宵闇の月

「私、バリアが張れます」


 思い切って宣言した。自分からカミングアウトするのは初めてだ。


「バリア?」


 男は無表情のまま少し首をかしげた。


「はい。バリアです。この力は、きっとここで働く上で、力になると思います。だから、働かせて下さい」



 目の前の男、この探偵事務所の探偵、山矢やまやは目つきの悪い男だった。黒いジャケットに黒いネクタイ。「お葬式のときみたいな恰好」第一印象でそう思った。あと、性格悪そう。


 でも、私は高校を辞めてここで働く。そう決めて、授業が終わってすぐ、制服のまま直談判に来たのだ。校則違反の金髪も、染め直す気はない。


「高校はもう辞めるつもりです。だから働かせて下さい」

「そうか。まあ、高校の話はあとにして、さっきの、バリアというのがここで働く上で力になる、とはどういう意味かね?」


 こっちがどこまで知ってるか試す気だ。全部知ってる。情報はちゃんと集めてきた。


「ここがただの探偵事務所じゃなくて、変な、妖怪退治をしてるって知ってます。ネットの深いとこで話題になってるの見つけたんです。私が働くには、ここが一番です」

「妖怪退治ねえ」


 山矢は顔色を変えず、否定も肯定もしない。

「私を雇ってください。きっと役に立ちます」

「役に立つ、か」


 無表情でそっけない態度。高校生が直談判に来ているのだ。もう少し優しく話を聞いてくれたっていいのに。だから大人は嫌い。


「まず、その、君の言うバリアっていうのを見せてもらっていいか?」

「はい」


 これを見せれば驚くに違いない。人前でやることはないから少し緊張する。


 私は一回深呼吸をしてから、右手を前に掲げ、えいっと声を出す。右手のまわり、直径30センチほどの円形に半透明の膜のようなものが出現する。これは、人の手を通さない。


「ほお。よくできてるな」


 私は、バリアを見られて、怖がられなかったのが初めてだったから、少し嬉しくなる。やっぱりここは普通の探偵事務所じゃないんだ。


「これが私のバリアです」

「そうか。ちょっと、自分の思う最強の強さにしてみてくれ」


 最強の強さ? どうやるんだろう。右手に力をいれてみる。こんな感じかな。


「やったか?」

「はい」


 すると山矢は煙草に火をつけ、ひとくち吸うと、ふーっとこちらに向けて煙を吐き出してきた。


 青紫色の煙がバリアに触れた瞬間、ぱちんとシャボン玉が割れるように、バリアは消えてしまった。


「あ!」

 煙は私の顔に直撃する。煙草臭い。


「強度はまだのようだな」


 言いながら山矢は煙草をもみ消す。馬鹿にされたようで腹が立つ。山矢は別に勝ち誇った顔もせず、冷静な顔。それもむかつく。


「君がバリアと呼んでいるそれは、結界というものだ。君はいつからできるようになったんだい?」

「小さいときからです」

「そうか。どうやってできるようになった?」

「それは……」


 ここで働くには言っておいたほうがいいだろう。


「子供の時に、お母さ……じゃないや。母に叩かれていたんです。幼稚園くらいのときです。手でベチンって頭を叩くんです。これが結構痛くて。それで、あるとき母の機嫌が悪くて、嫌だなーって思ってたら、やっぱり母がまた私を叩こうとしたんです。でも、私叩かれたくないから右手をあげて頭をガードしたんです。そしたら、なんか手のまわりに、今みたいな透明のガラスみたいなのが出てきて、私を守ってくれたんです」


 今でもよく覚えている。私を守ってくれた、透明のバリア。


「母はそのガラスを叩いたんですけど、娘の頭を叩くつもりが、ガラスみたいなものが出てきたからすごいびっくりしちゃって。それから、母は私のこといっさい怒らなくなったんです。叩かれなくなったのは良かったけど、もう完全に無視です。母が父と喧嘩しながら、あの子はバケモノよ、って言ってるのを聞いたこともあります」


 思い出したくないことだった。母の恐怖の表情。母は今でも私に怯えている。


「そうか。自分を守るために力が覚醒したんだろうな。嫌なことを思い出させてすまなかったな。辛い覚醒の仕方だったかもしれないが、君の大切な力だ。有効に使ったほうがいい。それに、君はバケモノではない」


 無表情のくせに急に優しいことを言われてたじろいだ。力を否定されなかったのは嬉しいけど、優しいことを言われるのは慣れていない。それに、大人が優しいことをいうときは、たいてい嘘だ。


「それで、雇ってくれるんですか?」

「うーん、高校生と言ったか?」

「はい。高校二年になったばかりです。でも、高校は辞めます。すぐに働きたいんです」

「高校を辞めてまで働きたいのはなぜだ?」

「高校は、親が行けってうるさいんです。本当は中卒で良かったのに。高校くらい行きなさいって。でも、私、親の言いなりなんて嫌なんです。私は自分の道は自分で選びたい。」

「そうか。じゃ、親が行けっていうから、行きたくないのか」

「ま、まあ、そういうこです」

「なら、辞めないほうがいいな」

「え?」


 この男もやっぱり他の大人と同じなんだ。親が行けっていうなら行け。なんだよ、その論理。


「親が行けって言うから辞めたいんだろ?それは、親が行けって言うから行く、と同じだ」


 は? 意味わかんない。


「わからないか? 君は親に反発するために高校を辞めようとしている。それは、君の意思か? それは君自身の選択か? 親への反発心だけが理由なら、もう少し自分自身の気持ちを考えたほうがいい。親が、行けと言おうが行くなと言おうが、関係ない。選ぶのは君自身だ」


