第2話 目覚めた先は

 子供の泣き声が聞こえた。

 すすり泣くような嗚咽と、そして鼻水をすする音。

 これはもしかしたらあれか? 自分の葬儀を自分が幽霊になって目撃するとかいうオカルト漫画で定番の?

 家族が泣いている光景を見るのはいたたまれないな~からと思いつつ、俺はゆっくりと目を開けた。

「……………兄様!」

 はて? うちの妹は確かに自慢の器量良しではある、いささかお転婆で俺の呼び名は兄貴であったはずなのだが。

 そんなことを考えて俺は4歳年下の可愛い妹を思い出す。

 受験生であるにもかかわらず、スポーツ推薦で進学の内定していた妹は、受験勉強に明け暮れる同級生を尻目にゲーム三昧の自堕落な日々を自宅で送っている。

 あんな妹でも兄が死ぬと泣いてくれるのだなあ、などと思っていると……

「…………兄様!…………兄様!」

 トーンこそ高いが、女性ではなくどうやらまだ声変わりのしていない少年の声のようだった。

 はて、俺を兄様などと上品な呼び方をする奴は親戚の中にもいなかったはずだがいったい誰だ?

「兄様! ヴラド兄様! 目を開けてください! お願いだから死なないで………!お願いだから………もう………僕を一人にしなでください!」

 ポツリポツリと頬に落ちかかる暖かな水滴が感じられる。

 まさか涙――――――?

 ようやく焦点が合い始めた視界に、金髪の見目麗しい美少年が大きな瞳からポロポロと涙を流して嗚咽しているのが飛びこんできた。

 ふとお互いの目と目が合うと、少年は破顔して抱きついてきた。

「ああっ! 気がついたのですね! よかったヴラド兄様!」

 パッと輝くような微笑を浮かべるている少年が誰だろうと首をひねるのだが、一向に思い出せない。

 えぐえぐとまだ嗚咽をこぼしながら頬を摺り寄せるようにして抱きついてくる少年を、俺は戸惑いつつも半ば本能的に頭を撫でてその背中を抱いた。

 手触りのよいサラサラの金髪からは、生得のものなのかまるで女性のような甘い香りがした。

 それにしても―――――――。

 

――――――――いったい誰がヴラドだって?


 愛らしく整った顔立ちの目の覚めるような美少年は、その名をラドゥと名乗った。

 名前を聞いたら兄様がおかしくなった! とまた泣かれてしまったのはご愛きょうだ。

 ふっくらした白皙の頬がほんのりと赤く色づき、涙で充血した大きな瞳はまるで小動物のように無垢な輝きを放っている。

 あえて言おう、ショタである、と。

「大丈夫ですか? 兄様……………」

 不安気な表情で上目遣いにジッと見上げてくる子犬のようなその様は、ある種の嗜好をもつ人間ならば鼻血を吹きそうな破壊力が感じられた。

 この目に逆らえる人間がいたら是非お目にかかりたい。

 幸い俺にはその趣味はなかったとはいえ………うん、なかったはずだ。きっと、たぶん、おそらく………。

 やがて意識がはっきりとしてくるに従って、大きなたんこぶの出来た後頭部や身体の節々から激痛が襲ってくる。

 どうやら骨折や内臓の損傷は免れているらしいが、全身のあちこちをぶつけたようで、打撲からくると思われる激痛はなかなかに厳しいものであった。

 いったい何をしたらこんな怪我が………。


「――本当にあのテラスから落ちる兄様を見たときは心臓が止まるかと思ったんですからね?」


 ラドゥが指差す方向には、石造りの見事な半円形のテラスが張り出している。

 その高さはおそらく3mはくだらないように見えた。

 本当にあそこからこの固い石畳に落ちたのだとすれば。よくもまあ命があったものだ。

 というより打撲程度で済んでいるのは奇跡に等しい。

 それにしても………。

 ヴラドとラドゥ。

 その名には聞き覚えがある。

 聞き覚えがあるどころではなく、その名は俺にとって非常に重要で身近なものであった。

 そう、串刺し公ヴラドには美男公と呼ばれる美貌の弟がいたはずだ。

 もしこの美少年がそのラドゥなのだとすれば―――――芋づる式にヴラドは俺ということに………。

 いやいやいやいやいやそんな馬鹿な!ありえないだろう、常識的に考えて!

 だが確かに俺はあのカルト野郎に短剣を突き刺されて………刃がズブリと胸に食い込む嫌な感触をおぼろげながらも覚えている。

 心臓を狙ったと思われるその傷口は、仮に運よく心臓を逸れたとしても致命傷と呼ぶには十分なものであったはずだ。

 ということは俺は一度あそこで死んだ―――――?


