天井の本の虫④

 栞の読書時間は、昼間から夕方にまで及んだ。

 僕はずっと居間に居座っていて、その間に千佳先輩が顔を出して、出かけていって、そしてまた帰ってきた。羽奈さんは朝からバイトに行っていたらしく、帰ってきたのは栞が顔を上げる寸前の夕方だ。そうして、栞が顔を上げたころには夕食の時間になって、透先輩がフラフラで居間に戻ってきた。

 すぐにナツさんの手伝いに全員で動いて手を合わせる。その流れに押されて、栞に感想を聞くタイミングを逃した。

 僕らはそのまま全員で食卓につく。全員が揃い踏みになることなんて滅多にない。今日に限って、という気持ちが胸の中を渦巻く。

 会話はその時々で違った。それは話題の話ではなく、会話量の話だ。人数も反映されているかもしれないが、無言で食事が進むこともあれば、クロストークになることもある。

 いつもはその違いを特別意識したりしない。流れに身を任せるのが常だ。だが、今日はとてもじゃないが、意識せずにはいられなかった。

 僕の話は栞しか読んでいない。だから、みんながいる場で感想を告げるかどうかは不明だ。それぞれの会話になれば、僕にだけ声をかけることもあるだろう。どれもこれもあり得るために、意識が拭えなかった。

 食事のスピードがいつもよりもずっとのろくなる。喉を通らない、というほど切迫してはいないが、緩慢になるのを避けることはできなかった。

 いつも通り美味しいナツさんの料理をゆっくりと咀嚼していく。先輩たちの丁々発止の会話もいつも通りだ。羽奈さんが仲裁とも相槌ともつかない言葉を投げて、和気藹々としている。

 僕らもそこに時折混ざり、実に平常通りの食事時間だった。緩やかになっていたといっても、完食が必要以上に後ろになだれ込むことはない。後片付けを手分けして行うところまでも、あまりにもいつも通りで、僕は肩透かしを食らっていた。

 劇的な変化が訪れるなんて都合のいいことを考えていたわけじゃない。栞が矢も盾もたまらずに感想をくれるとも。

 それでも、会話がゼロってことはないだろうと思っていた。なので、肩肘を張っていたものだから、ちょっとした脱力感がある。そうして一時よりもずっと気持ちが緩んでいた。

 栞が読んでいる間張り巡らせていたものだから、間が持つはずもない。そして、おおよそのことはそうして油断しているときに、一撃がやってくるものだ。

 団欒の最中に持ち出してきたのは、事情を知っている透先輩だった。


「そういえば、どうなったんだ?」

「何が?」


 即応したのは千佳先輩だ。この二人は対抗しているが、その分反応も早い。感応がいいものだから、相手の言葉を受け流せないのだろう。とことん分からない二人だ。


「蒼汰の小説が完成したんだよ」

「本当? それはよかったね。一生懸命だったもんね、蒼汰くん」


 一から十までを説明しているわけではないが、僕は荘内で書いていたし、概要くらいは全員知っている。

 羽奈さんとは才能の話もしたものだから、他よりも一歩踏み込んで知っているくらいだろう。素直に喜んでもらえると、胸が温まった。千佳先輩は、へぇとばかりにこちらを見る。女性二人が僕のほうを見ていても、透先輩の視線は栞に向けられていた。


「どうだったんだ?」


 まったくもって、容赦がない。悪意はないのだろう。状況を作り出した張本人だ。事の顛末が気になることも分かる。それにしたって……という気持ちが拭えなかったが、僕だって気になって仕方のないことだった。

 ぐっと黙って栞へ目を向けると、栞もこちらへ視線を向けてくる。問いかけてきた透先輩ではなく、僕を見てくるのは栞らしい誠実さだ。


「面白かったよ」


 端的だった。具体的に何かが返ってくると約束されていたわけではないが、それにしたって端的だ。それを喜ばないわけではない。定型句といえども、褒め言葉に違いないのだから。

 だが、栞には豊かに感想を口にしていた過去がある。比較することではないはずだ。それでも、どうしても比較してしまうのを止められそうにもない。

 半端な顔になってしまった僕に、栞は小さく目を伏せた。感謝を、と滑る思考を回そうとしたが、喉元に言葉がわだかまっている。慌てると言葉が刈り取られるのは、僕の癖であるのかもしれない。

 考えてものを書くのはまだマシだが、会話になると僕はてんでダメなようだ。


「よかったじゃん」

「お疲れ様」

「何色だったんだ?」


 そんな僕のダメっぷりを見かねたわけでもないだろう。会話に乗ったり乗らなかったりするのは、日頃から起こりえることだ。だから、それぞれに口を出されるのも変じゃない。違和感もなかった。

 しかし、透先輩がしれっと聞いた言葉は、僕の心臓を一瞬で締め上げる。栞はぱちくりと瞬きして、再度僕を見た。

 真っ直ぐな瞳には、邪念ひとつ見当たらない。目を伏せたことに意味もないのだろう。恐らく、インターバルでしかない。本心は分からないけれど、悪感情や悪印象を持っている雰囲気はなかった。