 行けと言おうが行くなと言おうが関係ない。そんなこと考えたことなかった。親が言うことには反抗する。それが私の生き方のようになっていた。私の本当の気持ち。私自身の選択。


「高校は辞めないで、もう少し考えるといい」


 私自身が高校に行きたいのか行きたくないのか。真剣に考えたことはなかった。


「もし、私がこのまま高校に行ったとして、卒業したらちゃんとしたところに就職しろ、とか言うんですよね」

「ちゃんとしたところって何だ」

「わかりませんけど、親が納得するところ」

「就職先まで親のご意見を伺うのか。君は自分で思っているより、親御さんの顔色を伺っているんだな」

「そんなことありません」


 違う。私は、そんな気持ちでここに来たんじゃない。


「私は、私は、自分の居場所がほしいんです」

「居場所?」

「はい。本当の私を見せても、怖がられない場所。バリアを見せても、化け物扱いされない場所。私の力が、誰かの役に立つ場所。それを、本気で探したいんです」


 それが本音なんだ。私には居場所がない。


「そうか」


 山矢は少し黙って私の履歴書を見ている。


「佐藤さんか。エミっていうのはカタカナ表記か」

「はい。佐藤エミです。あの、名字あんまり好きじゃないんで、エミって呼んでください」

「エミな。わかった。うーん。居場所ねえ。」


 山矢は煙草をくわえようとして、やめる。


「よし、高校を卒業したら雇ってやろう」

「本当ですか?」

「ああ。正式に雇うのは卒業してからだ。ただ、それまでは見習いのような形でいつ事務所に来てもいい」

「あ、ありがとうございます」


 驚いた。まさか。私は受け入れてもらえたんだ。


「ここがエミの居場所になるかどうかは、見習い期間に自分で判断すればいい。高校を卒業するときに、まだここで働きたいと思う気持ちがあるなら、雇おう」

「はい。よろしくお願いします」


 ほっとした。本当は怖かった。


 直談判に来たものの、ここでも、誰も相手にしてくれなかったらどうしよう。妖怪退治なんてネットの噂はデマで、バリアを見せた途端、怖がられて追い出されるかもしれない。その可能性も考えていた。でも、私はとりあえず、迎え入れられた。


「結界の練習もしないといけないな。あんなシャボン玉みたいな結界じゃ、俺の事務所じゃ働けないぜ」


 山矢は少し口角をあげた。笑ったらしい。この人も笑うことあるんだ。


「俺は山矢だ。よろしく頼む」


 山矢が手を差し出してきたから、私は握手をした。


「はい」


 バリアを見せても受け入れてもらえた。私はそれが何より嬉しかった。




「とりあえず、高校にはちゃんと行くといい。あと、友達を作れ。いないだろ、友達」


 図星すぎて、うるさいな、と思う。


「山矢さんも友達いなさそうに見えます」


 性格悪そうだもん、と付け加えたら笑ってくれるかな。


「孤独な一匹狼だと思っているのか? こう見えて、ここの経営を全面的にまかせている税理士もいるし、いざというとき助けてくれる友人もいるし、助けてもらった恩師もいる。俺はひとりで生きているんじゃない。それはエミも一緒だ」


「私はひとりです」


 本当だ。誰も助けてくれたことなんてない。


「そんなことはない。俺のいう友達というのは、休み時間に必ず一緒にトイレに行ったり、毎日一緒に弁当を食べたり、毎日一緒に帰ったりするような関係の人間を言ってるんじゃない。俺のいう友達というのは、いざというとき、きっと力になってくれる、と信用できる相手のことだ。そしてその人に何かあったとき、必ず力になりたい。そう思える相手のことだ。いつも近くにいるから友達っていうわけじゃないんだ」

「いません。そんな人」

「いつか出会えるもんだ」

「本当ですか?」

「ああ。本当だ。ときどき、月の見えない暗い夜があるだろ?」


 何の話だ?


「月の見えない夜、ですか?」

「そうだ。月明りもない真っ暗な夜だ。自分のまわりは全て闇。恐ろしいし心細い。そんな夜もあるだろう。でも、月の見えない真っ暗な夜でも、月が実際に消えてなくなってしまうことはないんだ。探していればいつか、暗い夜道を月光が照らしてくれる時がくる。そういうものだ」


 私の夜道は暗いままだ。いつか出会える月光。考えたこともなかった。


「見習いとはいえ、未来の新入社員だからな。そうだな、エミは夕飯の予定はどうなっている?」

「夕飯ですか? いつもひとりで冷凍もの食べてます。さっきお母さんの話はしましたけど、お父さんも私のことは無関心なんです。高校に行けっていうのも、世間体を気にしているだけで。それで、私のせいで両親の仲も悪くて、ふたりとも夜中にならないと仕事から帰りません。夕飯はいつもひとりで冷凍ものをレンジして食べるだけです」

「そうか。じゃ今日は寿司を食おう」

「え? お寿司ですか?」

「苦手か?」

「いや、好きですけど」

「1階に寿司屋があるだろう。大将の寿司はうまいぞ」

「でも、私お金持ってません」

「大丈夫だ。経費で落ちる」

「ケイヒって何ですか?」

「職場の金でできるってことだ」

「そうなんですか?」

「ああ。好きなだけ食べればいい」


 やった! お寿司なんて何年振りだろう。外食自体全然していない。

やばい。嬉しい。何食べよう!


