに細くなった肘がラースローのみぞおちに打ち込まれている。

 何が起こったのか察することもできず一瞬にしてラースローは昏倒した。

 年老いたとはいえ、戦場で長年陣頭にあった将軍セスタスの武技は今なお健在であった。

「わしが血路を開く。ラースロー様を必ずやシギショアラまでお連れしろ」

「せ、セスタス様…………」

「ふんっ! なんて目をしている! このセスタスまだまだ若い者たちには負けぬぞ」

 側近の騎士たちにラースローを託すや、セスタスは混乱のうちに次々と討ち取られていく味方にむかって一喝した。

 往年の気力が全身にみなぎってくるような錯覚に捕われる。

 死を飾るに相応しい戦いができそうだ、とセスタスは沸き上がる気力の充実に満足した。

 その覇気のこもった戦場に鳴り響く大喝には、圧倒的優位に立つワラキア軍ですら瞠目したほどであった。

「わしとともに名を惜しんで死んでもよいという物好きはついてくるがよい!」

―――――人は本能的に死を恐れる。

 生き延びるためには泥を啜り、肉親を犠牲にしようとも自分だけは生き残ろうとするのが人間である。

 だが同時に、ほんのいっときの名誉や友情や誇りのために自らの命を投げ出してしまうのもまた人間であった。

 そうした人間が往々にして、とてつもない力を発揮することをレーブは熟知していた。

「ちっ! 爺さん、ちょいと元気出し過ぎだぜ!」

 死兵にはまともにあたるだけ馬鹿を見る。

 元傭兵らしい割り切りの良さで、レーブはセスタスの正面に立ち塞がることを諦めた。

「へっへっ! てめえらみんな犬の餌だ!」

 遠くで特徴的なガラガラ声のゲクランの怒号が聞こえる。

 レーブの突入と機を同じくして、城門を開いたゲクランが得意の大剣を振るってトランシルヴァニア軍の右翼を蹂躙しているのだ。

 ここでわざわざ無理しなくともすでにワラキアの勝利は確定していた。

「逃げる相手を無理に止めるな! そのかわりケツに食いついて離れるんじゃねえぞ!」

 逃げにかかった敵は反撃される心配のない美味しい獲物である。

 レーブは逃げるトランシルヴァニア軍に追いすがり槍を突き、弩を浴びせかけてその戦力を削り取ることに専念していた。

 敗走する兵は反撃をする時間があるくらいなら自分が逃げることを優先する。

 隣を走る味方が背中に矢を浴びて短い悲鳴とともに倒れたとしても、彼らはわき目も振らずに逃げ続ける。

 倒れた味方は所詮自分が逃げるための時間稼ぎにすぎないからだ。

 戦において退却戦がもっとも死傷者を出しやすいのには、こうした追うものと追われるものの力関係の差が原因していた。

「どけどけどけえええええええっっ!!」

「くそっ、まったく元気な爺だぜ」

 一旦はワラキア軍の包囲を突破したセスタスは、ワラキア軍が追撃に戦術を切り替えたことを察すると再び馬首を返して戦場に舞い戻った。

 しかし誰の目にも疲れの色は隠せない。

 一時の昂揚に年齢を忘れても、一度自覚した疲れは普段の数倍する速さで体力を奪っていくものであった。

 すでにセスタスはかろうじて気力だけでその身体を支えていた。

「――――――たいしたもんだぜ、爺さん。俺も死ぬときは見習えりゃいいな」

 戦って戦って、戦いつくして満足したときに誇り高き戦士は死という安息を得る。

 それはある種の精神的な高みに達した、武人にしか達することのできない至福の境地だ。

 レーブはセスタスが、遂にその境地に至ったであろうことを確信した。

 同時にそれは、死を前にしてしか得られぬものである。

「あばよ」

 全身全霊の死力を振るいおこして、悠然とレーブの前に立ち塞がるセスタスに狙いを定めた弩の矢が撃ち込まれた。

 風を切る音ともに数本の矢がセスタスのやせ衰えた痩身を貫通し、老将はゆっくりと大木がその幹を斬り倒されたかのように馬上に崩れ落ちたのだった。


「殿下、残念ながらラースローは取り逃がしたようにございます。しかしもはやトランシルヴァニア軍はその戦力を失ったものかと」

「うん、よくやってくれた」

 東西から挟撃されたトランシルヴァニア軍はラースローこそ逃がしたものの、セスタスをはじめとして指揮官クラスが多数死傷して軍としての機能を失っていた。

 もはや彼らがシギショアラに帰還しても、再びワラキア軍に反撃する余力は残されていないだろう。

 一頭の狼に率いられた羊の群れは、一頭の羊に率いられた狼の群れを駆逐するというが、それほどに軍における指揮官の存在は重要だ。

 ラースローにはもうセスタスのように信頼のできる軍事幕僚が存在しない。

 事実上トランシルヴァニア軍は攻撃力を失った。

 ――相手が悪かったなラースロー。

 このブラショフを真っ正直に包囲下に置こうとしたときに、お前の負けは決まっていた。

 そもそもオレがブラショフに籠らなければならない理由がどこにある?

 ワラキアの兵数が少ない報告を受けたときに、まず少なすぎる理由を疑ってかかるべきだったな。

 ―――――それにしてもあの老将、セスタスといっただろうか。

 実に見事な最後だった。

 彼がラースローの補佐でなく全軍の指揮官であったなら、ここまで楽には勝てなかったかもしれない。

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