ラーメン屋には人魚姫がいました。

境 仁論(せきゆ)

ラーメン店主は人魚姫

〇八重比丘尼

 ———ひいてはその娘、最後の時まで昔をよく知り、出会う者全員を驚かせたという。数百年前に消えた景色の行方を求めて、その国の至る所を歩き回った。

「———の並木はどこですか」

 ただの人には知りようがない、遠い昔の大木が立ち並ぶ光景を訪ねて回ったらしい。

 あんなに若いのに、よくもまあそんな昔なことを知っているね、と誰かが答えると娘は顔を隠してどこかへ行ってしまった。

 彼女に尋ねられた誰もが不思議に思った。

 それは彼女の所作、及び服装についてである。

 百足のように小さな歩幅で歩き、藁靴の底も隠すほどの長い着物を纏っていた。

 まるで足に何か、痒いものがあるようだったと……。


〇「千年」

 京都の鴨川の近くに行きつけのラーメン屋がある。その名前は「千年」。去年にたまたま入ったこの店で食べたラーメンの味に一目ぼれして、それ以来週二の頻度で通っている。

「おっすー」

 店主ともすっかり仲良くなってしまった。

「いらっしゃい久美野くん。今月はもう十回目だね」

 彼女は店主のオオクボさん。長身で薄い色の長髪を後ろで止め、ほんのりと灰色がかった目の色をしている綺麗な人だ。一人でこの店を切り盛りしている天才的なラーメンマスターでもある。

「いつものでいい?」

「いつものって、メニュー一つしかないでしょ」

「ふふ」

 この店にあるメニューはただ一つ。「千年永楽麺」。他のラーメン店でも味わったことのない、さっぱりとしたラーメンだ。ここまで清涼なラーメンは本当にない。麺を啜るたびに身体が健康になっていくような気がするのだ。

「はい」

「よっしゃ……いただきます」

 ラーメンが目の前に現れた瞬間に指が割りばしを分割してしまっていた。まずは一口……麺を啜る前にスープを味わう。

「……これだ」

 このスープには何が仕組まれているんだろう。一体どんな具材が入っているのだろうか。まるで海の幸という概念そのものを味にしたかのような。舌全体に静かな湖が在るような。