「にやにやして、そんなに寿司が好きか?」


 無表情で嫌なことを言ってくる。


「にやにやしてません!」

「そうかそうか。まあいい。行こう」


 私はスクールバッグを抱えて山矢さんのあとについた。


 もしかしたら私の居場所になるかもしれない場所。もしかしたら、私の上司になるかもしれない人。ちょっと変な人だけど、第一印象よりは嫌な人ではなさそうだ。私は自分で、ここが自分の居場所かどうか、ゆっくり決めればいいんだ。


 胸に淀んでいた不安が少し薄まった気がする。もしかしたら、私の真っ暗な夜道も、いつか月が照らしてくれるのかもしれない。そう思えた日だった。



 結局高校は辞めず、高校に通いながら、山矢探偵事務所に出入りする日々が始まった。


 山矢さんは相変わらず無口で無表情で何を考えているかよくわからなかったけど、私を受け入れてくれたあの日から、私は、この人を信じてみようと思っている。私は今まで自分自身で考えて行動していなかった。それに気付かせてくれたのは山矢さんだ。


 お寿司屋さんの大将はすごく優しい人で、大将も私の結界を見ても驚かなかった。


「すごい子見つけたね、山矢くん。いい助手さんになりそうだ」


 にこにこしてそんなことを言うから、私は恥ずかしかったし、むず痒かった。大将のお寿司はもちろん信じられないくらい美味しいし、風邪気味だと言ったときは温かいうどんを出してくれた。優しさが味に染み出ている。そんなお料理を作ってくれる人。


 税理士の野村のむらさんって人は、見た目は怖いけど、学校の勉強でわからないところを聞くとすぐ教えてくれる。めちゃくちゃ頭いい。探偵事務所で助手として働くつもりなら、ちゃんと勉強もしておいたほうがいいな、と野村さんを見ていて思った。だから、今までほとんど寝ていた学校の授業もちゃんと聞くようにしている。初めて会ったときに野村さんにも私の結界を見せたけど、全然驚かなかった。


「強度を強めたらかなり使えますね」


 なんてしれっと言われて、私がこの年まで化け物扱いされてきたのが嘘みたいだった。立て続けに3人も結界を驚かない。世界は私が思うより、広いのかもしれない。


 春に初めてここに来たとき山矢さんが「俺はひとりじゃない」と言っていたけれど、少なからず山矢さんには仲間がいる。そのことはわかった。私も仲間になれるだろうか。




 山矢さんの仕事は、私が知る限り、浮気調査とか飼い猫探しとかで、ネットで見た噂のような、妖怪退治のような仕事をしている様子はなかった。それでも山矢さんは、私に結界の出し方や強度の増し方、広げ方、形の変え方など、教えてくれる。山矢さんが結界を張っているところは見せてくれないけど、私は山矢さんに言われたとおりに思考錯誤しながら、何とか訓練を積んでいる。


 ずっと幽霊部員だった陸上部にも顔を出すようになった。探偵助手の仕事はきっと体力も必要だろう。授業を受けて、部活で走って、山矢探偵事務所に行って、ときどき夕飯をごちそうになって、帰宅。そんな日々が続いていた。

 クラスメイトから「なんかエミちゃん明るくなったね」って言われて「暗いと思ってたのかよ」って思ったけど、「そお? 別に変わらないよ」と答えておいた。でも、私は、少し明るくなったかもしれない。




 そんな日々を過ごして、あっという間に夏。


 夏休み初日。私は陸上部の練習もないし、やることがなくて午前中から山矢探偵事務所に行くことにした。


「ん? エミ学校はどうした」


 山矢さんはコーヒーを飲みながら煙草を吸っていたが、私が行くと煙草をもみ消した。


「今日から夏休みです」

「夏休み? 高校は夏休みなんてあったか?」

「ありますよ、山矢さん高校行ってないんですか?」

「いや、ずいぶん昔のことで忘れてしまった」

「昔って、大げさですね。せいぜい15年前くらいじゃないんですか?」


 山矢さんは30代中旬くらいに見える。


「どうだったかな」

「クラスの子たちも部活の子たちも、だいたい家族旅行なんだって。だから、この時期は部活も休みだし、やることなくって。うちは家族旅行なんて行ったことないですよ」

「旅行か。俺も旅行なんてしばらく行っていない」

「山矢さん、旅行なんて行くんですか?」

「いや、旅行というか、前に話したお世話になった恩師や友人が住んでいる村があって、自然が豊かできれいな場所なんだ。最近行っていない」

「ふーん。故郷みたいな感じですか?」

「故郷。そうだな。俺にとっては、故郷のような、ありがたい場所だ」

「ふーん」


 いいなあ、と思った。山矢さん全然孤独な一匹狼じゃない。身近にも遠くにも、仲間がいる。いいなあ。



 山矢さんの携帯電話が鳴る。


「お、噂をすれば、だな。故郷から電話だ。──はい、山矢です。はい。ご無沙汰してます。はい。まあ何とかやってます。いえ。はい。松山さんですか?はい、もちろん知ってます。え、3日も?はい。そうですか。わかりました。早いほうがいいですね。今日中に着くように行きます。それまで誰も山に近付けないで下さい。はい。また連絡します」


 電話を切ると渋い顔をする。


「エミ、俺は急な仕事でさっき話していた故郷に行くことになった。すまないが、何日かかるかちょっとわからない。3~4日帰ってこないかもしれない。事務所も閉めてしまう。食事に困ったら大将のところへ行ってくれ」

「仕事ですか?」

「そうだ」

「私も、行っちゃだめですか?」

「一緒にか? 旅行じゃないんだぞ」

「はい。わかってます」


 山矢さんの仕事にはもちろん興味があるし、山矢さんの故郷にも興味があった。


「だが、危険な仕事なんだ」

「大丈夫です。だって、私、助手として働きたいんですよ。一応、いろんな覚悟はしています」

「覚悟、か」

「それに、何の役にもまだ立たないと思いますけど、その、仕事の見学もしてみたいです」


 うーんと額に手をあてて考える山矢さん。お願いします、と頭を下げる。


「わかった。でも、危ない案件だ。勝手なことをしないことと、俺のいうことを聞くこと、それを約束してくれ」

「じゃ、いいんですか?」


 やった!


