天井の本の虫⑤

「透、あんた徹夜してんでしょ」

「はは、なんで?」


 無頓着笑って首を傾げる透先輩は、思えばいつもよりテンションがおかしい。元々、僕はテンションに弄ばれているものだから、どちらにしても立ち位置は変わらないけれど。異質性は明らかだった。


「分かりやすいっての。何? 締め切りギリギリなの?」

「だから、僕に構っている場合じゃなかったんでしょ。ていうか、あのとき既に徹夜テンションだったんですね? 道理でいつもより強引なわけですよ」

「なんだよ。良い結果になったんだから文句ないだろ。蒼汰デレデレじゃん」


 言いながら、また透先輩が僕の髪の毛にじゃれてくる。完全に深夜テンションだ。こんな面倒な一面があったとは知らなかった。厄介この上ない。


「あー、もう。いい加減にしてくださいよ」

「嬉しいんだろーが」

「あんたにじゃれつかれても嬉しくないですよ!」

「栞ちゃんに褒められてるのは嬉しいんだろ」


 そこに反論はない。黙った僕に、透先輩がまたぞろ、けたけた笑う。本当に箍が外れているようだ。笑い上戸になるらしい。


「わっかりやすいなぁ」

「そりゃ、そうでしょ。透先輩だって褒められれば嬉しそうにしてたじゃないですか」

「褒められて喜ばない人はいないだろ。それこそ、羽奈先輩だって、千佳子だって、栞ちゃんだってそうだろ」


 こっちから一般的なことに落とし込んだ。だから、同意が取れるのは願ったり叶ったりだが、全員を巻き込まずともいい。透先輩はハイになっているようだ。


「できた作品を褒められたらめちゃくちゃ嬉しいよ。それは、そう」

「それはそうだけど、透はあたしのこと褒めるなんてしなくない?」

「関係ないだろ。でも、千佳子はいい女じゃん」

「透、あんた大丈夫?」


 ハイになっているだけかと思ったが、とんでもないことをすらっと言い放つ。僕も非常にぎょっとしたが、千佳先輩は憎々しげな顔になった。腕を抱いて擦るおまけまでついている。凄まじい拒絶だった。


「何だよ。何か文句があるのか」

「いや、フツーに気持ち悪いけど」

「普段あれだけ自分で自分を認めておいて?」

「それとこれは別じゃん。透がって言うのがあり得なくて気持ち悪いって言ってんの。もう寝なよ」

「なんだよ。褒めてるんだから邪険にすることないだろ。今は褒められたら嬉しいねって話をしてるんだろうが。主旨をブレさせるな」


 面倒な絡みをしているくせに、変なとこだけ理論的だ。これは相当面倒くさいぞ、と頬が引きつりそうになる。からかうの範疇を超えた面倒くささだった。

 千佳先輩も、異常な気持ち悪さに加わったそれにとことんまで嫌な顔になる。もしや、こんな先輩の相手をずっとし続けてきたのだろうか。だとすれば、日頃から嫌気が差しているのも分かるような気がした。

 これは、どう控えめにいっても面倒くさい。


「私も褒められることは少ないですけど、やっぱり褒められたら嬉しいですから、千佳先輩と山下先輩の関係性から導かれるものはイレギュラーってことでいいじゃないですか」


 栞も面倒くささを感じ取れたのだろう。手早くフォローするような言葉を投げた。透先輩はうんうんと頷いている。いつもよりも動作が大袈裟だ。どこかでスイッチを押してしまったようで、悪化しているような気がした。


「そりゃ、俺と千佳子は特別だろうけど」

「もう、分かったから寝なよ」

「ていうか、栞ちゃん褒められないの? 蒼汰、褒めてやれ」


 この辺りは平常でも言いかねないことだが、いかんせん強硬で荒っぽい。ばんと人の背を叩くのもいただけなかった。


「なんすか、その雑なのは。そんなの、栞だって困りますよ」

「今、嬉しいって言ってただろ?」

「分かった。分かりましたから、もうあんたは寝てください」


 馬鹿正直に会話を続けていても、進展が期待できそうにもない。

 透先輩は疑わしい目で僕を見ていた。栞に小説を読ませる段に、散々尻込みしていた姿を見ているから疑っているのだろう。変に整合性を持ち出してくるところが煩わしかった。口に出していないのだから、僕の被害妄想かもしれないが。


「透」


 今にも僕に絡んで離れそうになくなりそうだった透先輩を制してくれたのは、千佳先輩だった。僕を助けてくれようとしたわけではないだろうが、ありがたいことこの上ない。僕はその隙を突いて、透先輩から距離を取った。


「遊ばれたくなかったら黙って部屋に戻りな。あんたが仕事を頑張ってるところはすごいと思うけど、そのために後輩をからかわない。漫画家先生様でしょ」

「そんな偉いもんじゃねぇっての」

「えらいえらい。透先輩は良い子だから休んでいいんだよ。寝なよ」


 適当な相槌であっただろう。反面、先輩という呼び方は敬ってもいた。そして、初めてそう呼んでいるのを聞いた。

 栞が不思議そうな顔で二人を見比べている。二人の先輩・後輩関係について知らされていなかったのかもしれない。僕だって、羽奈さんが言ってくれなければ、知る由もなかったことだ。

