まーちゃんとじろくん
那智
第1話
強い気怠さの中で、ゆっくり瞼を開ける。今日も一日横になってしまっていた。食器洗いも、洗濯も、掃除機がけも、何もしていない。これから行動しなければならない事実を考えて、また憂鬱の波に溺れる。布団の中で、このまま息が止まればいいのに、と思う。
玄関の扉が開く音がしたが、私は起き上がりはしなかった。
「まーちゃん寝てるの?」
「……起きてる」
じろくんは、寝ている私の頭を撫でてくれた。窓の外は、もう日が沈みかけている。
「今日はお仕事おわるの早かったね」
「うん。母さんがおかず分けてくれたから、冷蔵庫入れるね」
「ありがとう」
慣れた手つきで、じろくんは私の冷蔵庫を空け、タッパーを入れる。じろくんのお義母さんは、よくこうやって私にお総菜を分けてくれる。お義母さんのつくるおかずは、何でも好きだ、美味しい。
会話をしたおかげで、少し意識がはっきりしてきて、私は体を起こした。じろくんがこちらに来て、すこし私をぎゅうと抱き締めてくれる。あたたかかった。ちょっと土っぽいようなにおいがする。
彼は私の代わりに、食器洗いをやってくれた。私も重い体を起こし、洗濯機を回した。私はポケットにティッシュを入れる習慣がないので、洗濯物を回した後に後悔することはない。
今日はほとんどなにも口に入れてないので、気休めに珈琲牛乳を飲んでいると、じろくんが心配そうに笑った。
洗濯が終わるまで、しばらく布団にくるまって、二人でまどろむ。独り用の布団だけど、二人でくっつくことに慣れた。じろくんは私を抱き締めながら、うとうとする。仕事で疲れているんだろうな。私もうとうとする。頭が働かない。つらい。でもしあわせだった。
ピーピーと、洗濯機の終わりを告げる音が聞こえた。もう日は落ちていて、室内に物干し竿はないので、二人でカゴを持って、近くのコインランドリーへ行った。洗濯物を乾燥機にかけている間、コンビニに行って、おにぎりを二人で食べる。よくするルーティンだった。
「今月もお金振り込んでおくね」
「うん、ありがとう」
「通院は次いつだっけ」
「えっとー明後日かなー」
じろくんと私は結婚しているけれど、一緒に暮らしていない。じろくんは定期的に私の口座にお金を振り込んでくれて、私はそれを使いながら細々と生活している。それでも、今日のように、じろくんに時々家事を手伝ってもらわないと、生活が回らない。これでいいのだ。私のような人間を、彼が見放さないで居てくれるだけで、十分だった。
結婚していれば、じろくんの扶養に入れるので社会保険料は払わなくて住む。夫という身元保証人がつく。医療費も制度を使って軽減してもらっている。趣味と酒は最低限にして、ネットがあれば、私はお金を使わないで生活できるタイプだった。乾燥機使うのはもったいないけど、仕方ない。
「まーちゃんはゆっくり過ごせばいいよ。俺はそれでうれしいから」
「わーい」
じろくんの手を握る。じろくんは体は小さいけれど、心が広くて、優しい人だ。彼の善意に、甘えている。
乾燥機でほかほかになった洗濯物のにおいは、おそらくみんな嗅いだほうがいい。乾燥機の直後しか味わえないけど。ほんとうはきちんと日が出ている時間に起きて、お天道様の下に干して、乾かして取り込む方が、良いにおいがするってわかってる。それでも、私は、満足しているつもりだ。
アパートに戻って、洗濯物をちゃっちゃかたたむ。なんだかんだ1人分だから、2人でたたむとすぐ終わった。2人分を2人でたたむのと、1人分を2人でたたむのとは、全然ちがった。そりゃそうなんだけど。
「それじゃそろそろ帰るね。明日も仕事だから」
じろくんが時計を見て言った。
今日は木曜日。明日は金曜日。土日がくる。じろくんは平日勤務だから、土日が2人でゆっくり過ごせる日の候補だった。
「今週はどうする?」
「ごめん、土曜日の夜集会があるから、泊まりはできないや」
「そっかぁ」
「日曜朝から来るから、1日一緒にいよう」
「わかった!」
玄関で申し訳なさそうにしゅんとするじろくんを、私は不安にさせないように手を握って笑いかけた。じわり、とこころに染みができるけど、仕方ない。日曜日は一緒に居られるのだ。日曜日は、一緒に居られるのだ。金曜日。土曜日。それさえ、2日さえ乗り越えれば。
「じゃあ、また来るね」
「うん。運転気をつけてね。おやすみじろくん」
「おやすみまーちゃん」
扉の前で、いつものようにハグをし、キスをして、じろくんは帰って行った。
玄関の扉が閉まり、一気に静寂と虚無感、孤独感が私の脳みそをじゃぶじゃぶと浸からせる。これは代償なのだ。仕方ない。仕方ない。
おそらくお腹がすいている。結局今日口にしたのは、珈琲牛乳と、コンビニのおにぎりだけだ。なにか食べなくては。生きなくてはいけない。今日も。
引き出しからお金を適当に取って、近くのスーパーへ向かった。どうせ今日もお総菜。どうせ今日も酒を飲んでしまう。どうせ今日も炭水化物ばかりとってしまう。そういえばじろくんのお義母さんのお総菜も食べよう。どうせ私は、きちんとできない。
ふらふらと夜道を歩きながら、私は思考するのをやめられなかった。これでいいのだと、言い聞かせながら。
▽
