書店にて
甲斐 林介
書店にて
雨の日の書店は妙に人集りが出来るようで、今日も例外ではなかった。客はハットを浅く被った初老の男や、いかにも一分野に造詣が深いであろう丸メガネの少女や、四人ほどで取り足らない馬鹿事を言っている中学生の群衆がいた。僕もその有象無象に書店を練り歩く憑き物の一人であった。書店に入って本棚を吟味してみると、ふと沈気したときに体の熱で悶絶しそうになるのは、取り立てて問題ではない。問題なのは、いきなり眼中に収まって魅力の後光を発する本を手に取ると、裏表紙に見える予算圧迫の兆しに狼狽する僕のあの瞬間であった。その瞬間に意気消沈し、前述の熱を感じる。マラソンを走り切った後にどっと舞い込んでくる疲労のような不始末感であった。
文学コーナーの「な行」辺りを見ていると、夏目漱石の「草枕」が妙にチラつく。夏目漱石があまりにも尊大に配置されている中で、草枕がとても魅力的に見えてしまうのは、僕の脳内の臨界点が呼び声を上げている様なのかもしれない。「それから」が前見た時はあったのに、今回は無かった。僕みたいな近代文学が好きな奴は憚られると潜在認識していたが、これを買う仲間がいることに、さわり安堵した。それはそうと、近代文学の王たる存在はおそらく僕と共鳴したわけではなく、ただ優れた書物に魂魄を宿していただけなのであろう、と思った。
練り歩いてふとすると初老の母と高校生の娘のデュエットがいた。娘の格好はカジュアルそのもので、現代の体現であった。母は逆して硬派な服装で、質素倹約の妃のように見えた。娘がゴネている。ゴネて少し地団駄を踏んだ。地団駄を踏むなんて別して高校生のやりそうな事じゃないが、主張というものは、威力を増そうとすると洒落気が付くのがきっての道理だ。その娘の公共に於いての一瞬の油断的な立ち振る舞いに私は見逃さなかった。娘は私のその眼光に気付いて、少し消沈した。それも自然体である範疇からはみ出ない体で。なんだか愉快だった。一人の少女が、公共においての立ち振る舞いに少しばかりの反省を隠せていない様子になんだか悦楽を感じた。僕はそこからすぐに視線を変え、足踏みも変えた為、娘は「あの人はこんな事別段気に留めないだろうから私も気に留めないでおこう」と思っていただろう。しかし私は敢えて忘れない。地面深くに繋がる人と人との見えない交流の中で、私の中のその瞬間、最大の嫌がらせをした。彼女の「忘れる」策謀が破綻する音が聞こえた。私は微笑した。変態的で陰湿なのは承知だが、こういうちっぽけな悦楽が、私にとっての処世なのである。
本が決まった。二百ページほどの長篇小説である。レジに身を運ぶと、僕の列順がさっきの娘の後ろだった。母が性懲りて、娘の乱心を止めたのだろう。娘の声は高々としている。高揚している。話し草はやはり現代の其れで、一種感心を覚えた。不躾ながらその手に持った本を見てみると、夏目漱石の「それから」だった。同志だった。恨めしくも可愛らしい少女が「仲間」であったことに、心の底からの微笑が漏れた。悦楽。僕のレジの番がやってきた。
「ブックカバーは?」
「いらないです。」
「レジ袋は?」
「いらないです。」
「お会計✕✕円です。」
予算の泣く音がした。僕のエーテルもおそらく泣いていた。少し首を傾げてしまった。さするとまたその瞬間に娘と目が合って、娘が微笑した。なんて素直な子だ。そして、やり返された。僕の「首を傾げる」粗相を彼女は見逃さなかった。少々のマゾヒズムな微笑を浮かべてしまった。別段悪い気はしなかった。悪くない。僕は書店の熱をまた感じて、書店を出た。空色はまだ暗いが、雨は止んでいる。熱もすぐ冷えた。
書店にて 甲斐 林介 @rinkaisuisan
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