幸せな無知の魔女

プロローグ 観察者

 我々が覗いた彼女の内側は、まるで世界の霞んだ部分のようであった。

 ある深い森の村に■■■という少女が母親とふたりで暮らしていた。とても仲睦まじい親子であったが、貧しく、流行り病に苛まれ、お互い先は長くなかった。

 それでも娘は母親を愛していたし、母親も娘を何よりも愛していた。

 ■■■は母親譲りの美しい亜麻色の髪をしていた。端正な顔立ちでもあった。しかし痩躯で肋骨が浮き出ていて、傷跡も多く、哀れな見てくれであった。

 村の者たちはこの親子をよく思っていなかった。不気味で、生気がなく、ゆえに弾かれ者として扱い、妖術を用いて不幸をもたらす魔女であると、そう蔑むのが常であった。外を出歩けば石と罵倒が飛び、後ろ指をさされ、人としての当たり前を剥奪される。そんな酷烈な生涯を親子は、とりわけ■■■は十六年も耐えていた。

 いや、あるいは、苦痛ですらなかったのかもしれない。■■■にとって幸せは、こうした境遇の上に成り立ち、この世に生まれ落ちた時から、そうだったのだから。

 ある日、■■■は冷たい都の夢を見た。どこもかしこも真っ白で、凍てついていて、廃れた都をひとりで歩き、眩い光に触れた途端、朝に目覚めたのだ。

 興奮した様子で■■■は母親に夢を解いてもらおうとした。だが、ひどく冷え込んだ夜明けだったので、母親は震えており、暖の必要な状況であった。そこで娘は薪を探したが、運拙く切らしており、斧もなく、樵夫から買う他なかった。

 ゆえに、■■■は継ぎはぎだらけのボロ布を羽織って、分厚い空の下に出て行った。外には街へ赴く商人や、朝食の香ばしい匂い、家畜の鳴き声があった。乾燥した地面に散らばる小石を踏み、それらを通り過ぎるように坂道を下ると、やがて広場に辿り着いた。

 がらんどうであったが、都合よく、森から帰ってきた樵夫の姿が目に留まった。■■■は深々とボロ布を被り直し、その者もとへ駆けた。ずっと周囲に漂うあらゆる悪は、こうして遮断するしか仕様がなかったのだ。

「――」

 白い息を吐きつつ、樵夫の後ろから囁くように声をかけた。声で察したのか、相手は無視して歩き続けた。去りゆく背中に手を伸ばすも、遠く、何もできなかった。

 ■■■は項垂れた。地面には灰が積もっている。それはすべて狩られた魔女の末路であった。いつか自分もこうなるのだろうか。そんな終わりを少女はぼんやりと想像した。

 とみに風が吹き、中空を灰が舞い、悲哀をどこかへと運んでいった。広場を後にした■■■は、他の樵夫を求めて歩き回り、緩やかな曲線を描く目抜き通りへ赴いた。この頃にはそれなりに人の姿があった。しかしそれらは少女の敵でしかなかった。また、久方ぶりに人前に姿を現したものだから、村人の示す反応はいっそう冷徹なものになった。

 ハッキリと聞こえてくる匹婦の耳打ち。すれ違うのを避ける人々。ボロ布に突き刺さる侮蔑の眼差し。何の気なしに道脇の商人を見やれば、布を畳んで場所を移してしまう。露骨なまでの■■■への拒絶が、じわりじわりと巻き起こっていた。

 通りを半ばまで進んだ時、■■■の後頭部に鈍い衝撃が走った。投石だった。投げたのは赤子を抱えた年増であった。小太りで、鼻が大きく、碧い瞳は汚れ、そばかすのある腫れ上がった顔面は醜く歪み、憤怒に満ちている。

「魔女だ、魔女がいる」

 狂ったように女はそう叫んで、「死ねっ、死ねっ」と吐き棄てた。そしてそれに触発されてか、はたまた喚起したのか、村人は束になって■■■を囲んだ。逃がしてはならぬ、生かしておいてはならぬ、そういった意志が彼らから感じられた。

 自分よりも背丈の大きな人間の中心で■■■は俯き、瞳を瞑っていた。まったく怯えている様子はなかった。

「――、――」

 おもむろに瞳を開けると、顔を上げ、さも当然のように尋ねた。一瞬の静寂ののち、正面にいた村人のひとりが怒鳴りながらに■■■を突き飛ばす。無抵抗に、彼女は勢いよく背中から倒れた。その拍子に、被っていたボロ布が脱げて亜麻色の髪が揺れた。