 そうして、栞の口がおもむろに開く。


「灰色かな?」

「灰色」


 これは僕の自信のなさがそうさせるのだろう。それは分かっていた。

 だが、灰色と言うのは明るくはない。栞はラブコメでも黒いイメージもあると言っていた。灰色だからといって、暗いだけとは限らない。全部、分かっていた。だが、どうしたって灰色というのは薄暗い。曇天のイメージが拭えなかった。


「どういう印象だ?」


 復唱しかできなかった僕とは違って、透先輩はすぐに言葉を切り返す。栞もそうして促されることに違和はないらしい。こちらは心臓が痛くてたまらないほどドキドキしているというのに。


「えっと……静かで、優しくて、そっと寄り添ってくれる感じ。修羅場もあったけど、全体的に柔らかいかな」

「パステルカラーにはならないのか?」

「くすみカラーってやつじゃないの?」


 千佳先輩が横からしれっと透先輩の言葉に重ねる。


「そういう意味で言えば、グレーってとっても万能な色味だよね。優しいし、使いやすいし」

「なるほどな。くすみカラーか。流行ってるよなぁ」

「透ってそういうのチェックしてんの?」

「そりゃ、俺だってカラー絵描くしな。文房具でも増えてきてるし、目に留まる」

「透くんって抜け目ないよねぇ」

「ていうか、くすみカラーって他の部分でも流行ってんのか? ファッションは?」

「うーん? どうだろう? でも、服はくすみって呼ばないかも?」

「明るいほうが肌も明るく見えるし、やっぱり避けるんじゃないかな? ファッションは別かも?」

「でもグレーは不変の重宝アイテムじゃん」

「だとすると高評価だ」


 次々に展開していく色談義はとてもスムーズだ。

 羽奈さんには、先輩たちがそういう話をしているとは聞いていた。だが、羽奈さんだって美術に造詣がある。三人……どころか、栞だって色味に関心があるから、四人とも一家言と言ってもいい。そりゃ、これほどスムーズな流れにもなるだろう。

 呑気に話を聞いていたら、すぐに僕の作品への評価に話が戻ってきた。高評価、とまとめる透先輩に、どくりと心臓が高鳴る。


「とってもよかったよ。私は好き」


 既にたっぷりと付け足されて、悪い印象は拭えつつあった。しかし、はっきりと好感触であることを告げられると心臓が止まる。

 はっとなった僕に、栞は不思議そうな顔をした。透先輩には僕の心情が筒抜けらしく、面白そうな顔になっている。この人は、こんなときでも態度を崩さないのかと呆れそうになった。

 おかげで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。まさか透先輩のからかいにこんな効果が生まれることになろうとは、まったく予期していなかった。


「……栞が、好んでくれたんなら、よかった」


 どうにか絞り出した言葉は途切れ途切れで、聞きづらかったことだろう。それでも、口にすることで、喜びがじわじわと身体中に広がっていった。ようよう理解ができたことを体感する。

 栞はニコニコと笑顔を浮かべていた。それは面白い本を語るときに見せてくれていた顔だ。ますます実感に襲われて、驚きとは違うそわそわが身体を支配する。地に足がつかない。このまま天まで昇っていけそうな気がした。


「日常ラブコメは穏やかでそれがいいところだもん。蒼くんの話は、暖かくって……灰色だけど、冷たくはないの。ふわふわの毛布みたい」

「灰色の、毛布」

「うん」


 色に意識を取られ過ぎていたことを理解する。これは多分、先輩たちの色談義でもフォローできなかったことだ。

 色んなカラーのものが取り揃えられているものだ。灰色だからといって、暗い印象に固着することはない。毛布のふわっふわの手触りと温もり。それを思えば、法外な高評価であることが分かる。どくんどくんと心臓がいつまでも騒ぎ立てていた。

 最後に罵倒のコメントをもらって以来、自分の文章を人に見せてきていない。感想だってもらえていなかった。そこに注ぎ込まれた栞の言葉は、栄養のない土地に降り注いだ慈雨だ。

 ほわほわと使い物にならなくなってしまった僕の頭を、透先輩がぐりぐりと撫でてくる。その様子が微笑ましいのか。栞はずっと笑顔でいた。


「うまくまとまってるし、主人公とヒロインちゃんが仲良くなっていく過程を見ていると楽しいよ。ほくほくしちゃう」

「ありがとう」


 どうにか感謝を口にする機能はあったが、それ以上何かを言うことはできなかった。こんなにもポンコツなことがあるか。

 自身の不甲斐なさに呆れそうになるが、それを励ますように透先輩が頭をぐるんぐるんしていた。あまりにも揺さぶってくるので、眩暈がしそうになる。僕は透先輩の手を払った。


「ちょっと、あんたはもうやめろ」


 透先輩はけたけたと笑っている。何がそんなに面白いのか。どれだけ僕のことを気にかけてからかってやろうとしているにしたって、過剰過ぎた。

 半眼で見ると、千佳先輩も同じような顔をする。

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