 無意識に胸のあたりをまさぐるが、打撲の痛みはあれど刺し傷らしきものはどこにも見当たらなかった。

「…………大丈夫ですか?やっぱり頭を強く打ったから…………」

 心配そうに見つめるラドゥの頭を、俺は苦笑してクシャリと撫でる。

 ――――――あんまりそんな無防備な顔をするな。道を踏み外す人間が出てきたらどうする。

 ラドゥは猫のように目を細めて、うれしそうに兄に頭を撫でられるに任せている。

 否、むしろ頭のほうをもっと撫でろと言わんばかりに俺に向かって突き出しさえしていた。

 そう言えばオスマンの後押しを受けてヴラドと敵対する以前、二人はとても仲の良い兄弟であったらしいという記述を思い出す。

 まあ常識的に考えて、この可愛い弟をじゃけんに扱うことのできる兄はこの世におるまい。

「ところですまんがラドゥ……………」

「はい?」

 つぶらな瞳でまっすぐ見つめてくる可愛い弟よ。兄ちゃんそろそろ限界だよ。

「早いとこ医者を呼んできてくれるか?」

 あっと叫ぶように短い悲鳴をあげてラドゥが医者を呼びに駆けだしていく。

 目が覚めたら実は現代とか言ったりしないかな…………そんなことを考えつつ、俺は再び闇の彼方に意識が引きずられていくのを自覚した。


それから何時間が経過したのだろうか。

再び目を開けたら心配そうな顔で、ラドゥが俺を見続けていた。

おかしいな、また幻覚が見える。

思わず現実逃避してもう一度寝ようとしたら、それはもう全力で泣かれた。

「兄様ひどいです…………」

「すまん、もう少しだけ何も考えずに寝ていたかったんでな」

 グスグスと鼻をならすラドゥの頭を撫でてご機嫌を取りながら、俺はあらためて薄暗い部屋を見渡した。

 石造りの粗末な部屋で一国の王子にあてがわれるにはいささかみすぼらしい感を禁じ得ないが、あるいはこれがワラキア公国の国際的な立場なのか。

 目が覚めたばかりの頭がすっきりとしてくるまで、さらに数分の時間を要した。

―――――――ああ、そういえば…………。


 無意識に浮かび上がるヴラドの記憶がある。

 おそらくこの世界で生きていたはずのヴラド本人の記憶なのだろう。

 その記憶に沁みついた深い………否、深いなどという表現では追いつかない底なしの絶望と憤怒の感情に俺は思わずこめかみを抑えた。


―――――父は捨てた。オレとラドゥをまるで邪魔もののように…………塵のようにあっけなく。

 それでもなおワラキア公国は強大なオスマンに勝てない。勝てるわけがない。そして隣国も誰も自分たちを助けてはくれない………。

 父が家族を捨ててまで得られるのはわずかな時間と、ほんの少しの自己満足にすぎないのだ。


 いったいどうしてどうしてどうしてどうして

 神は弱き者に救いを与えられないのか。

 いったいどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

 神の信徒は互いに争い、悪魔との戦いを前に足を引っ張り合うのか。

 いったいどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

 いつも悪魔の力は神の信徒の力を上回るのか。

 ああ、神よ。貴方は何故にこの地上に悪魔の蹂躙を許したもうのか。

 予想を超えて聡明な少年であったヴラドは、父が人質である自分たちを見捨てた理由も、遠からず父が敗れ去ることも正確に洞察していた。

 そしておそらくは、この世に本当は神などいないのだ、ということも。

 彼にとってこの世は、理不尽によって道理が嬲られ、強者によって弱者が捕食される地獄にほかならなかった。

 生きていてもこの地獄から解放されるのは不可能であり、死によって神が断罪するというならばそのときこそ自分が神を告発してやろう。

 この理不尽な世界で生き続けるより、そのほうがよほどいい。

 そう決意してヴラドはテラスから飛び降りたのだ。


 常識的に考えてオスマンが裏切り者の人質を生かしておく理由はなかった。

 だから自殺などしなくてもヴラドが処刑される蓋然性は高い。

 それでもあえて自殺というキリスト教の禁忌を犯してまでも死を選ぼうとするほどに、少年ヴラドの絶望は深かったのである。

 ギュッと小さな手のひらがヴラドの右手を包みこんだ。

「安心してください、兄様。スルタン様は寛大なお心で僕たちを許してくださいました」

 だから怖がる必要はないのだ、と。

 自分たちを見捨ててた父のために死ぬ必要などないのだ、とラドゥは微笑して言った。

 その純真な感想に俺は思わず苦笑する。

 スルタンが善意で生かす判断をしたはずがないからだ。

 まだ利用価値があると見られたのは僥倖ではあるが。

―――――確かヴラド・ドラクル2世がオスマンに叛旗を翻したのは1445年だったか?

 竜公と恐れられ一定の戦果はあげたものの結局2年と持たずに暗殺されてしまったはずだ。

 その後釜としてヴラド・ドラクル3世が選ばれ、オスマンの後押しでワラキア公に即位するものの、あっさり味方に裏切られてわずか2ケ月で今度はハンガリーに逃亡。

 ハンガリーの支援を受けて父と同じくオスマンに反抗を開始したヴラド・ドラクル3世に対抗して、新たに担ぎ出された傀儡がラドゥであった。

 兄弟は敵と味方に分かれて血みどろの戦争を戦い抜くことになるのである。

 オスマンにとって都合のいい傀儡としての保険―――貴重な駒として飼われるのを感謝すべきかどうかは微妙なところだ。

 それでも平和に笑うラドゥを見ていると、余計な裏事情など知らずに無垢なままでいるほうが、ラドゥにとっては幸せなのかもしれないと思った。

 賛否はあれども美男公ラドゥは、歴史上終生オスマンよりの政策を取り続けその生を全うできたのだから。

 もしかしたら彼がオスマンに忠義を尽くした原因は、国際的な力関係のみならず、この日スルタンに命を救われたことも大きいのかもしれなかった。

「―――――だからこれからも僕といっしょにいてくださいね?」

 断られることなど考えてもいない。

 そんな真摯な瞳で見つめるラドゥをどうして拒否することができよう。

 父と長兄に裏切られた今、ラドゥがこの世に頼るべき肉親はヴラド一人しかいないのだ。

 俺のひざの上に乗ったまま赤ん坊のように胸に頭を摺り寄せるラドゥに答える代わりに俺はギュッとラドゥの小さな体を抱きしめた。

 たとえ将来敵同士に分かれるのが歴史の定めであるとしても、俺はラドゥを突き放すことなどできるはずがなかった。

 ――――――いまやヴラド・ドラクルになってしまった俺にとって、仮初にも肉親として純粋に慕ってくれるのはラドゥただ一人なのだから。

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