保留

「楽しそうだね!」


 そんな時、後ろから声がした。影山の表情が戻る。振り向かずとも、それが誰だかすぐに分かった。天野蒼志。マンカイ放送のキー局・フロンティアテレビジョン(通称:FCS)から制作局長として出向してきた人物である。


「お、お疲れ様です。天野さん」

「朝倉さん、元気だね! 元気なことはいいことだ!」


 天野との会話が始まったばかりのタイミングで、影山はひなたに声をかけた。


「朝倉さん、そういえば2時からのアポは大丈夫ですか?」

「はい? あっ、やばい! ありがとうございます、失礼します!」


 ひなたは急いで階段を下りていく。天野は苦笑しながらそれを見送った。


「なんだよー、せっかく会えたのにアポがあるとは残念だ」

「そうですね」

「しかし、あの式典思ったより長いな! スピーチが長いのかもしれんが……」

「何のご用ですか? 話したいのは、朝倉さんじゃないですよね?」


 影山はいつもよりも低い声で問いかける。彼の眼は笑っていなかった。


「例の件、考えてくれているか?」


 天野も単刀直入に切り出す。影山が予想していた通りの話題だった。

1か月前、彼は飲みの場で影山を密かにスカウトしている。


『影山、俺と東京に来い。FCSアナウンサーとして、迎え入れる』


 影山の返答は「保留」だった。それ以来、2人は特段接する機会もなく、宙ぶらりんのままとなっている。


「その件でしたら、考え中です」

「お前には神保町の空気が合っていると思うぞ?」

「僕は既に一度“断られた”人間ですから」

「上を説得する。今の俺には、あの時よりも力がある。任せてくれって」

「僕も、次の予定がありますので」


 影山はそう言いながら、席を立ち、空になった缶を持ってゴミ箱へ向かった。


「諦めないからな。お前は『カゲアナ』で留まっていい人間じゃない」


 背中越しに声をかける天野に、影山は一度振り向いた。


「なぜ答えを保留しているか分かりますか? そういうところですよ」


 彼はそれだけ告げて、再び背中を向けて仕事場に戻っていった。

 影山の背中を見つめる天野。さらにその背後をたまたま通りかかったのは、ひなたの同期でありアナウンサーの岩戸ほたるだった。


「神保町って、FCSテレビがあるところ……!? え、影山さん、うそ……!?」


 一人呟きながら、気づかれないようデスクに引き返していった。

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