「本当に何をどうしたらこんな味になるの?」

「企業秘密」

 適当にあしらうオオクボは店内で流れているテレビ番組を見ている。頬杖をついてぼーっと。

 麺を啜ってみるとその滑らかさ、噛み応え、のど越しに感嘆の声が漏れそうになる。

「美味いには美味い……すごく美味い」

「いつも言うね」

 語彙力喪失。ただ、気になることが一つあった。

「他に客がいないのはどういうことなんだろう……」

 周囲を見渡しても自分以外にこの店に来ている客はいなかった。いつもの光景である。この店に自分以外の人がいる様子を自分は知らなかった。

 すると彼女はこっちを向いて頬を膨らませた。

「それはいつも言わないでって言ってるでしょ」

 そう、なぜかこの店には人が来ない。立地が悪いのか、メニューが一つしかないからか、味が特殊なのか……。

「俺としてはもっとたくさんの人にこれを食べてほしいけどね」

「じゃあ、マネージャーにでもなってくれる?」

「残念ながら専門外」

 そう言ってラーメンを食べ続ける。頭の中ではどうすれば店に人が集まるかということばかりを考えていた。

「他のメニュー作るとか?」

「ええー」

 眉をひそめるオオクボ。

「嫌そう。なんでこれ一つだけなの?」

「……こだわり?」

 語尾に疑問点をつけて首を傾げるあたり、新メニューを作るのがめんどくさいんだろうな、という感じがする。

「潰れちゃいやだよ? ここのラーメンが一番美味いんだからさ」

「ありがと。あと、そう簡単に潰れやしないよ」

 隣の席に座ってきたオオクボは机の上に置いた腕に顎を乗せてだらんとする。

「仕事中だぞ? そんな店主じゃ、来る人も来ないよ」

「……別にこなくてもいいかな」

「おい自営業。それでいいのか店主さん」

「いいもーん」

 まるで子供みたいだ。

 でもなぜかこのお店がいつまでもずっと続いていくような気がしていた。

「ごちそうさま」

「はい、おそまつさま」

 そのまま立ち上がり、家に帰ろうとする。扉の前まで来てオオクボに挨拶する。

「またすぐ来るよ」

「知ってる」

 ガラリと扉を閉めて、「千年」を後にした。


〇鴨川

 夜、ある若者の集団が鴨川で騒いでいた。夜遊びの余韻だろう、深夜にもかかわらず煩く笑っていた。

 彼らは視界の端に人を見つけた。

「おい、あれ」

 一人が何人か目配せをする。

 それは女性だった。

 彼らは言うに及ばず遊び人である。だからその女性に下心を持って話かけに行ったのも当然だった。

 ぞろぞろとその女性の元に近づいていく。

「———え?」

 彼ら全員が顔を見合わせた。視界に映る女性が、おもむろに衣服を脱ぎだしたのだ。

 若者たちは盛り上がり、携帯を取り出す。すぐにその女性を撮影しようとした。

 女性は既に上半身を露出していて、次に下の履物に手を入れていた。

 若者たちはじっとしてその様子を見続ける。

「え?」

 彼らの手から携帯が滑り落ちた。若者たちは異形をみてしまった。

 彼らが性欲のままに見つめていた女性の半身は。

 魚の鱗で覆われていた。


 彼女は夜になるたびに外に出る。そして鴨川の前で一人立ち尽くしながら水面に映る月光を眺めていた。

 彼女は衣服をさらりと脱ぎ捨てる。

 そして癒着しつつある両足をなんとか進めて、川に入っていた。

 重い水流の中を滑らかに進み、身体が擦り切れていく。

 目指すのは月明かりが示す僅かな円。

 沈み、光の届く深い場所まで。

 そこで目を閉じ、長くも短すぎる一日を終えるのだった。


〇削ぐ


「店番してくれない?」

 今日も店に入ると出会い頭にそんなことを言われた。オオクノは何食わぬ顔でさも当然かのように尋ねてくる。

「……なんで?」

「買い出し」

「ああ……」

 店番したところで客は来ないだろうなと思った。

「じゃ、よろしく~」

 手をひらひらとさせて店主が店を後にした。

 本当に誰もいなくなったラーメン店の一席に座る。オオクボはテレビの電源を消して出て行ってしまったためとても静寂な空間だった。

「……」

 店番すると言ってもなあ。何を番するべきなのか。

「…………」

 ぐぅーと腹の虫が鳴いた。ラーメンを食べに来たのにしばらく待たねばならない。

 ……ラーメン食べたい。そう思いながらも退屈に過ごす。


 ……ややあって、ふと厨房の奥にある冷蔵庫が眼に入ってしまった。

「……………………」

 一客が職人の空間にずけずけと入るのは禁忌だと心得ている。しかし足が勝手にそのエリアに進んでしまっていた。

 冷蔵庫の前に立ち、その扉を開ける。

「……え」


 その場で固まってしまった。だって、冷蔵庫に入っているこれは……。

「あーあ、見ちゃったね」

身体がびくりと震えて硬直が解除される。振り向くとすぐ後ろにオオクボが俺の顔を覗き見るように立っていた。いつものような柔らかい笑顔が突然目の前にあったものだから腰を抜かしてしまった。

いや……柔らかい笑顔が、含みのある底の見えない不気味な顔に見えた。

倒れると同時に冷蔵庫に身体をぶつけてしまって、その中身をボトボトと落としてしまった。カラリとかベチャリとか次々に嫌な音がした。

オオクボがしゃがむ。そして床に落ちた物の一片を拾い、ひらひらと自分に見せた。

「これ、なーんだ」

 それは淡い水色の綺麗な破片だった。しかし同時に妙な生々しさというか、肉のようにも見えるのだった。

 まるで鱗のような。

「そう、鱗だよ」

 オオクボに手を取られてゆっくりと立ち上がると、オオクボは身体を密着させてきた。そのまま鱗を握らされた。

「誰のだと思う?」

「誰の……?」

 顔を近づけるオオクボ。すると自分の手を下半身へ触れさせた。

「ち、ちょっと」

 オオクボの太ももと手が触れ合う。そんな感情を抱いていない相手からのアプローチで戸惑ってしまう。しかし、寸前で頭に過ぎった彼女の身体の肌触りは、実際には奇妙なものだった。