「いいだろう。そのかわり、親御さんのどちらか、今家にいるか?」

「え、親に言わなきゃだめですか?」

「当たり前だ。エミは良くても俺が良くない。日本には法律があってな、俺が勝手にエミを連れまわすと未成年者誘拐になるんだよ」


 言いながら山矢さんは携帯を取り出して電話をかける。


「あ、野村さん、急ぎでお願いしたいことがあるんですけど。はい。エミとふたりで山神村まで行くんです。はい。今日これからです。それで、未成年なんで、親御さんの了承を得ていることが証明できるような書類作れますか?はい。そうです。はい。よろしくお願いします」


 電話を切って、ふーと息をつく山矢さん。


「昼前には出発したい。3泊くらいできる荷物を家で用意しておいてくれ。俺は野村さんの書類を受け取ったらエミの親御さんに挨拶に行く。そこで断られたら諦めろよ。俺は犯罪者にはなりたくない」

「わかりました」


 高校生ってまだまだ子供なんだ。そう実感する。


 そりゃそうか。お父さんのお給料で買ったマンション。お父さんとお母さんのお給料で通えている高校。当たり前に使っている水道、電気、ガス。冷凍だけどいつも常備されている冷蔵庫の食事。自分の部屋。どれも私のお金じゃない。お父さんとお母さんが働いているから生活できているんだ。


 ちゃんとお願いして、山矢さんと出かけられるように、すごい久しぶりだけど、お母さんと目を合わせて話さなきゃ。




 山矢さんの車の助手席に揺られて高速道路を進んでいく。

 山矢さんの車は紺色の乗用車(セダンというやつ?)で、すいぶん古そうに見えた。昔、探偵業務の依頼料の代わりに依頼人からもらったらしい。車内は煙草の匂いがする。窓を開けると、私が住む街とは違う、木と土みたいな匂いがした。景色は、建物が少なくなって、木と畑と田んぼばっかり。


 こんなに遠くまで来たのは、いつ以来だろう。山神村まで3時間くらい、と言っていたから、もっともっと遠くまで行くんだ。私が知っているより、やっぱり世界は広いみたい。


 昼前に山矢さんが私の家に来て、お母さんに山神村の件を説明すると、案の定、お母さんは全く躊躇せずに私の3泊4日を承諾した。わかっていた。無断で外泊することだってあるし、誰の家に泊まったとか、聞かれたことないし。でも、こんなに心配されないのは、やっぱり私のことがどうでもいいからなんだろうな、と少し寂しくなったりする。私は、誰にも心配されず、誰からも期待されず、どうなってもいい人間。思わずため息が出る。


「どうした。もうホームシックか」


 運転しながら山矢さんが言う。


「え? 別に違います」

「なんだ。じゃ、腹が減ったか」

「まあ、お腹は空いてますけど」

「だな。俺もだ。次のサービスエリアで昼飯にしよう」


 山矢さんはサービスエリアに車を停めた。


 車を降りると思っていた以上に暑かった。私が住む街よりはマシだけど、やっぱり暑い。山矢さんはいつものお葬式みたいな恰好で、ネクタイを締めて、黒い長袖のジャケットまで着ている。暑くないのかな。



 山矢さんはフードコートで蕎麦を食べて、私はマックを食べた。

食べ終えて、建物を出る。


「エミ、ああいうのは、いいのか?」


 ああいうの? と思って見るとキッチンカーが停まっていて「ご当地かき氷」という看板が見えた。果物やクリームがたくさん乗ったかき氷のメニュー。美味しそう!


「え、でも、急いでますよね?」

「エミがデザートを食べる時間くらい想定内だ」

「えっと、じゃあ、食べたいです」


 すると山矢さんはお金を渡してきて、「好きなの食べてこい」と言って、どこかへ行ってしまった。どこ行くの? と思って目で追ってみると、すぐ近くの喫煙コーナーへ行って煙草をくわえた。


 なんだ、自分の煙草休憩じゃん! と思ったけど、ちゃんと私が見える場所にいてくれるから、ひとりでも怖くはなかった。私はイチゴと生クリームと練乳のたっぷり乗ったかき氷を食べる。めちゃくちゃ美味しい。山矢さんは煙草を吸いながら私を見ている。


 35歳くらいに見える目つきの悪い山矢さんと女子高生の組み合わせは、どんな関係に見えるんだろう。

 親子?それはないな。恋人?それはもっとない。じゃあ、誘拐犯と被害者?それが一番似合っているかもしれない。誘拐した女子高生にかき氷を奢ってくれる犯人。いいやつじゃん。妄想してみると山矢さんが本当に犯人みたいに見えておかしかった。



 目的地の山神村はずいぶんと山深いところにあった。私はこんな田舎には来たことがない。


 高速道路を降りてからもずっと走って、ずいぶん前に「この先ガソリンスタンドありません」と書かれたガソリンスタンドを過ぎて、またそのすぐあとに「この先コンビニありません」と書かれたコンビニも通り過ぎた。ガソリンスタンドもコンビニもないなんて、わざわざ書かなきゃだめなこと? と思ったけど、あれから40分以上車を走らせてようやく山神村に着いたから、やっぱり書いておかないと、だめだったみたい。


 コンビニなんて私の家のまわりだったら、徒歩圏内にセブンもファミマもローソンもある。歩いてコンビニに行けない生活ってどんなだろう? と思ってみたけど、ちょっと想像できなかった。



