第23話 前夜

 血気盛んなトランシルヴァニア軍の目の前で、これみよがしにブラショフの城壁に翩翻とワラキアの旗が翻っていた。

 それは略奪しに来たわけではなく、恒久的にブラショフをワラキアが所有するという明確な意思表示であると、トランシルヴァニアの諸将は受け取った。

 実際に彼らの解釈は事実でもあった。

「なんという無礼な! いつまでも奴らにわがもの顔をさせてはおくまいぞ!」

 トランシルヴァニア軍の面々は、絶対に許容できぬヴラドの無法に対して嚇怒する。

 たかだか千程度の軍勢に、ここまで正面から挑発されて黙っていてはトランシルヴァニア軍の鼎の軽重を問われかねなかった。

 もちろん彼らがそう受け取るであろうことをヴラドは正確に洞察していた。

「――――そう女をとられた寝取られ男みたいに喚くなよ」

「そりゃ仕方ありませんぜ、殿下。このブラショフは奴らにとってはかけがえのない別嬪でさぁ」

「違えねえ!」

 ヴラドとゲクランたち傭兵出身の軍首脳は、笑みさえ浮かべながら悠然とトランシルヴァニアの大軍を見下ろしていた。

 ブラショフはトランシルヴァニアにとって失うべからざる主要都市なのだ。見捨てられるはずがない。

 もとよりこれは想定の内。

 むしろラースローに出撃してもらわなくてはこちらが困る。

 彼らが冷静さを失い激昂することもまた、当初からのこちらの策のうちなのである。

 まさか頭上でヴラド達がそんな会話を交わしているなどとは思いもよらず、ラースローたちは旺盛な士気を利用して一気に決着をつけようと考えていた。

 それをするだけの戦力差が両軍にはある。

 確かにワラキアにブラショフを占領されたのは腹が立つ話ではあるが、これは同時にトランシルヴァニアにとってチャンスでもあった。

 わずか千の兵しか率いていないワラキア公を捕えることが出来れば、そのままワラキア公を幽閉して代理統治することも。ヴラディスラフのように傀儡を立てることも思いのままだ。

 それはこれまでワラキア相手に蒙った損害を贖ってなお余りあるものであるはずだった。

「ものども、かかれ!褒美は思いのままぞ!」

「おおおおおっ!」

「悪魔(ドラクル)の首をあげるのは俺だ!」

 形ばかりの降伏勧告ののち、トランシルヴァニア軍は攻撃を開始した。

 数においても、士気においても、さらに兵の戦場での経験と実績においても全てにおいて味方が勝っている。

 躊躇する理由も恐怖する理由も何もなかった。

 自分達は猟師であり、そしてワラキア軍は獲物なのだ。

 その力関係が変わることは未来永劫ありえない、と彼らは信じて疑わなかった。

 ブラショフに立てこもるワラキア軍は包囲され退路を断たれている。

 常備軍などという金食い虫を、ワラキアが用意しているなどとは露ほどにも予想していないトランシルヴァニア軍は、こうした絶望的な戦況では傭兵の士気がもつまいと予想していた。

「おいおい、なんだ? あの貧相な陣地は?」

 ブラショフの城門の前から突出する形で、土嚢と木材で補強されたわずか10mほどの陣地が見えた。

 確かに攻撃の主軸が城門に集中するから、何らかの形でそれを補完することは正しい。

 しかしあまりに中途半端なサイズと、配置されたわずかな人員からトランシルヴァニア軍の兵士は完全にこれを侮った。

「馬鹿が、真っ正直に死にに来る奴があるか!」

 聞いたこともないような轟音が轟いた。

 小規模な野戦陣地と侮って突入した百を超える兵が、一斉射撃の砲火にさらされて壊滅する。

 そのあまりの火力の集中と命中率にラースローは我を忘れて叫んだ。

「そんな馬鹿な!」

 城郭を守る戦術のひとつとして横矢掛けと呼ばれるものがあり、投射武器を多角的に運用するという思想は中世においても存在した。

 しかしそれを銃に応用しようという発想はまだなく、そして日本の武田軍などが得意とした馬だしによる機動防御と火器管制区域の運用は、欧州においては一般的ではなかったと言っていい。

 彼らが与し易しと考えた貧相な防御陣地は、実は城壁に展開した火縄銃部隊の十字砲火の中心点でもあったのである。

「な、なんだ………ワラキア軍はいったい何丁の火縄銃(アルケブス)をこの戦場に持ってきているのだ…………」

 トランシルヴァニア軍が動揺するのも無理はなかった。

 当時まだまだ貴重品であった火縄銃は、その高い金額の割に使用される機会が少ないことで、百年戦争を戦うフランスやイングランドほどには東欧では普及していなかったのである。

 そしてあまりの火力の集中を見たことで、彼らはこの戦場にワラキア軍が持ち込んだ火縄銃の数を完全に誤認した。

 激しい射撃を浴びて歩兵部隊が壊乱する。

 彼らの撤退を援護しようと騎兵部隊が進み出たところで今度は城門が開き、ワラキア軍槍兵部隊がトランシルヴァニア騎兵の前に展開した。

天敵といっていい槍兵部隊にその突進を阻まれた騎兵が、算を乱して撤退に追い込まれるまでそれほどの時間はかからなかった。

 再び轟く一斉射撃の轟音が、トランシルヴァニア軍の兵士から冷静さを奪っていく。

 彼らが混乱を収拾するまえに、さらに数百の兵士がワラキア軍の犠牲となって大地にその血を吸わせたのだった。

「…………あの男は悪魔か!」

 集計された損害を聞いたラースローは驚きとともに叫んだ。

 彼我の戦力差三倍以上、目標は勝手知ったるブラショフの街、勝利を確信し戦闘を開始してからわずかに半刻にして、トランシルヴァニア軍が蒙った損害は死者百二十名負傷者五百余名を数えていた。

 この調子で損害が拡大すれば数日を待たずしてトランシルヴァニア軍はブラショフの大地に溶けることになるだろう。

 トランシルヴァニア軍が許容できる範囲を遥かに超える大損害であった。

「このうえはこちらも柵を立て、包囲を厳重にして持久戦に徹するべきと存じます」

 強硬策による出血の拡大が許容出来ない以上、セスタスの献策は妥当なものであった。

 そもそも時はワラキアの敵なのだ。

 こちらも兵站は万全とは言い難いが、何と言っても自国の領内であるのに対し、兵糧や火薬もワラキアの所有量には限りがあるはずであった。

 さらに時がたてばこちらはヤーノシュ公のご出馬すら望めるのである。

(……………あえて火中の栗を拾うべきではない…………)

 ラースローはなお隙を見て出戦することを主張したが、今度は大半の貴族が反対に回った。

 彼らはワラキアを相手に被る損害を恐れたのだ。

 ブラショフに存在する三か所の出入り口に兵を分散し、柵と簡易の濠を築いてワラキア軍を封じ込める。

 軍議はそのように決し、各将はその手配に走りだしたのである。

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