階段の女
だっちゃん
階段の女
ある日、会社の残業が終わり、やっとの思いで部屋を借りているマンションに辿り着いた夜のことだ。
私は現在、築60年の鉄筋マンションのリフォームされた一室を、知り合いから格安で借り受けて住んでいる。
その夜も、マンションのエントランスを入り、自分の部屋番号の郵便受けから手紙を抜き取り、カバンに入れ、正面エレベータの「上」ボタンを押した。
エレベータの籠が、4,3,2、1、と階層を降りてきて、扉が開くと、そこには女が立っていた。
しかし奇妙だったのは、女は扉の反対側を向いていた、ということだ。つまり私は女の背中と、後頭部しか見えなかった。
黒髪のショートで、いかにも妙齢の主婦らしい出で立ちだった。
私の部屋は10階なのだけれど、エレベータから出ようとしない女の異様さに立ちすくんでしまった。
エレベータの正面には大きな姿見の鏡が設置されているのだけれど、つい先日、何者かによって割られたとかで、姿見の上半分には、修理業者が青いシートを貼り付けていた。
しかし何故だか、女はそのシート越しにこちらを覗き込んでいるような気がした。シートが貼られていなければ、私もまた鏡越しに女の顔を見ることになる。
シートが貼ってあって助かった、と思った。同時に、女がこちらを振り向いたらどうしよう、という気持ちになっていた。
すると、女はエレベータの横側に取り付けられたボタンの、「5」を押し、上の回へと戻っていった。
「あれは何だったのだろう。」と思ったけれど、ああ、きっとどこかの部屋の主婦が何か忘れ物をしたことを思い出したのだろう、と一人合点した。
不安な思いになりながらも、再度「上」ボタンを押すと、4,3,2,1、と無人のエレベータが降りてきた。
「もし女まだ乗ってたらどうしよう。」と思い身構えた自分が、急に馬鹿らしくなった。そうして住んでいる「10」階のボタンを押し、エレベータは階層を上がっていった。
ところでエレベータの窓には、覗き窓が取り付けられていることが多い。私の住むマンションも例外ではなく、エレベータの中から、通り過ぎる階の様子がチラと見ることができる。
さてエレベータが、2,3,4,と上って行き、5階を過ぎたところで、その階にあの女の姿がチラと見えたのを私は見逃さなかった。
あれは確かにあの女だった。黒髪の主婦のようで、そして、またしても「こちらを向いていなかった」。
エレベータに乗り込むのなら、普通エレベータ側を見ているのが通常である。あれは何かまずい者なのではないかと思った。
思ったが、なるべく考えないようにしようとも思った。
さて私の住む部屋は、マンションの廊下の突き当りにある角部屋である。そしてその部屋の隣には、全ての階に繋がる階段がある。
自分の部屋の扉の前に立ち、鍵を取り出そうとしていると、その階段の下から「カンカンカンカン」というせわしい音が聞こえてきた。
何だろう、と考え、すぐに思い到った。このカンカンという音は、女物の靴を履いた何者かが、上の階に向けて駆け上がって来る音だ。
他の人物であることも十分考えられるけれど、あの不気味な後ろ姿の女を連想せずにいられなかった。
早く部屋に入らなければ、あの女と鉢合わせすることになってしまう。
私は急いでカバンの中から鍵を探した。けれどそんなときに限って、中々出てこないのである。やっとの思いで鍵を取り出し、部屋の鍵を回して部屋に入った。そして音を立てないよう、そっと扉を閉め、鍵を閉じた。
とそのとき、あの「カンカンカンカンカンカンカンカン」という素早い音が、部屋の真横で、「カン」と止まったのを感じた。やはりあの女は私を追ってきたのだ。
10階で止まったエレベータの表示を確認をして、当りをつけてこの階に駆け上がって来たのだった。
息を潜めていると、女が私の部屋のドアノブをガチャガチャと回した。しかし確かに鍵を閉めたので、開くはずはなかった。
諦めたのか、女は隣の部屋のドアノブをガチャガチャと回している様子だった。
良かった。私がこの部屋に住んでいることは気付かれずに済んだらしい。
隣室は不在だったらしい。女はまた他の部屋のドアノブを回しているようで、ガチャガチャという金属音も小さくなり、聞こえなくなってしまった。
*
翌朝になり、私はいつものように出勤し、再びマンションに帰って来た。
エレベータの中の姿見はすっかり綺麗に修繕されていた。私はまだ、あの鏡を直視することができないでいる。
それから暫くは「もし、あの女が次に現れたら、鏡越しにあの女の顔を見てしまうのではないだろうか。もしあの女の顔を見たら、抜き差しならないことになるのではないだろうか。」と戦々恐々とした気持ちで過ごす羽目になった。しかしいつからかそんな不安にも慣れてしまった。
あの夜の数日後、マンションのエレベータ横の掲示板に、私の住む10階の別室の男性の訃報とお悔やみが貼り出されていた。亡くなった日はどうやらあの夜のことではあったけれど、きっと私には関係の無い出来事なのだと思い込むことにした。
そしてあれ以来、私があの女の姿を見ることは二度となかった。
階段の女 だっちゃん @datchang
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