第12話 内政は進む

「殿下…………」

「うおわっっ!!」

 おのれシエナめ、相変わらず気配を感じさせぬ奴!

 ボッシュが出て行ったあとですっかり油断していたらいつのまにか執務室の中にシエナが入りこんでいた。

「ご命令にありましたとおりジプシーの長老とわたりをつけることができました。保護と引き換えに協力は惜しまぬと」

「そうか! なら早々に保護の布告を出さんとな!」

 14世紀になってバルカン半島でも多くみられるようになったジプシーは謎の多い移動民族であり、エジプシャンがなまってそう呼ばれるようになったと言われている。

 特殊な技芸を持つが特定の主君を持たない彼らは、各国の君主にとってはなかなかに煙たい存在であった。

 君主の意向を汲んでか、彼らは略奪や暴行の対象となり様々な差別と迫害を受け続けていた。

 にもかかわらず彼らは謎の漂泊をやめようとはしない。

 定住しその土地の君主を推戴すれば安全が約束されるというのにである。

 彼らの移動の理由は21世紀になってもなお、多くの謎を遺したままであるとされている。

 俺が欲したのは彼らのボーダーレスなその情報網である。

 どこにいっても迫害を受けながら身を守る保障もない彼らはともに情報を取り合うことで、少しでもそのリスクを軽減しようとしていた。

 そのネットワークの大きさは今後のワラキアの世界戦略にとっても非常に重要なウェイトを占めていた。

 残念ながらシエナの組織するワラキア情報部も非常に有能な組織ではあるが、こうした多国間規模にまで情報の触手をのばすほどに大きい組織ではないのだ。

 それに音楽や芸能に長けた彼らのもたらす情報は時として専門の諜報機関を上回る場合がある。

 だからこそ日本においても聖徳太子の時代から存在した忍者ではなく、平清盛は京の都に禿を放ったし、室町幕府の6代将軍足利義教は踊り念仏の時宗を保護してその組織を利用した。

「長老の話ではハンガリーでヤーノシュに敵対する貴族の粛清が行われたとか」

 さっそくワラキア戦の政治的反動が出始めているな。

 そうなると予想より早い段階で軍事的勝利を得るための出兵があるかもしれん…………。

 その行先が上部ハンガリーかワラキアかは五分と五分……かな。

「――――――そういえばワラキア大公は男色家であると各国でもっぱらの噂だそうで」

「いったいなんだその噂は!?」

 想定外の言葉に思わず目が点になる。

 彼女もいないうちから男色の噂をたてられるとかっ!

 泣くぞ! マジで!

「殿下がいつまでたっても側室の一人もおかないからです。なんなら女娼でも男娼でもジプシーのえりすぐりを差し出すと言っておられましたが?」

「大きなお世話だ! っていうか男娼とかお前も否定しろ! こんちくしょー!」

「あと2年もすれば噂は真実だと言われるでしょうね」

「のおおおおおおおおおおお!」

 その後最近とみに美しくなったベルドの仲を噂されるなど、このときの俺には想像もつかないのだった。


 ワラキア公国の急激な内政改革はこれまでの特権階級に深刻な損害を与えてもいた。

 誰もが等しく利益を享受できるほど、この世界は満ち足りていない。

「なんとかせねば……我らの財布が干上がってしまうぞ!」

「くそっ! ヴワディスラフ様さえ勝っていれば…………」

 口々にヴラドへの呪詛を吐いていても、やはり串刺しは恐ろしいのかその声は小さく、額を寄せ合い背中を丸めた様子は、どこか悲壮ささえ漂っている。

 彼らはつい先日までワラキアで繁栄を謳歌していたサス人の商人たちであった。

 しかし昨日ヴラドが三民族同盟の無効化を宣言したことで、彼らの特権は剝奪されてしまった。

 ここにいう三民族同盟とはハンガリー王承認のもとに1437年トランシルヴァニアで成立した条約で、サス人(ドイツ系殖民)・マジャル人(ハンガリー人)・セーケイ人(ハンガリー内の少数民族)のみを民族として公認するというものである。

