第18話 暗殺の魔の手
それから4ケ月の時が流れ1448年の春が訪れた。
ヴェネツィア商人が領内を訪れるようになり、新規の市場が開拓され国内商人も順調に力を付けてきている。
海のない内陸国であるワラキアは、どうしてもモルダヴィアの交易都市キリアを使うしかないが、それがモルダヴィアとの貿易を活発化させ両国によい影響をもたらしていた。
ジョバンニ以外のヴェネツィア商人も、モチェニーゴ家の独占を許すまいと続々とワラキアに取引を申し込んでおり、財務を担当するデュラムもうれしい悲鳴をあげていた
ザワークラウトは船乗りたちの魔法の必需品となり、ヴェネツィアのみならずジェノバ、さらにはオスマンや黒羊朝の商人までもが買い付けに奔走している。
船乗りたちの職業病であった壊血病の予防の効果が既に現れ始め、噂が噂を呼んでいるらしい。
テンサイから精製した砂糖も概ね好評で、莫大な利益の投下がワラキアの経済をさらに良い方向へ循環させようとしていた。
種痘の方も順調で、既に国民の八割が種痘を受けている。
今年中に羅患者が目に見える形で激減すれば、来年以降各国はこぞってワラキアに教えを乞うだろう。
実のところ既にモルダヴィアやヴェネツィア・ジェノバ・フィレンツェなどから、是非種痘の秘密を売って欲しいと複数の打診を受けているのだ。
この間はフランス王室からも使者があった。
ローマ教皇庁にも影響力の強い国だけに、この機会にパイプを繋いでおきたいところだ。
しかし残念ながら、各国で天然痘以上に期待されているペストのワクチンまではオレの知識ではつくれなかった。
もともと死亡率の高い病だし(現代で抗生薬を投与しても二十%近く死亡率)、症状に合わせた抗生物質を作る設備もない。
予防的な意味で、衛生管理の浸透を指導してやることぐらいが精一杯だ。
これに関してはワラキアは世界に先駆けて、公衆トイレの設置や煮沸消毒などの衛生指導などを行い始めている。
トイレの糞尿は国家が買い上げて肥料や硝石の原料(土硝法)にすることになっていた。
貿易黒字で増えてきた国家予算の投入先だが、やはり軍事費の増強は避けられない。
軍事的にいってワラキアはまだまだ小国の域を出ていないのだから当然だ。
近代編成の三個大隊が練成中とはいえ、その数わずか三千。常備軍としては十分に大きい数字ではあるが、最終的な動員兵力ではやはりオスマンやハンガリーのような大国には到底及ばない。
兵力差を解消するため青銅砲の小型化と車輪付砲架の配備を進めているところだがこれがまた大喰らいだ。
一回実弾演習するだけで、まだまだ貴重な火薬の備蓄が大量に消費されてしまう。
今後の火力戦への移行を考えると頭の痛い問題であった。
国家の基礎体力のひ弱なワラキアは、大量の物資を消費し続ける近代戦を維持するだけの準備がまだ整っていないのである。
「殿下の御前だ! てめえら気張れええええ!」
ゲクランのもとで前衛隊長を務めるレーブの大隊が、テルシオの方陣を左に旋回させる。
そして一斉射撃の後、歩兵が槍先を揃えて突撃に移った。
流れるようにスムーズなその機動は、つい数カ月前まで素人同然だった急造の軍隊のものとも思われなかった。
レーブのテルシオが下がると、今度は満を持して控えていたネイの率いる騎兵部隊が突撃する。
一隊が正面から、もう一隊が右に迂回して標的の背後に移動した。
こちらの仕上がりも具合も悪くない。
この様子ならばハンガリー騎兵とだって互角以上に戦えるだろう。
ネイの軽騎兵部隊が鮮やかに隊をまとめて撤収すると、最後に現れたのはタンブルの率いる竜騎兵部隊であった。
戦力として計算するにはまだ数が少なすぎるが、火力と機動力を同時に発揮することが可能な竜騎兵はいざというときの切り札だ。
「撃てえええええええ!」
火縄銃の轟音にも調教と訓練を経た騎馬は、いささかも揺るがず騎手を背に背負い続けた。
臆病な馬を銃に慣れさせるのは十分に成果が現れているらしかった。
「見事だ」
演習場の少し高くなった丘の天幕で俺は満足気に頷いてみせた。
防御戦ならばともかく攻勢に出るためには、どうしても練度に優れた精鋭軍が必要になる。
ワラキアの兵站能力を考えればその傾向はさらに顕著なものになる。
新たな士官を追加して柔軟性を増した常備軍は、どうにか俺の考える精鋭としての必要条件を備えているように思われた。
「どうだ?ベルド?」
「素晴らしいと思います。ゲクラン殿にお任せした殿下の英慮の賜物かと」
俺の側近としてとても役に立ってくれるベルドなのだが、なんでも俺に好意的に解釈するのが困りものだな。
そんなことを考えて苦笑する俺に向かって、二人の伝令らしい騎士が駆けてくるのが見えた。
まだ何か演習項目があっただろうか。
「伝令でございます。急ぎ殿下にご報告申し上げたいことが!」
「何事だ?」
シエナやジプシーからの情報ではヤーノシュは上部ハンガリーに出兵しているという話であったが………あるいはまた貴族どもが蠢動したか?