 車の中で、山神村の仕事がどんなものなのか、聞いた。


 山神村はちょっと特別な村で、不思議な出来事がよく起こる場所だそうだ。


 今回は、山に入ったまま、帰ってこない人がいるらしい。松山まつやまさんという人で、山矢さんも知り合いらしい。みんなで山を探したが見つからず、その人は忽然と消えてしまった。


 滑落や遭難ではなく、神隠しらしい。


 そんなことが本当に起こるのかな。神隠しなんて、本当にあるのかな。都会でも都市伝説とか、聞いたことあるけど、どれもガセネタばっかりだ。


 でも、「山神村は特別な場所だから」と繰り返し山矢さんが言うから、私は少し怖くなった。山矢さんが「危険な仕事」と言っていた意味がわかった気がした。




 山神村の公民館の駐車場に山矢さんは車を停めた。


「よし、着いたぞ」


 初めての場所に緊張した。知らない人しかいない場所。特別な何かが起こる場所。


 自然豊かで、山に囲まれて、高い建物は何もない。私の住む街よりずいぶんと涼しい。セミの声がわーわーと鳴っている。


「あ、山矢さん! 早かったですね。良かった。遠いところありがとうございます」


 知らないおじさんが近付いてきた。ちょっと小太りの、背の低いおじさん。白いポロシャツ。髪の毛がもじゃもじゃ。しきりに顔の汗をハンドタオルで拭っている。山に囲まれてこんなにも涼しいのに。このおじさん、都会に行ったら溶けちゃうんじゃない。


「あ、谷中やなかさん。どうですか、状況は」

「はい。状況は変わりません。山矢さんにお電話してから、誰も山に近付けていません」

「そうですか。では、さっそく行きましょう」

「はい。……ところで、こちらのお嬢さんは?」

「あ、そうでした。うちの事務所の助手です。ほら、エミ自己紹介」


 え、いきなり何? てか、このおじさん誰? 山矢さんを見ると、「自己紹介」と促してくる。


「えっと、佐藤エミです。山矢さんの事務所でお手伝いしています」

「そうですか。一緒に来ていただけて、頼もしいです」


 谷中と呼ばれたおじさんはにこにこしていた。


「谷中さんは山神村の村長さんだ。これから山神寺の住職さんに会いに行くから、そこでもちゃんと自己紹介するんだよ」と山矢さんに言われた。山矢さんは意外とマナーとかにうるさい。



 山神寺は古い建物で、大きくて立派だった。


 住職さんが出てきて、私はまた自己紹介をして、住職さんに褒められた。住職さんは袈裟? といったっけ。住職さんが着る服を着ていて、背が高くてガタイが良くて、優しい顔をしている。


 住職さんと谷中さんに、松山さんという人が消えてしまった経緯を聞いた。


 それは3日前、松山さんは自宅で昼食をとってすぐ、山菜を探しに山に入ったらしい。そしてそのまま帰ってこなかった。手分けして山を探したがいない。滑落のあともない。何の痕跡もない。3日経ったが見つからない。


 普通だったら警察や山岳救助に連絡するのだろうと思う。でも山神村の人は、「警察の前に、一度山矢さんに見てもらおう」という話で一致した。それで電話してきたそうだ。それは山神村の人の間で、不思議な現象が身近なことだからなのか。


「経緯はわかりました。住職さんと、谷中さんと、あと松山さんのご家族だけで、山に行きましょう。診療所のつぼさか阪先生には、すぐに診察できるように待機してもらっていてください」


 山矢さんはすぐに山へ向かう、と言った。


「陽が暮れる前に見つけたい」



 松山さんの奥さんは、色白で細くて、きれいな人だった。でも疲れているように見えた。目にクマがあるし、やつれて見える。旦那さんが行方不明になってしまったんだ。仕方ない。娘さんは、私と同じくいらいの年かな。黒い長い髪を三つ編みにしていて、かわいい子だった。


「山矢さん、うちの人は戻ってきますでしょうか?」

「はい。必ず、連れて戻ります」

「よろしくお願いします」


 私はふたりにも自己紹介をすると、「よろしくお願いします」と私にまで深々と頭を下げるから、私はどうしたらいいかわからなかった。



 山矢さんを先頭に、私、住職さん、谷中さん、松山さんの奥さん、娘さん、と歩いて山へ入って行く。山道は一応整備されていたが、ひとりで来たら迷いそうだ。


「エミ、絶対に俺より前を歩くなよ」


 無表情な山矢さんの口調が真面目だったから、私は緊張した。ごろごろした大きめの砂利が転がる足元、まわりは見上げるほどの大きな木々と、生い茂る背の高さほどの草。涼しい風とセミの声。ハイキングだったらとても気持ちがいいのに、と思った。


 15分ほど山道を歩くと山矢さんが立ち止まった。


「ここですね」

「入り口ですか?」


 住職さんが聞く。


「はい。ここで間違いないでしょう」


 入り口って何だろう。私から見れば、さっきまでの風景と何も変わらない。砂利道が続いているだけの山道。


 山矢さんは住職さんが用意したロープを腰に巻きつけた。


「松山さんを見つけたらロープを何度か引っ張るので、そしたらみなさんで松山さんを大声で呼んでください。中で私が説得するより、外から呼んでもらったほうが帰りやすい」


「わかりました」


 奥さんは気丈に答える。


「エミ、俺は行ってくるから、住職さんから絶対に離れるなよ」


 行くってどこに? と思ったけれど、こんなところで誰かと離れるなんて怖くてできない。


「はい」と返事をして、私は住職さんの後ろに下がった。




 山矢さんは腰にロープを巻いたまま、ひとりで数歩前に歩き出した。次の瞬間、見えない扉の中に入ったかのように、消えてしまった。


「え! 山矢さん!」


 私は本当に怖くなった。山矢さんが消えてしまった。


「エミさん、大丈夫。山矢さんなら、絶対に帰ってくるから」


 住職さんになだめられたけれど、こんなの、びっくりするに決まっている。


 山神村の人よりも、私が一番うろたえていた。みんな山矢さんが消えてしまったことを受け入れている。それだけ山神村は不思議な場所なんだ。特別なところなんだ。


 山矢さんは私の結界を驚かないで受け入れてくれた人。住職さんの言う通り、山矢さんならきっと大丈夫。私は助手として、山矢さんを信じなくてどうする。ちゃんと山矢さんの仕事を見ていなきゃ。


