第11話 戦い終わって

「これはなんだ?」

「殿下の昼食です」

「朝食じゃねえぞ! 昼食なんだぞ!」

「常備軍は大食らいなので仕方ありません」

 にべもなく冷たい目でデュラムにはねつけられて俺は絶叫した。

「健康な成人男性がパンとスープだけで足りるわきゃねえだろおおおお!」

 野菜ともうし分け程度に肉が浮かんだスープとライ麦パンが三切れ。

 これがワラキア公国の君主たる大公の昼食であるとは誰も思わないだろう。

「冗談です」

 デュラムがそういうと鶏肉と果物が追加で食卓に並べられた。

「冗談になってねえんだよ!」

「常備軍が本気で財政を圧迫しているのは肝に銘じてください」

 デュラムが本気で言っているのがわかって俺はしぶしぶ頷いた。

「わかっている。だが今は軍を優先して整備しないと未来がないんだ」

 次にハンガリー王国が侵攻してくるときには同じ手は通用しない。

 近い将来に備えて、新兵ばかりの弱兵を一刻も早く強化しなくてはならなかった。

 「必要なのはわかっています。ですからきりつめる必要があるところは容赦なくきりつめますので」

「いつの世も先立つものがなければ首が回らんか」

 本当のところを言うと、そこまで徹底して切り詰めなければならないほど財政が逼迫しているわけではない。

 現状ワラキア商人たちは協力的だし、処刑して没収した西部貴族たちの財産がある。

 しかし軍事費だけが際限なく膨らんでいくのは、財政官として絶対に許容できない。

 いってみればそのためのデモンストレーションのようなものであった。

 あんな串刺しなどするから、デュラムやベルドたちにも引かれてしまうのではないか、と危惧したが杞憂で終わりそうである。

 そのことがうれしく、ありがたい。

 それに宿敵フニャディ・ヤーノシュの撃破はオスマン帝国のスルタンをいたく喜ばせたらしい。

 なんと祝い金がスルタンから下賜されたのである。

 このあぶく銭を、俺は全額領内整備と士官学校の設立に回した。

 士官学校の教育方針は、ほぼオラニエマウリッツの軍事理論を採用している。

 現代人には当たり前のことかもしれなが、当時の16世紀では世界を代表する軍事理論として称賛された。

 その主な点は行進、整列といった集団行動の均一化、そのための喇叭やドラムなどの導入である。

 さらに火器の取り扱いをマニュアル化し、数十の工程に分けて誰にでもわかりやすい教本にした。

 マウリッツが活躍した当時のオランダは小国であり、大国スペインに対抗するためには小を持って大を制することが求められていた。

 そのためオランダ兵はスペイン兵が整列、行軍するより三倍の速度で兵を動かすことができたという。

 今まさにワラキア公国軍に求められている運用法であろう。

 特に傭兵と農民兵を組織化していく必要があるなかでは効果的ではないか、と俺は考えていた。


 デュラムが退出すると今度はゲクランが現れる。

「今日は殿下に紹介したい男がおりやして」

 前々からゲクランには傭兵のなかで使える男がいたら、スカウトするように頼んでいる。

 後ろに控えた長身の男が、その使える男ということか。

「マルティン・ロペスと申します。お初に御意を得ます殿下」

 金髪碧眼の見事な偉丈夫である。

 年の頃は三十半ばくらいであろうか。

 瞳に力があり、何より知性の光が感じられた。

「いずこから参った?」

「ブルガリアより……先祖が十字軍に参加してより縁あって土着したらしく」

 なるほど、ブルガリア貴族か。

 今から五十三年前にオスマン帝国に滅ぼされるまではビザン帝国の文化圏にお属する国家であり、ワラキアとは近しい関係にあった。

 十字軍とオスマン帝国の間で、激戦が繰り広げられたヴァルナの存在する国でもある。

 王権の力が弱く、後年オスマンの属国となったワラキアやモルダヴィアのように自治が認められなかった。

 支配を取り上げられた現地の貴族たちは、オスマンに搾取され塗炭の苦しみを味わったことだろう。

 マルティン・ロペスもそんな貴族の一人で、食べていくために傭兵に身をやつしたらしい。

(これは拾いものかもしれないな)