 人口の50%を超えるはずのルーマニア人は民族として認められず、こと商業に関してはサス人の奴隷のような扱いを受けていた。

 なにせ驚いたことに価格決定権がない。売買金額をもっぱらサス人に決められてしまっては、正常な商行為などありえないだろう。

 本来この同盟の効力はトランシルヴァニア領内にとどまるべきものだが、ワラキアはトランシルヴァニア領内にアルマシュとファガラシュという飛び地を所有しているためごり押しのようにして条約が適応されてしまったのだ。

 公国に対するハンガリー王国の影響が増大したため、とうとうワラキア公国内でもこの三民族同盟の効力が暗黙のうちに認められていた。これまでは。

 要するにオスマン朝から守って欲しければ言うことを聞け、と親分が諸肌脱いで出張ってきたわけだが、オスマンに朝貢している現状ではこれに従う理由は何もない。

 それに国内産業を育成し、海外貿易で国家経済を大改革しようとしているところに、正常な競争を阻むこの条約はヴラドにとって邪魔者以外の何物でもなかったのである。


 ワラキアがかつてと同じ小国のままであれば、彼らの焦燥もここまで深刻なものにはならなかったであろう。

 しかし現在ワラキア大公は精強な常備軍を有し、2度にわたってハンガリー軍を撃退した稀代の戦上手であると噂され始めている。

 さらに同じ国民である貴族たちを串刺しにした苛烈さは言うまでもない。

 今後ヴラドの政治的影響力が増大すれば、サス人商人は揃って首をくくるはめにもなりかねなかった。

 ワラキア公国領内におけるサス人に一切の特権を認めぬ。

 またトランシルヴァニア領内においても、三民族同盟による特権をワラキアは認めぬこととする。

 今後もなお、特権を享受することあらば、ワラキアは領内における三民族に対し、人頭税を課すものとする。

 この布告は既得権益をもつ三民族には轟々たる非難と、経済的弱者であったルーマニア人からは絶賛をもって迎えられた。

 しかし俺にとって、人口比率において圧倒的に勝るルーマニア人の支持と残る三民族の支持のどちらが重要かは言うまでもない。

 もともとワラキアは農業生産力も高く、戦火に荒らされることがなければ中継貿易の拠点として発展する地理的条件も揃っている以上、大事な経済を彼らに支配させておくという選択肢はないのだ。

 かなしいかな軍事力によって俺に対抗することのできないサス人商人は、まずワラキアへの輸出品に関する値段を釣りあげ、さらに商人特有のネットワークを生かして宣伝工作を開始していた。

 異教徒に魂を売った悪逆無道の王ヴラド・ツェペシュの誕生というわけだ。

 これは史実のヴラドも経験したことである。

 ドラキュラのモデルとなるほどのヴラドの悪名の何割かは、間違いなく彼らの宣伝工作が作用している。

 サス人やハンガリー王マーチャーシュが活版印刷を使用してまで宣伝に取り組んだ結果は、確かに後世にまで影響を及ぼした。

(――――――さて、どこまで我慢が続くかね………まあ、これだけ甘い汁を吸ってたら素直に従うのは無理だろ)

 史実においても同様の政策をとられたサス人は、1456年に死亡したヴラディスラフの遺児ダンを担ぎあげヴラドに対抗しようと画策している。

 おそらくは今回も同じような手段に出るはずであった。

 だが、彼らにとって残念なことにヴラディスラフを支援するワラキア貴族はほぼその半数が粛清され、何よりの頼りであるヤーノシュも国内における己の立場を守る必要から軽々には動けない。

 万が一にも再びワラキアを相手に負けるようなことになれば、英雄の名に傷がつくだけでは済まないだろう。

 下手をすれば失脚どころか暗殺の心配をする必要がある。

 だから俺はよほどヤーノシュは勝算があると考えないかぎり攻めてはこないだろうと考えていた。

 そのあたりをトランシルヴァニアのサス人が見誤ればそのときは………世界の理不尽さを今度は俺が教えてやる。

 決断の日がそう遠くはないであろうことを俺は予感していた。

(さて、そろそろ仕込みに送ったあいつが目的地に到着しているころだが……大丈夫かな?)

 俺は新たに部下となった陽気で愉快な伊達男の艶姿を思い出して、思わず噴き出すように笑った。

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