 住職さんがロープを握りながらお経を唱え始める。山矢さん、どこに行っちゃったのかわからないけれど、頑張って松山さんを連れて帰ってきてください。私も手を合わせて祈った。


 山矢さんが松山さんを探しにいくといって目の前から消えてしまってから、10分ほど経った。私は祈るしかできなかったし、それは残された全員が同じだった。住職さんはお経を唱え、松山さんの奥さんと娘さんは手を取り合って寄り添っている。誰も何も言わず、ただ時間が過ぎていく。


 そのとき、ロープがピンっと引っ張られた。


「おっ」


 住職さんが気付く。またロープが、ピンピンと数回引っ張られる。


 松山さんを見つけたサインだ。


「あんたぁー! あんたぁー! 戻ってきてー!!」


 松山さんの奥さんが大声を出す。


「お父さーん! お父さーん!」


 娘さんも大声で叫ぶ。


 その声があまりにも切実で、私は泣きそうになった。こんなに家族に必要とされているお父さん。どうして消えちゃったの。早く帰ってきてあげなきゃ、だめじゃん。


「松山さーん。松山さーん。みんな待ってるよー!! 帰ってこーい!」


 住職さんも谷中さんも叫ぶ。


「松山さーん!! 松山さーん!!」


 私も、叫ぶ。自分の家族でもないのに、どうしても松山さんに帰ってきてほしかった。


 何にも言わないで、こんなに寂しがってる家族を置いてどっかに消えちゃうなんて、だめだよ。奥さんも娘さんも、こんなに会いたがってるよ。いきなり消えちゃうなんて、なしだよ。


「松山さーん。山矢さーん」


 私は、突然消えてしまった山矢さんにも、早く帰ってきてほしかった。こんなに誰かに会いたいと思ったことはないかもしれない、ってくらい、早く山矢さんに会いたい。山矢さん、早く帰ってきて。早く戻ってきて。どこに消えちゃったの。




 そのとき、突然何もなかった空中から、どんっとひとりの男性が転げるように出現した。私はびっくりする。


「山矢さん、何を突然突き飛ばして~」


 その男性はきょろきょろして、「あれ、山矢さん一緒だったのにどこ行ったんだ?」とぼそぼそ言っている。


「あんたぁ!!」

「お父さん!!」


 松山さんの家族が男性に抱き付いた。この人が松山さんか。


「お! なんだお前たち、何してんだ。さっきまで山矢さんと一緒だったんだよ。いつの間にお前たち来たんだ?」

「もお、あんた、やっぱり隠されていたんだね。心配したんだよ」

「ありゃー、山矢さんに出会って、そう言われたんだけど、自分では30分くらい山を歩いていただけだったから、信じてなかったんだ。本当に俺は消えていたのか?」

「そうだよ、あんた。3日も帰って来なかったんだから」

「3日も! それは心配かけたな。やっぱり自分ではわからないものだ。まったく気づかなかったよ」


 娘さんは泣きながら「本当に良かった、会いたかった」と言いながら抱き付いて離れない。住職さんも谷中さんも胸をなでおろしている。


 私も泣きそうだった。何が起こったのか、まだ理解はできていないけれど、でも、今起こったことに、とにかく感情が揺れていた。


 そこに、突然、空中からぬっと山矢さんが出現した。またびっくりする。


「あぁ、良かった。うまくいきましたね」

「あ、山矢さん! さっきいきなり突き飛ばすから何かと思ったら、本当に俺は神隠しにあっていたんですね!」

「ええ、突然突き飛ばしてすみませんでした。神隠しの境目を越えられるか不安だったんで、荒療法でしたが、強引に外に弾き出しました」

「いやあ、最初信じなくてすみませんでした。でも、家族の声が遠くから聞こえるから、行ってみたらこれです。本当に助かりました」

「3日間さまよっていたようですから、念のため、壺阪先生のところで診察を受けて下さい。中と外では時間の流れ方が違いますが、念のため診てもらったほうがいいでしょう」

「はい。ありがとうございます」

「本当にありがとうございました」


 松山さんの奥さんと娘さんが山矢さんに頭を下げる。


「いえ、見つかって良かったです」

「本当に、山矢さんに頼んで良かった」

「ええ、本当ですね」


 住職さんも谷中さんも、山矢さんを相当信頼しているようだ。


「私はもう少しここで、入り口をふさぐ作業をします。これはひとりで大丈夫ですので、みなさん、村に戻ってください。作業が終わるまでは山に近づかないように」

「わかりました。では、松山さんはご家族と壺阪先生の診療所へ行ってください。私たちは村のみんなに松山さんが見つかったことを知らせてきます」住職さんが言った。


「エミはどうする?」


 山矢さんに聞かれた。私は山矢さんのそばにいたかった。泣きそうになっている顔を見られたくなくて下を向いて答える。


「私は、ここで山矢さんの作業を見ていてもいいですか?」

「ああ、大丈夫だ。おとなしくしていてくれればな」


 そう言って山矢さんは、私の頭にぽんと1回軽く手を乗せた。




 村の人たちが帰っていって、山にふたりで残された。


 山矢さんは「入り口」があった場所のあたりの宙を手で探るように動かして、何かぼそぼそと呟いて、また宙を探るように手を動かして、繰り返しそんな動作をしていた。後ろから眺めていたが、何をしているかわからない。そのうちパントマイムの壁のような動きになって、空中をパンパンと叩く。何もない透明の壁を固めるように。そして「よし」と呟いた。