 今後オスマン帝国と対峙していくうえで、ブルガリアの地理に詳しい人間がいるだけで戦略の幅が広がる。

「こいつとは何度もいっしょに戦いましてね。信頼のおける男です。それにこいつは珍しい特技を持ってやして……」

「特技?」

「銃の扱いに長けておりやす。百メートル先の的も外さんでしょう」

 正直喉から手が出るほど欲しい技能だった。

 まだまだ予算不足で数を揃えることはできないが、今後の戦争で銃の普及はワラキアが生き延びるために絶対に不可欠な要素であった。

「マルティン、余に仕える気はあるか?」

「殿下のご情を賜るならば、この非才なる身の全力をあげて」

「よかろう。ゲクランの元で銃の教官として後進を育成せよ!」

「御意」

 正直ゲクランの人脈と人を見る目には頭が下がる。

 この男を助けることができたのは、俺にとって最大の幸運であったかもしれない。

「――――ところで貴族のドラ息子どもはどうしてる?」

「そりゃ、あれですよ。一割残れば上等ってもんでしょう」

 やはり危惧したとおり貴族の子弟たちは新しい軍の教練についてこれていないようだ。

「全く、ドラ息子どもめ…………」



 ワラキアに残されている時間はあまりにも少ない。

 ただ幸いなのはキリスト教世界の英雄、フニャディ・ヤーノシュを敗走させたことにスルタンムラト二世がいたくご満悦で、莫大な下賜金を与えてくれたことだ。

 これまでオスマンに従順と思わせてきたのが良かったのだろう。

「殿下、ボッシュが参りました。

「通してくれ」

 ボッシュはワラキア南部のジムチャを領する中堅貴族で、ベルドの領地のお隣さんなのだという。

 見るからに意思の強そうな赤毛に鷲鼻の押出の強い顔立ちである。

 俺の帰還に伴いいち早く忠誠を誓ってくれた人物でもある。

「殿下におかれましてはご機嫌麗しく……」

「遠路よく来てくれた。ボッシュ」

「とんでもございません。殿下のお呼びとあらばいつなりと」

 そういってボッシュは深々と腰を折った。

 まじめ一辺倒で会話にも面白みはなく融通がきくとはお世辞にも言えないが、いざというときに頼りになる男はこんな男なのかもしれない、と思う。

 同時に正義感の厚い男でもあり、今回任せようとしている任務にはうってつけの男だった。

「話はほかでもない。卿に国内の治安と国民の戸籍の編纂を任せたいのだ。今後は内務卿を名乗るがよい」

 現在ワラキアは旧来とは違う新たな行政組織を次々と新設していた。

 国内を裏から統制するのは、新たに情報卿に就任したシエナの役割である。

 表の世界で警察権を行使する立場の人間としては、ボッシュのように嫌と言うほど正論を吐くような人間がトップに立つべきだった。

 彼ならば地味な作業にも何一つ不平を言わず、ただ淡々と国民のためにつくすだろう。

 それに先代ヴラド・ドラクル以来、野放しになっている農民の逃散や流入の調査は喫緊の課題であった。

 人口は何よりもわかりやすい国力の目安のひとつである。

 戦で無主となった土地を分け与えるとともに、納税するべき農民の実数を国家が把握することは今後の国内改革の基盤として絶対に必要なのだった。

「身に余る光栄でございます」

「今なら無主の土地を無償で国家が与えることを布告せよ。農民の次男三男ならば一家を興すのにまたとない機会だろう。農具についても公国が負担するとな」

「よろしいので?」

「いずれ十分お釣りがくるから問題ない」

 残念なことだが布告の効力は貴族の所領までには及ばない。

 しかし結果的に公室直轄地が、人口の増加と耕作地の増大によって繁栄すれば彼らも追随せざるをえなくなるだろう。

 いずれにしろこのまま耕作地が、戦いに荒廃するに任せていては公国に未来はないのだ。

「それと輪栽の農地を出来る限り春までに広げて欲しい。この普及がワラキアの未来のカギを握っているといっても過言じゃない」

「――――――輪栽………でございますか?」

 耳慣れぬ言葉にボッシュは軽く首を傾げた。

 いまだワラキアを含めた世界各国は原始的な二圃制(畑を二分割して片方を地味回復のために休耕する農法)に甘んじている。

 これに対し地力を回復させる牧草を栽培することによって休耕させることなく畑を耕作し、かつ牛や馬などの家畜を飼育可能にしたのが18世紀イギリスを中心に欧州で爆発的に広まった輪栽式農法であった。

 小麦~カブ・テンサイ~大麦~クローバーの四輪作が一般的であり、飼料の生産の目処がたったことで冬季の家畜飼育が可能となり、農業生産力が飛躍的に高まったことで農業革命などとも言われる。