「……」

 硬い。予想していた、柔らかいという感触とは違う。本当に石のように固い。いや、石というより……殻のようだ。

「硬いでしょ」

 そう言うと彼女は続けざまに履物の中に俺の手を忍ばせた。

 オオクボは表情を変えず、じっと此方を見る。心臓の鼓動が早くなる。外に漏れてしまっているだろうか、俺の耳にはドクンドクンと脈打つ音しか聞こえてこなかった。

 布の上から触れて硬いと感じた彼女の生足もやはり硬かった。ゴツゴツしていて、サラサラしている。熱心に磨かれた宝石のようだった。

「ね」

 彼女は頭を傾けて軽く同意を求めてくる。

「い、いや。ちょっと待ってよ」

 はっとして手を取り出す。彼女は表情一つ変えない。まるで慌てる俺を見て楽しんでいるかのようだった。

「れ……冷蔵庫を勝手に見たのは謝ります。本当に、ごめんなさい」

 とりあえず先ほどの自分の無礼を謝罪した。

「謝んないでよ久美野くん。色々と話したいことあるからさ」

 冷蔵庫周辺を見るとやっぱり奇妙な食材らしきものが転がっていた。

「……弁償はする」

「弁償? ああそっちじゃなくて」

 オオクボが床に落ちた肉塊を拾い上げてバケツに投げ捨てた。

「話したいのは、私のこと」

 小さな歩幅でゆっくりと歩いてくる。

「来てよ」

 そしてゆらりと俺の手を取った。

 外に連れ出されていく。昼間だというのに鴨川には人っ子一人いなかった。道路に自動車が走っている様子もない。普段は話し声や車の音で溢れるはずの鴨川が、そのときだけ静寂の世界と化していた。

「珍しいこともあるんだね」

 それがとても偶然には思えなかった。一瞬で世界から人が消えた。まるで彼女がそうさせたかのように。

 そのままオオクボは川のすぐ傍まで俺を連れて行った。

「……ちょちょちょちょちょ、何やってんの!?」

 オオクボが突然俺の手を離したと思ったら、おもむろに衣服を脱ぎ始めた。胸を包むベージュの下着が顕わになる。

「え、え」

 つい誰か見てやしないかと周囲を見渡してしまう。

「……」

 オオクボは何も言わずにさらりとその下着をおろしてしまった。そして俺の方に身体を向ける。乳房が剥き出しになる。彼女の手は薄桃色の点を隠すことなくだらんと垂れていた。