「エミ、終わったぞ。これで大丈夫なはずだ」


 そういって山矢さんは「入り口」があった場所を進んでいった。私はまた山矢さんが消えてしまうんじゃないかと心配したが、「入り口」があった場所を通り過ぎても山矢さんは消えることはなく普通に進んでいって、「大丈夫だな」といって折り返して歩いてきた。


「念のため、少し山を見回ろう。入り口はもうないと思うが、一応パトロールだな」


 そう言って山矢さんが歩き始めるから、私はあとを着いていった。




 背の高い木と涼しい風。セミの声。湿った土みたいな匂い。


 松山さんの家族、良い家族だったな、と思った。あんなに仲の良い家族は見たことがない。私の家族は、両親も不仲だし、私も両親から避けられている。私が突然あんな風に消えてしまったとしても、私の両親はあんなに叫んで私を呼んでくれないんだろう。そして、私が見つかっても、あんなに喜んでくれないんだろうな。


「エミ、どうした、おとなしいな」


 山道を迷うことなくパトロールしている山矢さんが言う。


「え、だって、おとなしくしてなさいって言ったじゃないですか」

「もう入り口は閉めたし、もうそんなにおとなしくしていなくて大丈夫だ」

「ええ、まあ、はい」

「なんだ。あんなに来たがっていたのに、実際に仕事を見たら怖くなったか?」

「それもあります。目の前で不思議なことが起こって、正直ビビりました」

「うん。それは正しい気持ちだ。いつになっても、この仕事は恐怖心を忘れると、危ない。怖くなんてない、余裕だ、と思っていると、足元を掬われる。エミの恐怖は正しい」

「でも、それもありますけど、それだけじゃなくて。なんか……いいなあーって」

「いいな? 何がだ」

「松山さんの家族です」

「ああ、見つかって良かったな」

「そうじゃなくて。いや、見つかって良かったんですけど、その、あんなに心配してくれる家族って、いいなあって思って」

「ああ、そういう意味か」

「私の親は、私が突然消えてしまっても、たぶん、あんまり心配しません」

「うーん。親という生き物なら心配するんじゃないか……なんて簡単なことは俺には言えないな」

「そうですよね」

「世の中にはいろんな親がいるし、いろんな家族がある。良くも悪くも、生まれてくる家庭は選べないんだ。それは誰でも同じだ」

「本当にそうです。選べたら良かったのに」


 山矢さんは木の枝を拾って、真顔でビュッと私に向けてくる。危ないな。


「でも、そんなエミに朗報だ」

「なんですか?」

「生まれたあとに、自分が家族にしたい相手や、友達は自分で選べるんだ」

「知ってますよ」

「本当に知っているか?」

「知ってるけど、家族も友達も、すぐにできるわけじゃないです」

「そりゃそうだな」


 木の枝をぽいっと放って山矢さんは言う。


「もう入り口はなさそうだな。村へ戻ろう」





 山を降りて山神村へ行くと住職さんがいて、改めてお礼を言われた。


「山矢さんには本当にいつもお世話になりっぱなしで、本当にありがとうございました」

「いえ、お世話になっているのは私のほうです。困ったときはお互いさまです」


 山矢さんは普段は「俺」っていうのに住職さんには「私」っていう。変なの。


「壺阪先生に診てもらったところ、松山さんは怪我も脱水も衰弱もなく、元気だということです。やはり内側の時間経過が30分で済んだので、幸いしました」

「それは良かった」

「それで、村長さんの家に村のみんなで集まっています。村の女衆が集まって、食事を作りました。今夜は宴会になるでしょう。松山さんが戻ってきたお祝いと、山神様への感謝と、山矢さんと助手のエミさんへのおもてなしです」


 私はおもてなしされるようなことしてないな、と思いつつ山矢さんを見ると


「それはありがたい。ぜひ伺います」と頷いた。


 山の陽が暮れかかっていた。いつの間にかセミも鳴いていない。静かな夕暮れ。




 村長さんの家に行くと、だだっ広い畳の部屋に、たくさんの人が集まっていた。


 たくさんの料理、煮物や揚げ物、鍋物、真っ赤なお刺身みたいなのもあるし、お酒やジュースも所狭しとテーブルに並んでいて、そのテーブルを村の人たちが囲んでいる。女性たちが慌ただしく歩き回って食事やグラスを運んでいて、よく見ると松山さんの奥さんもいた。旦那さんが無事に見つかったからか、すっかり元気な様子で、私はほっとする。


「おー! 山矢さん! 来た来た。どうぞどうぞ! 座ってください!」


 村長の谷中さんに促されて山矢さんは座敷に入って行く。私も着いていく。


「みんなー! 山矢さんと助手のエミさんが来たぞー」


 谷中さんが声をあげると忙しなく慌ただしかった部屋のみんなが私と山矢さんに注目した。私は恥ずかしくて仕方なかった。谷中さんは室内にいるにも関わらずまだ汗をかいていて、おしぼりで額を拭ってから立ち上がった。


「ええ、今回、山矢さんのおかげで松山さんは無事に帰ってきました。遠いところはるばる来てくださった山矢さんと助手のエミさんに感謝し、山神様にこれからもお守りいただくよう感謝し、乾杯とします。みなさん、グラスをお持ちください。では、かんぱい!」