車を走らせながら、少しずつ頭が冴えていくのを感じた。
まーちゃんは今日も恐らくずっと寝ていたようだった。俺を見て、嬉しそうに笑った顔を思い出す。頭を撫でると、彼女は頬を緩ませる。彼女は、俺にだけ心を開いてくれている。その事実を噛みしめるたびに、嬉しさと、後悔と、そして使命感が俺の心を奮い立たせる。
まーちゃんの心は、犯されている。彼女の家族は、彼女にとって害悪な存在でしかなかった。彼女は実家にいた18年間、心を壊されながら、それでも生きていた。逃げるようにきたこの地で、俺達は出会ってしまった。どこに行っても救いを見つけられず、心が壊れてしまった彼女は、なにもできなくなっていた。
暗く淀んだ道路を走りながら、少しずつ俺の心は高ぶっていく。俺は、なんといわれようとも、彼女の救いになるのだと、決意しているのだ。
帰宅し、車庫へ駐車して家に入る。
「お帰りじろう」
「ただいま」
「ご飯食べる? 食べてきた?」
「いや、食べるよ。ありがとう母さん」
手を洗い、仕事着の汗が気になるので、さっと自室で部屋着に着替えてリビングにいく。父さんと母さんは、2人でテレビを見ていたようだ。
「まーちゃんはどう?」
「あぁ、おかず、いつもどおり喜んでたよ。家事はできていなかったから、少し手伝って帰ってきた」
「そう。よかった」
今日は生姜焼き。キャベツの千切りが添えてあり、味噌汁と漬け物、白ご飯。疲れた体に染みた。やはり母さんのご飯は旨い。
「仕事はどうや?」
「まあまあかな。職場の方達も優しいし、うまくやれてると思うよ」
「そうか……」
噛みしめるように、父さんが頷いた。
「そういえば今週の集会だけど」
父さんが本を持ってきて言った。
「最近、先生が本を書いてな、これをみんなで勉強するのにしようと思うんだが」
「あぁ、いいと思うよ」
「じろうも序章だけでいいから読んでおきなさい」
「わかったよ」
本を受け取り、ぱらぱらとめくる。いつもの通りだ。明日の夜に読んでおこうかな。
ご飯を食べ終えて、食器をシンクに下げる。それから少しお茶を飲んで一息ついたのち、俺はリビングの端にある仏壇の前に正座した。
いつもの習慣。手を合わせ、お経を唱えて、1日を振り返り、心を高め、まーちゃんの幸せを祈る。大抵、母さんと父さんも一緒にする。最近は寝る前の2時間ぐらいして、お風呂に入るのが定石だ。
思考がどんどんクリアになっていく。視界が広がっていくようだ。まーちゃんは「怖い」と言った。それでも、俺はこれをしなければならない。これが、まーちゃんを救うことに、つながるのだから。頭の中で、まーちゃんの声が反響し、まーちゃんを傷つけた人の顔が勝手に浮かぶ、見たことはないけれど。俺はそいつらを、1人ずつ、なぎ倒して、殺して、全てに罰を与えていく。いつもこういう風にして、俺はまーちゃんにとってのヒーローになる。
理解出来ないよ、とまーちゃんは言った。
だけれど、彼女は優しすぎるから。俺や俺の家族が、自分の家族とは違う、と、できる限り納得しようとしていた。理解できなくても、道理を学び、彼女は俺を、俺の信仰を、傷つけないやり方を様々に提案した。結婚しながらも、別々に生活したのは、そのためだった。
いつもこれが終わると、俺はとてつもない達成感と高揚感に溢れている。生命力が溢れ、心の中に力が湧いてくる。まーちゃんもすればいいのに、なんて、言わない。俺は、彼女の気持ちを、わかっている。
SNSで、今日した時間を記録も兼ねて、つながっている仲間達に報告するのが、1つの習慣だ。
すばらしい! 奥さんのために、本当に健気ですね
じろうさん一家は賞賛されるべき 奥さんもきっと良くなります
我が子も見習って欲しい
人はこうあるべきですよね、わたしもがんばります
「じろう……頑張ったわね……ほんとうに」
「父さんうれしいよ、これからもがんばろうな」
両親の言葉に、胸がじーんとする。またこれが、明日への活力に変わっていくのを感じる。
「いつも付き合ってくれてありがとう、2人とも。まーちゃんも喜ぶよ」
ほんとうに?
両親が頷くのを見て、何故かまーちゃんの声が、頭にずしんと響いた。
「じろくんと私は、ちがう人間だとおもう」
まーちゃんは、重たい、つらそうな顔で、俺に言った。
「違う部分が多すぎるから」
「いっしょにはいられない」
「でもいっしょにいるのをやめたら」
「じろくんのこと、傷つけずにすむ」
俺と、まーちゃんは、お互いの領域を侵害することをやめた。自分と相手のラインを守るために、一緒に暮らすことを、諦めた。
まーちゃんは、大切な人を傷つける自分を許せない、優しい人なのだ。俺はまーちゃんにとって唯一の優しい人であり、唯一の大切な人。俺の信仰心と、俺とまーちゃんの幸せを考えたとき、彼女は俺の信仰心を、とったのだ。俺を傷つける自分のことを、許せないから。
満たされた気持ちで、俺は毎日眠りにつく。まーちゃんの幸せを毎日祈り、家族や仲間と切磋琢磨して高めていきながら、俺は生きていく。これが正解だと、唱えながら。
まーちゃんとじろくん 那智 @nachi7111
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