第3話 新しい日常
翌朝、すこやかな俺の睡眠時間は突然に激痛によって破られた。
メリメリメリメリ…………!
「あいだだだだだだだだだっっ!!」
閉じていた目を無理やりこじ開けられたあげく、今度は無造作に口に手を突っ込 まれ舌を引き出される。
これは何か新手の拷問か?
「ふむ、どうやら後遺症は心配なさそうですな」
てめぇ!本当に瞳孔と舌を見て転落の後遺症がわかるのか?少なくとも俺は聞いたことねえぞ!?
冷たい目で俺を見下ろしているよく見知った男であった。
メムノンといって俺たちのような属国の子女の家庭教師のようなことをしている。
スルタンの信頼も厚い男で、医者であり学者でもある多彩な男だ。
涙目で睨みつける俺をこともあろうにフン、と鼻で嗤って男はラドゥの頭を優しく撫でつけた。
ひいき激しくね?
「もう心配はいらないでしょう。御心やすらかになさいませ、ラドゥ様」
「ありがとうございます! 先生!」
こいつ………いつか絶対泣かしてやる!
俺には一瞥もせずに、悠々と退出しようとする大男を剣呑な目で睨みつけているとラドゥが呆れたように小動物のような仕草で肩をすくめて見せた。
「兄様も先生にお礼を言ってください。寝ていてわからなかったでしょうが、昨夜つきっきりで看病しててくれたんですよ!」
「そ、そうなのか………そりゃ苦労をかけてすまない………」
「いえいえ、ヴラド様のお気持ちもわからなくもありません。かといって感心はいたしませんが」
「うう……返す言葉もない」
「本当に兄様はどうして先生と仲が悪いんですかね?」
すまんが奴が優しいということに犯罪的な匂いを感じてしまうのは気のせいか?
奴の対応は同じワラキア公国の公子に対して、明らかに私的な差別を感じずにはいられなかったぞ?
というか奴が俺達の家庭教師とか何の拷問だよ!
「でも…………もう………大丈夫ですね…………」
前世からの仇のようにメムノンに憤慨している俺を見てホッとラドゥがため息をついた。
そんな弟の様子に俺はようやくラドゥの瞳が赤く充血していることに気づく。
目の前で兄に自殺されかけた弟が、意識を失った兄を放っておけるはずがないではないか。
ヴラドほどに聡明ではないだろうが、ラドゥもどれほどヴラドが絶望し悲憤慷慨していたか薄々は気づいていただろう。
昨夜はきっと俺がまだ自殺したりしないか、急に病状が悪化したりしないか気が気ではなかったに違いない。
自殺しようとしたのは厳密には俺ではないが、自責の念にかられて俺はラドゥを抱き寄せた。
「ああ、もう大丈夫だ」
いったい何に対してかはわからないが、無意識のうちにそう俺は答えていた。
その言葉を合図にしていたようにグラリとラドゥの身体が傾き、薄ぼんやりとした表情で俺の胸に倒れかかってきて眠そうな目を擦る。
張り詰めていた緊張の糸が切れて、眠気を身体が思い出したのだ。
「起きるまで傍に…………いてくださいね?」
あっという間にスヤスヤと寝息を立て始めたラドゥに、俺は苦笑しながらその小さな身体を寝台に乗せた。
「そんなにがっちり袖を握られたら離れようにも離れられないだろ………」
――約二時間後
やばいやばいやばい!
俺は予想外の事態に脂汗を浮かべていた。
ラドゥさんそろそろ起きてくださらないかしら。今とっても人間の尊厳的なピンチを迎えているのですけど。
具体的には膀胱の限界的な意味で――――――。
「お願いだから離してええええええええ!!」
漏れちゃう……漏れちゃうからああああっ! 精神年齢二十二歳にしてその羞恥プレイは何かに目覚めちゃうからあああああああああああ!!