自らが手塩にかけた常備軍の初演習ということで油断していた俺は、伝令が常備軍の兵士であることを疑っていなかった。
無意識に身を乗り出した俺を見て、騎士は邪悪な表情を剥きだしに哂った。
「―――――ワラキア大公ヴラド殿下が暗殺されたよし」
騎士が不敵にそう告げるのと、抜刀して向かってくるのはほぼ同時であった。
これ以上ないほどの絶妙なタイミング。
報告を聞くため、身を乗り出していた俺と騎士の間を妨げるものは何もない。
悲鳴をあげるベルドも護衛の騎士も、この瞬間の凶行には間に合わないことは明らかだった。
―――――咄嗟に身体を右にひねって剣を避わしたのは僥倖であった。
観戦に訪れただけの俺は、剣を佩いているだけでチェインメイルすら身に帯びていなかった。
幅広の騎士剣で斬りつけられては無事には済まない。
二人目の斬撃も剣を鞘から抜くことなくどうにかこれを弾く。
しかしここまでが俺の幸運の限界だった。
剣を弾かれたものの躊躇することなく、剣を捨てて体当たりしてきた騎士の前にまだ線の細い俺の身体はひとたまりもなかった。
「俺ごと貫け!」
身体ごと覆いかぶさった騎士がもう一人の騎士に命令する。
圧倒的な体重と鎧の重みに、全く身動きのできない俺にとっては最悪の命令だった。
これではたとえ奇蹟が起こっても回避できない。
「ヴラド様あああああああ!」
目を血走らせて必死にベルドが駆けよる。
しかし騎士が高く剣を振りかぶる方が早かった。
両手で剣の柄を握った騎士が、犠牲にする仲間を思ってかほんの一瞬躊躇するが―――――
「死ね!この悪魔め!」
満身の力をこめて必殺の剣が振り下ろされ―――――仲間の騎士とともに俺を貫くはずだった剣は――――わずかに右にずれて大地に大きく食い込んで突き立った。
「なっ??」
予想外の事態に俺に覆いかぶさっていた騎士が動揺する。
千載一遇の機会であり、はずしようのない一撃であったはずだ。いったい何が――――――。
「セディン!」
止めをさすはずであったセディンと呼ばれた騎士は、グラリと揺れたかと思うと、糸が切れた操り人形のように力を失って仰向けにどうと倒れた。
鈍い光を放つ金属鎧に小さな穴が穿たれ、そこから噴き出すように赤い血が大地に流れ出していた。
魔弾の射手の一撃がギリギリのところで刺客の命を奪い去ったのだった。
「くそっ!!」
仲間を失った騎士の男は、それでも不屈の意志で俺を絞め殺そうとその太い腕を俺の首に伸ばしてきた。
その妄執に近い執念の深さは恨みか、忠誠か、それとも信仰の力なのか………。
だがそれを黙って見逃す魔弾の射手ではなかった。
「―――――下賤な手で殿下に手を触れるな、下種が」
発砲音とともに弾かれるように男の頭が後ろに飛んだ。
グシャリという音がして、割れた頭蓋から白い脳が血とともに大地に零れてグロテスクな華を咲かせる。
寸分の狂いもないヘッドショット。
ゲクランが100m先の的でもはずさないと言ったのは事実だった。
寡黙なワラキアきっての射撃の名人マルティン・ロペスは一人冷静にヴラドを守るべく射撃の準備を整えていたのである。
―――――忘れていた。順調なワラキアの発展ぶりにここが裏切りと陰謀の渦巻く悪しき世界の巷であるということを。
俺が幾百、幾千の人間を殺したように、俺を殺したがる人間がいくらでもいるのだということを。
命をベットした賭けの敗北はすぐに死に繋がるのだということを。
だが今こそ俺はこの世界のルールを思いだしていた。
そして二度と忘れはしない。
俺の理想を実現するために敵対するものから奪うことに躊躇はしない。
それがどれほどその人間にとって大事なものだとしても、たとえそれが彼らの命であったとしても。
幾千幾万という大量の命を犠牲にしても、俺は俺自身の理想と幸せのためにそれを踏みにじって見せる。
「俺の勝利は、すなわち貴様らの死だったな」
荒い息の下で俺はそうつぶやくのが精一杯であった。
涙交じりにかけよってくるベルドの姿を最後に、酸欠と体当たりの衝撃で朦朧とする意識はブレーカ―が落ちるかのようにぷっつりと途絶えた。
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