第6話 初陣
あれから二年が経過しようとしている。
史実通りならクソ親父が部下に裏切られて暗殺される時期が近づいていた。
人質とはいえ俺とラドゥの待遇はそれほど悪いものではない。
いずれはオスマン帝国の属国を支配するための道具となるからと、メムノンやその他の家庭教師に高等教育を受けさせてもらったのは大きかった。
オスマンの政治体制や習俗、さらに軍事教練などもみっちりしごかれた。
そうして東欧から外の世界から見えるのは、ヨーロッパ各国の王権の脆弱さである。
キリスト教世界が愚民化を推進した結果、科学技術や自然科学は発展するどころか逆に衰退した。
すでに古代ギリシャの時点でピタゴラスたち数学者が、地球が球体であり天が地球を中心に回っているのではなく地球が回っている地動説を理解していた。
そしてデモクリトスは原子論を唱え、またヒポクラテスは実践的な科学医療の基礎を築いた。
にもかかわらずこうした知識は、ローマ帝国の衰退とともに失われ迷信がそれにとってかわっていく。
魔女狩りなどはその典型的な例だろう。
逆にイスラム世界はこうした停滞とは無縁であった。
彼らは二世紀のエジプト、プトレマイオス朝が作成した世界地図に修正を加え、その正確さゆえにヨーロッパに逆輸入され重宝されることになる。
また中国とイスラム世界で発達した製紙技術のおかげで、グーテンベルグ印刷機が発明されるというのはなんと皮肉なことであろうか。
いずれにしろこの時代のヨーロッパが、オスマン帝国に劣勢であるのは当然の帰結であり、むしろよく頑張っているのでは、と思う俺であった。
――――セルビア国境の田舎町
五百ほどの兵を持たされ、俺は反乱の鎮圧に駆り出されていた。
「ヴラド様、来ます」
回想にふけっていた俺の横に馬を進めてきたベルドの言葉に、現実に引き戻された俺は気を取り直して前を向いた。
先日、俺のクソ親父がとうとう暗殺されたらしい。
オスマン帝国としては、手駒として俺を後継に送りこむ腹だ。
今日の出撃はその準備運動のようなものである。
セルビアで抵抗を続けるキリスト教徒貴族を殲滅し、自らがオスマン帝国の手先であることを世界に示せ、というのだった。
「要するに童貞を切れ、ってことなんだがな」
「ヴラド様、お口が悪いですよ?」
抗議するベルドはあれから二年で予想を裏切る成長を見せていた。
身長は百七十センチに達し、剣と槍においてはヴラドを上回る使い手である。
整った容姿は街の娘たちを魅了しており、密かにオスマン貴族の中にもベルドに懸想する令嬢がいるほどだ。
ラドゥにも劣らぬ美少年に成長したベルドであるが、幸か不幸か胸の方は全く成長しなかったようであった。
「果たしてそれが良かったのか悪かったのか……」
「なんか失礼なこと考えてませんか?」
「いやいや、ゲクラン、ひとあたりしたら引いてくれ」
「おやすいごようでさあ」
ゲクランはフランスから流れてきた傭兵で、ハンガリー王国の貴族に雇われていたが、雇い主に裏切られて処刑されそうになっているところを俺が助けた。
戦術指揮官としての才能は白眉と言ってよく、傭兵たちに顔が広いため今ではなくてはならぬ存在だ。
「ネイ、敵が戦列を乱したら横撃して駆け抜けろ」
「御意」
ネイはベルドの遠縁にあたるワラキア貴族の三男で、先祖の地を追われて放浪しているところをスカウトすることができた。
ひょろりとした細身長身の男で、身長は百九十センチを越えるだろう。
並外れて馬術に優れていて、俺の数少ない騎馬隊を任せている。
もう一人の騎士タンブルと、財務担当のデュラム、そして情報担当のシエナがこの二年に間に幕下に加わった仲間であった。
まだまだその数は少なく、オスマン帝国の支援がなければまともな軍隊を組織することもできない。
だがその骨格となる部分は確実に育っている。
今日はその結果を確認するための戦いなのだ。セルビア貴族たちには悪いが、運が悪かったと思って悪魔(ドラクル)の犠牲になってくれ。
「主に逆らう異教徒どもよ! 天の裁きを受けよ!」
数百ほどの兵力が三つほどの集団に分かれてヴラドの本陣へと押し寄せた。
そのもっとも大きな中央の鼻先をゲクランは派手に殴りつける。
「ぶっぱなせ!」
わずか数十丁ほどとはいえ、火縄銃の轟音が鳴り響き、そしてやや遅れて弩兵が矢を放つ。
正確に出鼻をくじかれた集団は明らかにその速度が鈍った。
しかし両翼から進んできた集団に側面から包囲されそうになったため、ゲクランは傭兵らしく足早に戦線を後退させる。
逆に左右と正面から一斉にゲクランへ襲いかかろうとしている集団は、それぞれの行動が足かせとなり陣形に乱れが生じた。
そこ機会を逃さず飛びこんだのがネイ率いる百騎の騎兵集団であった。
「吶喊! そのまま突き抜けろ!」
錐のように鋭く、ネイは見事に三つの集団の動線の中心をえぐるように貫いていく。
指揮系統が混乱した敵を見たゲクランは、会心の表情を浮かべて獰猛に嗤った。
「もう敵じゃねえ、獲物だ」
立ち直る隙を与えぬゲクランの攻撃で、ますます混乱を広げていく敵を見た俺はベルドに頷いて見せた。
「総攻撃だ! かかれ!」
蹂躙されていく味方を見てもはや敵わぬとみたセルビア貴族は、我先にと逃げ出していった。
もとより強固な指揮命令系統があるわけでもなく、イスラム支配に対する嫌悪感と宗教的熱狂によって反抗しているだけの存在である。
負けるとわかれば逃げるのも早い。
だからこそ根絶することもまた難しいのだが。
荒々しい気性で知られるセルビア貴族の反乱を、相手より少ない兵力で完勝した俺はついにワラキア公国の後継者たる資格を手にしたのだった。
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