乾いた風を頬に浴びながら、俺はなんとはなく外の様子を眺めていた。
「―――――本当にいったい何が大丈夫なんだか」
積み上がった難問の数々に、重いため息ばかりが漏れるのを俺は止めることが出来ずにいた。
考えれば考えるほどに現在のこの状況は詰んでいる。
せっかくの現代知識もこの状況を助ける手段とはならない。
金もなく家臣もなく、人脈もなく地位も名誉も足りないという現状は、基本楽観的な俺でも憂鬱になるほどだった。
「ちゃんと人の話を聞きなさい」
ゴメス!
脳天に衝撃が走り目から火花が散る。
「うごごごごごご………割れる……頭が割れるううううう」
「兄様、せっかくメムノン先生が講義してくださっているのに失礼ですよ?」
「ラ、ラドゥよお前もか………」
基本真面目っ子だからな、ラドゥは。
拳骨を脳天に食らってのたうちまわって見せるのも、半ばは現実逃避に近いものである。
それほどに状況は悪い。――――というか最悪だ。
今のところくそ親父は、ワラキアで小部隊を指揮しそれなりの戦果をあげてはいるらしい。
しかしワラキア公国程度の国力では、オスマンの兵をいくらか殺すことはできても土地を占領し、さらにそこを維持していくことなど夢のまた夢にすぎない。
すなわち、戦いが続くほどに味方の兵と資金は失われ、それを補充する見通しもたたないというわけである。
逆にオスマン帝国には巨大な国土と支配下の属国から上納される莫大な資金源がある。
ワラキア公国にできるのは、ジワジワと衰弱死するのをわずかながら遅らせることだけにすぎないのだ。
戦っても部下に旨味を与えられないどころか負担を強いる君主の末路など決まっていた。
史実どおりであれば2年後の1447年、親父ドラクル2世と長男ミルチャは味方の貴族に裏切られ暗殺されてしまう。
彼の暗殺はハンガリー王フニャディ・ヤーノシュが企んだ陰謀であるという説もあるが定かではない。
結局のところ小戦に勝利するだけで、戦略的なプランを用意できなかった親父が悪いのだ。
じり貧で被害が拡大していくのに一方的に忠誠を維持しようというほうがおかしいのだから。
(二年後………史実通りに進めばムラト2世は親父の後釜に俺を据えようとする………)
オスマンとハンガリーの間に横たわる緩衝地帯がおめおめとオスマンの軍門に下るのをハンガリー王ヤーノシュが見過ごすはずもない。
オーストリアに野心のあるヤーノシュとしては、ワラキアとオスマンは適度に敵対関係にあってくれることが望ましいのだ。
当然自分の息のかかったヴラディスラフをかつぎあげ、俺に敵対してくるのは自明の理であった。
まずはここで敗北しないことがフラグ回避への第一歩となるだろうか。
(…………ああ…………気が重い…………)
キリキリと痛み始める胃を片手で抑えて俺は苦笑する。
わずか十四歳で胃痛持ちとか本気で笑えない。
国力において圧倒的な差があるばかりでなく、ワラキア公国の周りは敵ばかりだ。
かろうじて隣国のモルダヴィア公国とは良い関係を築いているが、北方のトランシルヴァニアの領主を兼ねるハンガリー国王ヤーノシュはワラキアを属国化する気満々である。
遠方にはオスマンに対抗できそうな大国フランスもいるのだが、いかんせん彼の国は現在イングランドと百年戦争の真っ最中であった。
つまり頼るべき盟友が期待できない。
独力でオスマン朝にワラキア公国程度の小国が立ち向かうとか、第二次世界大戦で日本がアメリカと戦うよりも遥かに無理ゲーに近い話だった。
(…………ったく、いったいどうしたもんかねえ…………)
ドビシイイイイイイ!
「んのおおおおおおおおおっ!!」
目が! 目が! 今、鞭の先っぽがビシッ! って目に! ぐああっ! いでえええええええ! しみしみしみりゅううううう!
「本当にいつまでたっても懲りることを知らない人ですな…………」
懲りるとか懲りないとかそういう問題じゃねえだろ! しかも今明らかに嬉しそうに笑ってやがりましたよね??
ふふふ…と不敵に笑って再び講義を始めるメムノンと、心配そうに見つめるラドゥの手前、必死のやせ我慢で俺は右目の激痛から意識をそらした。
いつかきっと後悔させてやるからな!
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