「かんぱーい」


 みんなが声をあげて、グラスをあわせる。おのおの食事を皿にとり始めた。


 私は、緊張したり怖かったりしていたから気付いていなかったけれど、こんなに美味しそうなご飯をたくさん目の前にして、自分がとても空腹だったことに気が付いた。


 山矢さんが「さあ、いただこう」と言って、私にお箸を渡してくれた。


 見慣れない料理も多かったが、ひとつずつ食べてみる。美味しい。どれも美味しい。お米も美味しい。真っ赤なお刺身に見えたものは馬刺しらしい。初めて食べたけど、これも美味しい。山矢さんが谷中さんと喋っているから私はひとりで夢中で食べた。




「エミちゃん?」


 声をかけられて。顔をあげると松山さんの娘さんがいた。


「あ、松山さんの」

「うん。隣いい?」

「あ、うん。いいよ」


 私は少し腰をずらして場所を空ける。


「今日は、お父さんを助けてくれて本当にありがとう」


 松山さんの娘さんは座ったまま頭を下げた。


「あ、いや、私は何もしてないよ。山矢さんの仕事を見ていただけだから」


 同じ年くらいの女の子と話すのは不慣れだ。


「私、小雪こゆき。エミちゃんって呼んでいい?」

「あ、うん」


 親し気で、ちょっと恥ずかしいけど、嫌じゃない。


「エミちゃん、山矢さんのところで助手さんしてるんでしょ? すごいね」

「別に、まだ見習いだし、ちゃんと働いてるわけじゃないよ」

「でも、すごいよ。あの山矢さんが認めたってことだもん。助手さんできるってことは、エミちゃんも、何か力があるの?」

「いや、山矢さんみたいに、小雪ちゃんのお父さんを助けにいったり、あんなことはできないよ。できるのは、結界張るくらいかな……」


 つい言ってしまってから、あぁ、やってしまった、と思った。急にそんなこと言われたら怖がられるに決まってるじゃん。


「え! 結界って、バリアみたいなやつ! できるの? すごい!」


 え、怖くないの? 想像に反して、小雪ちゃんは前のめりになってきた。


「いや、そんなすごいわけじゃないよ」

「え、すごいよ。見たいな! 見せてくれる?」


 小雪ちゃんが目をきらきらさせている。やっぱり山神村の人はちょっと変わってる。


「少ししかできないよ?」


 そう言ってから、私は右手に集中して、えいっと声を出す。右手から透明の盾のような結界が出現する。


 春から山矢さんに教えてもらって練習してきたから、直径50センチくらいの円形なら、かなり正確に頑丈に作れるようになった。


「すごーい!!!」


 小雪ちゃんが大きな声を出す。


「これ、触っても平気なの?」

「うん。平気だよ」


 小雪ちゃんは恐る恐る私の結界を触る。


「すごい、本当に通り抜けられない。硬い。すっごい!!」


 私の結界は、人を怖がらせるものだと思っていたから、小雪ちゃんの反応は驚くし、なんだか照れくさい。


 小雪ちゃんがあんまり大きな声を出すからまわりの人たちも注目し始めた。


「おい、山矢さんのところの助手さんはあんな若いのに結界を張れるのか!」

「さすが山矢さんの助手さんだな、エミちゃんはすごい!」


 口々に褒められ、さすがに恥ずかしくなって、私は結界を解といた。


「山矢さん、すごい助手さんを見つけましたね」


 谷中さんも言う。


「ええ、エミは本当に素晴らしい助手です。将来有望な、私の右腕です」


 山矢さんにまでそんなことを言われて、私は心臓がぎゅっとなって下を向いた。人に褒められるのってこんなに嬉しいんだ。




「ねえ、エミちゃん、連絡先、交換しない?」


 小雪ちゃんはモジモジしながらスマートフォンを持ってきた。


「え?」


 私は同年代の友達が全然いない。そんな私に小雪ちゃんが恥ずかしそうに言った。


「ねえ、エミちゃん、もし良かったら、友達になってくれる?」

「え、友達? え、本当に?」

「いい?」

「うん。いいよ!」

「嬉しい。ありがとう! 山神村に同じくらいの年の女の子がいなくて、だから私友達がいないの。最初に見たときから、都会の子ってお洒落でかわいいなって思って、友達になってほしかったの。スマホあれば、いつでも連絡できるし。いつか私がエミちゃんの住んでる街に行ったら、案内してほしいな。」

「もちろんだよ。こっちこそ、ありがとう」


 私は小雪ちゃんと連絡先を交換した。そして、自分の街のことや学校のこと、部活のこと、山矢さんの仕事のこと、山神村のことなど、食事をしながらおしゃべりを楽しんだ。学校のクラスメイトとはこんなにおしゃべりできないのに、なんでだろう。不思議だけど、楽しい時間だ。




 山矢さんに出会ってすぐの頃に言われたことを思い出した。


「月の出ていない真っ暗な夜でも、月が消えてなくなることはない。いつか雲が晴れて月光が照らすときがくる」


「友達っていうのは、いつも近くにいて授業の合間に一緒にトイレに行くような関係の人間を言うんじゃない。遠くにいても、困っていたら力になりたいと思う相手のことだ」




 山矢さんの話を思い出しながら、私は、もしかしたら月の出ていない真っ暗闇を脱出できるのかもしれない。そう思った。


 だって、私、今笑ってる。こんなにたくさんおしゃべりして、結界も認めてもらって、化け物扱いされないで、褒めてもらえた。

 まだわからない。でも、今確かに少しだけ、光を感じる。これがきっと、希望ってやつなんだ。


 小雪ちゃんと私がおしゃべりをしている横で、山矢さんが珍しく笑った気がした。



【おわり】

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