第8話 ハンガリー王国摂政ヤーノシュ出陣

 俺が執務室に入るとすぐにシエナが入ってきた。

「全て殿下の手はず通りに」

「あまり信用しすぎるなよ?」

「もちろん、裏を取ることを忘れるつもりはありません」

 シエナはもともと宮廷で仕えていた優秀な文官であった。

 だが親友の裏切りによって冤罪を着せられ、奴隷に落とされてオスマンに流れてきたところを俺が助けたのである。

 諜報機関の立ち上げを任せており、今回の措置はその第一歩だ。

 城を出た西部貴族のうち幾人かは、利益で釣ったり弱みを握ったりと、こちらに情報を流してくれることになっている。

 完全に信用することはできないが、情報源が敵の中にあるというのはたとえその情報がどんなに小さなものでも貴重だ。

 家族を全て失ったせいか、表情というものが欠落したシエナは能面のような顔とは裏腹に、この世界の理不尽に対する怨念が燃え盛っている。

 頭脳の切れ味では俺の配下中随一なのは確実であり、裏方の作業を厭わないシエナは俺の側近の中でも特別な存在だった。

「ハンガリー王国摂政ヤーノシュ、思ったよりも早く動くかもしれません」

「期待していたヴラディスラフがあの有様ではな」

 下手に俺に力をつけさせてからでは遅いと、あの老練な男であれば考えているだろう。

 しかしそんなことはとっくに覚悟している。

「引き続き連中の見張を絶やすな」

「御意」


 シエナと入れ替わりに入ってきたのはゲクランである。

 丸太のように横幅の広い体格は、一見太っているようにも見えるがその実敏捷な鋼の筋力を秘めている。

 そして膝まで届きそうな長い腕は、剣や弩を巧みに使う一流の腕であった。

「なんとか使い物になりそうなのは、片手で数えるくらいじゃありませんかねえ」

「その程度だとは思っていたよ」

 お互いに視線を交わして苦笑してしまう。

 西部貴族をあてにはしないと決めてはいたが、俺と敵対するのを恐れる貴族がもう少し多いと思っていたのだ。

 消極的でも味方になるならそれにこしたことはない。

 処刑されたのは一割強程度の貴族で、残りのほとんどはトゥルゴヴィシュテ城を出ることを許されていた。

 そして俺に言われたままには帰還せず、改めて忠誠を誓うと城に残ったのが十家ほど。

 そのなかで信用できそうなのが四、五家ということだろう。

 傭兵であるゲクランは貴族のしがらみとは無縁だから、ドライにその人間を見ることができる。

 かつて雇い主に裏切られたこともあったが、ゲクランに言わせると、雇い主が裏切るのは想定のうちで、見限るタイミングをしくじった自分が悪いのだそうだ。

「ところで殿下、新兵どもですが、本当に穴掘りと弩の訓練だけでよろしいので?」

「いつまでもそれだけでは困るが、今はまだそれでいい」

 オスマン帝国からの援軍が本国へ帰還する日は近い。

 できるかぎり引き延ばす気ではいるが、あまりオスマンからの影響が大きすぎると今後の治世が難しくなる。

 大人しくお帰りいただくのは既定路線だ。

 史実通りであれば二か月後、ハンガリー摂政ヤーノシュの支援を受けたヴワディスラフは数万の兵とともにワラキアに帰還する。

 これに対して俺の手札はおよそ二千の直属と、二千から三千の新たに忠誠を誓ってくれた貴族軍ぐらいだ。

 見境なく貴族を動員すれば一万は越えるかもしれないが、すぐに裏切りそうな貴族なんて危なくて使えるものではない。

 その穴を埋めるための戦力が平民を中心とした初期的な常備兵である。

 急に組織された新兵が戦場で役に立たないことを、歴戦のゲクランは十分承知していた。

 もし本気で使い物にするなら、半分は脱落してもいいつもりで地獄のような訓練を施すしかない。

 あえてそれをしないのは、まず数が必要であること、そして速成には速成なりの戦い方があるということだ。

「ま、やれるだけやってみるさ」

 大人しく座して死を待つのはヴラド・ツェペシュには似合わないのだから。



 ハンガリー王国摂政にして事実上の王であるフニャディ・ヤーノシュは不機嫌も露わに舌を鳴らした。

 まさか擁立したヴワディスラフがここまであっさり敗れるとは思っていなかったのだ。

 すでにハンガリー王国の王位を指呼の間に捉えている身としては、失態を重ねるわけにはいかない。

 ワラキア公国などヤーノシュにとってはオスマン帝国との緩衝地帯として制御できていればよいだけの存在だ。

 そんな土地のために大規模出兵をしなければならないなど、無駄な徒労であるとさえ思っていた。

 このときフニャディ・ヤーノシュ38歳、まさに男盛りといって脂ののった年齢である。

 彼は若き日神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントに見出され、傭兵隊長からトランシルヴァニア公へと抜擢された。

 もともとはワラキアからトランシルヴァニアへ流れてきた豪族の出身であるとも言われ、決して高貴な身分などではなくただその力量によってハンガリー王国の摂政にまでのぼりつめた立志伝中の人物である。

 身長は小柄ながら、炯炯と輝く眼光と知性にあふれる表情は彼が一代の英雄であることを告げているかのようであった。

 しかし弱点がないわけではない。

 やはり下層階級の出身であることから後ろ盾が薄く、ヴァルナの戦いで主君ウラースロー1世を失ったときには、危うく責任をとらされ処刑される寸前まで追いやられた。

 彼が救われたのは、国王を失ったことでハンガリー国内が未曾有の混乱に陥ったこと、そして皇帝ジギスムントの腹心として培われたローマ教皇庁との太いパイプのおかげであった。

 その教皇庁から、再び十字軍を起こしオスマン帝国を打倒するよう催促が届いている。

 ワラキア公国がオスマン帝国の属国に成り下がる事態はなんとしても防がなくてはならなかった。

 せっかくヴラド二世を暗殺することに成功したのに、全く余計な手間を取らせてくれる。

 早期に決着させねばなるまい、とヤーノシュは重い腰をあげた。

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