 それほど二人はごく自然に振る舞っていた。砕け方は、他の追随を許さない。


「……どうしたんだよ、千佳子は」

「透先輩がおかしいんでしょ。ほら、部屋に戻ろう」


 千佳先輩が態度を変えたことで、透先輩も多少冷静になったようだ。

 殊勝さに感動しているというよりも、殊勝さに怪訝を持ったというほうが正しい。いつもと会話のトーンが違うが、反応する部分はそう変わりはなかった。

 千佳先輩は実際に立ち上がって透先輩の肩に手を乗せる。本格的に場を収めてくれるようだ。


「子ども扱いするなよ」

「してないって、労ってるよ。戻ろうよ、透先輩」


 言葉は柔和だが、肩を押して立ち上げようとする手つきはぐいぐいとかなり力強い。透先輩は唇を尖らせながら、勢いに負けたように立ち上がる。

 一気に態度が幼くなった透先輩は、やっぱりテンションがブチ壊れているようだ。深夜テンションというよりは、酔っ払いの相手のようだった。そんなものしたことないけど。


「ほら、透」


 立ち上がった透先輩の背を押す千佳先輩の姿は、いつもよりはずっと優しい。遊び歩いているときの粗略な女子高生という雰囲気は削がれている。

 今は千佳ってよりは千佳子、って感じだな、と感覚的に思ったのは、透先輩が啖呵を切ったときのことが頭に残っていたからだろう。


「千佳子」

「ちょっと、急にエンジン切れそうにならないで! 部屋までは持ってよ。蒼汰、そっち掴んで」


 千佳先輩の肩へ手を回した透先輩の身体が傾ぐ。堪えた千佳先輩が苦しげに僕を呼ぶので慌てて立ち上がったが、それよりも先に羽奈さんが透先輩の肩を支えていた。


「もうしっかりしなよ、透くん。千佳ちゃんにまで見限られちゃうよ」

「千佳子は俺を見捨てねぇですよ」


 どうやら正気をなくしているらしい。眠さの限界なのか。首が船を漕いでいて、寝落ちるのも時間の問題だろう。そんな中で落とされた言葉が本音か戯れ言かは、判断が難しいところだ。

 羽奈さんは微笑ましいものを見るような顔をしていたが、千佳先輩は苦虫を噛み潰したような顔になっている。

 当の透先輩は寝入る前の甘えたモードに突入でもしたのか。当人が知ったら後で醜聞として悶えるのではないか。そう疑うほど千佳先輩の肩に頭を寄せて懐いている。

 奇異な態度に腹の底がムズムズした。それは、よく知っている先輩がよく知っている先輩に甘えているという雰囲気がいたたまれないこともあるだろう。

 僕と栞は目を合わせて苦笑を交わし合った。思えば、この二人の現場で、僕らは傍観者になることが多い。


「行くよ、透」

「うん」


 こくんと深く頷く頭はかなり怪しかった。そのまま項垂れた透先輩をどうにか焚きつけつつ、二人が部屋へと運んでいく。

 入れ替わりを申し出たほうが、と思うが今更入れ替わるのも面倒そうだった。何より、透先輩が千佳先輩から離れるかどうか怪しい。やっぱり、特別なのか、とうがちながらその姿を見送ることになった。

 居間に取り残された僕と栞は顔を見合わせる。場を乱しまくっていた透先輩がいなくなったことで、居間は静まり返った。静かに座り直した僕は、そわりと座り位置を直す。

 自分たちが何の話をしていたのかを思い出すと、平常心ではいられない。かといって、透先輩の話を蒸し返すのも気が引けた。

 それは栞を褒めるようにけしかけられた記憶が新しいからかもしれない。


「……山下先輩、あんなふうになるんだね」

「千佳先輩もな」

「千佳先輩は元々、世話焼きだよ」

「そうか?」


 千佳先輩はフレンドリーだし、人情があるのは俺も知っている。だが、世話焼きという印象はなかった。首を傾げた僕に、栞は小さく頷く。


「あれこれ声かけてくれるし、荘での暮らし方とか教えてくれるよ」

「栞はここでの過ごし方分かってるだろ?」

「お婆ちゃんのところへやって来てたから知ってるけど、実際に暮らすとなると話は別でしょ? そういうところを千佳先輩に教えてもらってたの。蒼くんと一緒の部屋になったときも」

「困ったことあったか?」


 栞は普通に暮らしているように思えた。もちろん、まったく困っていなかったとは思っていない。だが、そこまで困らせていたのかと思うと忍びなかった。僕の不手際だろうかと、気持ちが落ち着かない。