 せっかくの耕地を無駄にしておく手はない。

 というよりそんな余裕はワラキアにはない。

 それでなくとも輪栽による根葉類の増産は、ワラキアにとって短期的な外貨獲得の切り札でもあるのだ。

「本当にそのようなことが可能なのですか………?」

 さすがのボッシュもそう問い返さずにはいられなかった。

 本来ボッシュの信条としては、臣下が大公の言葉を疑うことなどあってはならないことだ。

 しかしヴラドの言った言葉はあまりにボッシュの常識から逸脱していた。

 もしヴラドの言うことが事実であるとすれば、長年の戦火で荒れ果てたワラキアが転じて豊穣の国となるのもそう遠い日の話ではないだろう。

「まずは公室の直轄地だけでもいいぞ? 余の言葉を信じられなければ、だが」

 不敵に微笑むヴラドの表情を見て、慌ててボッシュは自分が想像以上に取り乱していたことを知った。

 主君に対してその発言の真偽を疑うなど、臣下としてあるまじき発言であった。

「さ、さようなことは決してございません! 殿下にお仕えできたこと、生涯の喜びといたします!」

 貧しい領民たちがたくさんの食料を笑顔で収穫している姿が思い浮かんで、ボッシュは思わず顔をほころばせた。

 本当にくそまじめな男だな、と思わず苦笑がもれてしまう。

 それでも面従腹背のくされ貴族を相手にしてきたせいか、ボッシュの態度は好感を抱きこそすれ何ら気分を悪くするものではない清々しいものだった。

「それと………戸籍が完成した村から種痘を開始する」

 再度なぜ、と問いかけたくなるのをボッシュはかろうじて自制した。

 ボッシュの知る種痘は西アジアを中心に広まったもので、天然痘の患者の膿を健常者に摂取させることによって、人工的に天然痘に感染させその抵抗力を得るというものだ。

 欧州では天然痘に対する忌避感からかあまり広まらなかったが、一部ではこの予防法を取り入れる王家なども存在した。

 ブルボン王朝最後の王妃となったマリーアントワネットの実家であるハプスブルグ家では一家そろってこの種痘を受けていたために、ルイ15世が天然痘に罹ったときもマリーは全く平然としていたという。

 ただ問題はこの種痘が必ずしも安全なものとはいえなかったことである。

 人痘の摂取は往々にして、抵抗力をつけるまえに摂取者を死にいたらしめるケースがあったのだ。

「…………そう心配そうな顔をするな」

 ボッシュの悩みの内容が手に取るようにわかるだけに俺はますます彼の人間性に対する信頼を深めた。

 特にこの人痘の摂取は軽度とはいえ天然痘に感染するため体力のない子供や老人、または栄養状態の悪い庶民が犠牲になることが多かった。

 ハプスブルグ家のような王室がこの種痘を実施できたのは栄養や衛生の環境が整っていたからである。

 無理に種痘を実施したならば下手をすると罪もない子供たちが空恐ろしい規模で天に召されることになりかねなかった。

「人ではなく牛の膿で種痘をすればまず死ぬことはない。それでこのワラキアから天然痘は根絶できるだろう」

 今度こそボッシュは己の耳を疑った。

 元現代人である俺にとってこそなんということはない知識だが、牛痘法がエドワード・ジェンナーによって確立されたのは18世紀も末期になってからの話である。

 世界ではじめてワクチン、という言葉が使われたのもこの牛痘法が端緒となっている。

 それまで人類は細々とした人痘のほか天然痘に対しまったく無防備な身体をさらしてきたのであった。

 もしヴラドの言っていることが事実だとすれば、いや、もちろん事実なのであろうが……それは人類史上における金字塔にも等しい話なのである。

 かつて古代ローマで三百五十万人という空前の死者を出し、いまなお大量の人命を奪い続けているこの病が予防可能だとすれば、いったいどれほどの命が救われるか見当もつかない。

 天然痘で死んだ祖母のことがボッシュの脳裏をよぎった。

 優しく凛々しく厳しくもあった祖母は、ある日天然痘を発症するや離れに隔離されその後一切会うことを許されなかった。

 しかも死んでしまった後も離れごと焼却されて、祖母の思い出は根こそぎ灰燼のなかに消し去られた。

 天然痘の感染力は凄まじく、ほんの一欠けらの瘡蓋ですら一年以上は感染力が持続するのだ、と寂しそうな父に教えられたのはそれからしばらくしてのことだった。

…………自分は今、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれない。

 この年若い主君は、ワラキアばかりか戦乱渦巻くこの悪しき世界に平和をもたらす使命をおびて生まれてきたのかもしれない。

 そんな埒もないことを考えてしまうほどに、ヴラドの発言はボッシュの常識を完全に打ち砕くものであった。

 その主君に仕えることができたばかりか、閣僚にまで引き上げてもらえたことにボッシュは誇らしさと感動で胸がいっぱいであった。

「殿下がこのワラキアにお生まれになったことこそが神の天祐でございます。我が命に代えても殿下の御意のままに!」

「うむ、期待している」

 ボッシュの誠実な人柄は戸籍編纂や種痘には心強い味方となる。

 最初は誰でも新しい政策には恐怖を覚えるものだ。

 特に為政者によって痛めつけられ続けてきた民衆にとってはなおのことである。

 しかしワラキアにとってこれは長期的な発展のためも避けては通ることのできない道筋である。

 さらにそれだけではなく、ワラキア国内における種痘の成功は欧州全土に対する有力な政治的カードになるだろう。

 天然痘によって死亡した君主は何もルイ15世に限ったことではない。

 いずこの国の君主でも、出来うることなら天然痘の恐怖から解放されたいと思っているに違いないのだから。

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