 オオクボは何の恥じらいもなくいつもの柔和な笑顔を浮かべていた。

「久美野くん、いつも来てくれる君だけに見せてあげる」

「は、いや……」

 つい視線を地面に追いやってしまう。

「君にはよく見てほしいな」

「や……おかしいでしょ。俺……ただの客だよ? しかも迷惑かけちゃったし」

 するとオオクボが近づいて、俺の頭を両手で掴んだ。そしてしっかり前を向けさせられた。間近に彼女の目があった。

「しっかり見て。ね」

 そしてオオクボがやや後方へ下がって、止まった。

「どう?」

 誘うように聞いてくるオオクボ。俺は全身が熱くなっているような気がした。

「これがニンゲンの私……ふふ、熱くなってる。嬉しい」

 彼女の手がズボンに伸びていった。ベルト止めを外して手を伸ばすとたらんと落ちる。

「え」

「……」

 一瞬見えたものが何かわからなかった。

「これ、どう? 久美野くん」

「———」

 さっき触れた彼女の足は、硬かった。その理由がこれか。

 彼女の足には青白い破片……魚の鱗のようなものが、びっしりと張り付いてた。ズボンを降ろした瞬間にねばりとした糸のような粘液が溢れ出た。

「これが、人魚になりそうな私」

 オオクボがふふ、と笑った。

「人魚?」

「うん、人魚。私、人魚」

「……」

 何をどう、返せばいいのか。脳に理解が追いつかなかった。ただ目の前にあるものをそのまま受け止めているだけだった。

「人魚と言っても元々はちゃんとした人間だよ。お肉を食べちゃったからこうなっただけで」

 戸窓っている俺を察したのか、彼女は説明をしてくれた。

「肉?」

 それでとりあえず思考力が帰ってきた気がして声を出した。

「うん。私の故郷にお坊さんがお肉を持ってやってきてね。置いてったんだ。みんなは食べてはいけないって言って大事に閉まってたんだけど、私が食べちゃった」

「そしたら、人魚に?」

「うん」

「肉を食べて人魚になるって……どういうことだ……?」

「人魚の肉を食べたら、こうなるんだって」

 鱗まみれの足をぺたぺたとさせて話すオオクボ。

「そこから不老不死?みたいなのになっちゃって。それに足がどんどん魚みたいになっちゃうんだ」

 すると彼女は川に足を差し入れた。

「水で湿らせないと苦しくて仕方ないの。足の水分がなくなるとガラスみたいに硬くなって、割れてしまいそうになる。誰もいなそうな時はこうして足に水やりをしてるの」

「それならずっと水の中にいれば……? 不老不死、なんでしょ? それで、人魚だし」

 首を横に振るオオクボ。

「水は嫌い。私は歩く方がずっと好き。人魚になんかなりたくない」

 そういってオオクボは自身の足を構成している鱗の一枚をべりりと剥がした。

「え、ちょ、ちょっと!」

 剥がれた箇所から血が吹き出る。オオクボはさらにその中へ指を突っ込み、蠢く肉片をぐしゃしゃと引っ張り出した。

「なにやってんの!?」

「足を壊してる」

「は……なんで!?」

「人魚になりたくないから」

「……」

 痛みなんてないよと言わんばかりの無表情を見せるオオクボ。彼女は手のひらの上に鱗と肉片を乗せる。

「昔、私から出てくるこれをどうしようかって考えてたの。人魚の肉とか鱗、なんて言って売ればお金になるのは間違いないんだけど、そしたら私を狙うような人とか出てきちゃうでしょ? まあお金なんていらないんだけどね。だから少しずつ、バレないように処理すればいいと思って」

「……」

「久美野くん?」

「……あ、いや、続けて」

 少し思考が飛んだ。

「捨てたら見つかる可能性あるし。なら人のお腹に入ればいいかなって」

「……」

 ……え?

「それで、潰れかけてたあそこのラーメン屋さんを引き取って、私の肉と鱗で料理して出してたの」

「……!」

 咄嗟に口を押える。膝から崩れ落ちる。吐瀉物が出る、と思ったが生臭い息が漏れただけだった。

「あ、安心して! いくら人魚の肉といっても、一気にたくさん食べなければ人魚にはならないから!」

「そこじゃない……」

 俺はずっと彼女の身体の一部を好き好んで食い漁っていたのか。

「……他のお客さんにも食わせたってことだよな?」

「お客さんは久美野くんしかいないよ?」

「……さすがにたまたま立ち寄って食べていった客もいるだろ?」

「来る人もいるけど、みんな食べる寸前に吐いて逃げてったよ。なんでかわからないけど」

「……」

「こんなにうちのラーメンを美味しい美味しいって言って食べてくれるのは久美野くんだけ」

 顔を覗き込んでにまりと笑うオオクボ。

 ……俺の味覚が、おかしいだけだったのか。彼女のラーメンを美味い美味いと言って食べ続けていた俺の舌が、いかれてたのか。

「久美野くんが来てくれるおかげで、少しずつ私の身体は人魚から離れていってる」

 オオクボが俺の手を握りしめた。

「これからも御贔屓にしてね、お客様」

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ラーメン屋には人魚姫がいました。 境 仁論(せきゆ) @sekiyu_niron

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