 栞は苦笑いになって小さく首を左右に振った。小さいところに不安が残ったが、それは単に栞の挙動が他人より細やかであるだけの話だったようだ。


「気持ちの問題だよ。緊張するもん」

「……そんな様子は見えなかったけど」

「結局、蒼くんのほうがずっと気を遣ってくれて、部屋を出て行ってくれたりする時間があったから、分からなかっただけだよ」

「僕の移動が息抜きになっていたのならよかったよ」


 気遣いに溢れた行動であったとはいえない。自分の居心地の悪さから逃避するために移動していたようなものだ。棚からぼた餅の効果にしか過ぎない。


「蒼くんも息苦しくなかった?」

「そんなことないよ。部屋に戻ったときに違和感があったくらいだ」

「一気に部屋が広くなったような気がしたよね」

「僕は天井を見上げることが多くなったよ」


 これは失言だったように思う。栞を想っていると言っているのとそう変わりがないのではないか。しかし、それは僕の自意識過剰に過ぎなかった。栞にしてみれば、事件のことを指し示すだけだ。


「もう落ちないからね」

「そう何度もあったらたまらないよ」

「まぁ、そうだよね」


 くすりと笑えるのは、きちんと改修をしてもらったと確信が持てるからだった。

 ゆっくりと笑いを収めた栞は、目を細めてこちらを見る。何だろう。首を傾げた僕に、栞は思い出すかのような顔をしていた。


「同じ部屋にいるときからずっと、蒼くんは小説を書いてたね」

「栞はずっと読んでたな」

「いけなかった?」

「そんなこと思ったこと一度だってないよ」

「嘘だよ」


 一刀両断なそれに、眉を顰めた。

 僕は一度だって、栞の邪魔をしたいと思ったことはない。それに、栞が読書している姿を見るのはとても好きだった。好きだというオーラが溢れかえっているのが、見ていても癒やされる。

 だから、嘘だと切り捨てられる謂れはなかった。


「歩き読書はダメだって思ってるでしょ」

「それはそうだろ。僕だから注意で留めてるだけだよ。普通ならもっと矯正されているからな。本当に気をつけなきゃダメ」

「蒼くんがいてくれるときだけにするから大丈夫」


 ……僕がいることが前提になっているのが、むず痒くて仕方がない。何度も繰り返した会話であるし、相変わらず問題しかないけれど、そわそわしてしまう。自室に戻ってから、栞のそばにいる耐性が随分落ちたような気がした。


「私はこれからもいっぱい読むけど、蒼くんはこれからも書くの?」


 その二つがどう繋がっているのかよく分からない。

 ただ、肝なのはその繋がりではなく、僕が書くかどうかという問いかけの部分であるのだろう。それを悟れるようになった関係値まではなくなっていなかった。


「……書くと思う」


 口にしながら考えを巡らせる。

 本当に書き続けるのか。自信はない。書いているときには苦しいことだってある。けれど、やはり口にしてしまえば、書くだろうなと感情が固まった。

 それは、もしかすると栞に告げたから、ということもあったのかもしれない。


「そっか。また読ませてくれる?」

「……うん」


 その勇気が出るかどうかは分からなかった。また日和見が発動しかねない。それでも、見せないという選択を選ぶことをできないこともまた事実だった。

 頷いた僕に栞が嬉しそうな笑みを浮かべる。胸がくすぐったい。たったそれだけで、きっと僕は何度だって栞に読んでもらいに行くんだろうと確信した。


「色の話、いっぱい聞かせてくれ」

「うん。今度は色図鑑見ながら話そう?」

「いいな、それ」


 そうすれば、僕が勘違いするような事態にはならないだろう。一瞬でも、へこんだりすることもなくなるはずだ。

 頷くと、栞は本当に嬉しそうに笑う。暖かい橙色がぱっと空気に散って見えて瞬きを繰り返した。


「どうしたの……?」

「いや? どうもしないよ。楽しそうだなと思って」

「蒼くんと話しているのはとっても楽しいよ」


 蕩けるような喜色に、ぎゅうと胸が引き絞られる。

 本当に逃れられないような気がして、僕は思わず天井を見上げてしまった。部屋でも何でもないのに癖になっていることに気がつくと、笑ってしまうことしかできない。女の子に対して、天井のイメージを持つってのも変な話だ。

 あのとき、栞が落ちてきてから、僕の中で何かが動き出したことは間違いなかった。それは、栞とのことだけではない。

 小説のこと。透先輩のこと、千佳先輩のこと、羽奈さんのこと。そのすべてが、一息に色を持って動き始めた。そのめまぐるしさに押し流されてここまで来たのだ。そして、きっとこれからも変化していく。栞とこうして過ごす限り、僕は前進せずにはいられないのだろう。

 そして、それは存外悪くなく、心地良いものだった。

 栞のおかげだろうというのは、重々理解している。結局、僕はチョロいだけだ。それでも、栞が嬉しそうにしている。それだけがすべてだ。

 静かな夜に、本の虫の声がぽつりぽつりと落ちていく。そうして、夜は更けていった。

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