 右の頬の鋭い痛み。涙はなく、■■■は哀れな無知であった。どうして殴られたのか。どうしてこんなにも憎まれているのか。何も分からないのだ。

 ふらつきながらも立ち上がると、謝罪の一言を述べ、ボロ布に付いた土を叩き落として被り直した。それから先ほど殴ってきた村人と、その隣の村人の間を、まるで細道を通るかのように身体を横にして通り抜けていった。

 追手はあった。肩を掴んで、死を願う言葉をかける者がほとんどだった。が、直接的に手を加える者はいなかった。

 喧騒から離れて村の外れにある石階段にやってきた■■■は、一番上の段に腰掛けて母親を思った。冬の寒さに弱っているだろうに、結局薪は得られずじまいで時も経ち、光明は世評によって遮られてしまった。

「――」

 溜息交じりに母親の名を呟いた。その直後、■■■に近付く影があった。気配を感じて振り返ると、外衣を着た少女が気遣わしげ表情で見下していた。■■■は彼女を見て少し驚いた。というのも、村長の娘だったからである。

「大事ないでしょうか。お困りでしたら、お助けいたします」

 いの一番に娘はそう言った。ありえないことだった。村長の娘なのだから、関わればどうなるのかを、もっとも心得ているはずなのに。

 ■■■はかぶりを振った。

「でも、仰っていましたよね。薪が欲しい、交換してくれないかって」

 すでに腰を上げて階段をおりていた■■■は足を止めた。確かに彼女は村人に囲まれた際にボロ布と薪を替えて欲しいと願ったが、そうはならなかった。ところが今、こうして娘が話題に出したということは、提案を呑んでくれるのだろうか。

「――」

「ええ、もちろんです。沢山ありますから、好きなだけ差し上げますよ」

 ■■■は頤に手を当てて考え、頷き、ボロ布を脱いだ。が、娘が慌てて「交換だなんてとんでもない」と付け足したので、出来過ぎた幸運だと頸をひねった。

「代わりといってはなんですが、お友達になってくれませんか? 前々からお話ししてみたかったんです。身分とか、過去とか、そういうのなしにして」

 またしても突拍子もない発言に、■■■は困惑の色を浮かべた。

頭の高さがそうであるように、ふたりが置かれる環境は端と端に位置する。そんな彼女らが友人関係を築くなど、■■■からしてみれば耐え難き苦痛であった。

「――」

「……そうですよね。ごめんなさい」

 ■■■が丁重に断ると、娘は微かに微笑んで頭を下げた。申し訳なさを感じないわけではなかったが、親睦を深め、ともすれば娘の身辺に危害を及ぼしてしまうかもしれない手前、孤独でいる方が何倍も幸せであった。

 止めていた足を再び動かして階段をおりていく。複雑な心境だった。しかし、まもなく娘が追いかけてきて、柔らかい手で■■■の細腕を掴んだ。

「明日、またお逢いできませんか。叔父さまがお越しになるんです。叔父さまなら、貴方を救ってくださります」

 ■■■は振り返らず、ただ唇を固く結んだ。そうして握られた腕の温もりがなくなり、足音が聞こえなくなった頃になって、ようやく背後を振り返り、残された娘の透明な足跡を辿るように、上へ上へと視線を向けるのだった。


物憂げに帰宅した■■■は母親に接吻してカンテラを持ち、また外へ出た。

しかし今度は家の裏手、すなわち森の深奥の方角へと赴いた。得られなかった薪の代わりとして落ち葉や枯れ枝などを拾い集めるつもりだった。

 かさり、かさりと枯葉を踏みながら、奥へ奥へと進むにつれ、暗くなり、カンテラの灯りが心許なくなっていった。時折り、鳥か獣かの嘶きが不気味に響いた。

 それでも、まともな火種になるかは二の次に、大きな葉や枝は集まっていった。

 不意に■■■は辺りを見回した。無数の木々が幾重にも並んでいる。かなり奥まで進んできてしまったらしく、ここがどこだか把握するのが難しかった。濃い白い息を吐き、若干の胸の騒めきを覚えた少女は記憶を辿りに来た道を引き返し始めた。

ついに森は闇に包まれた。月明かりは雲と木々によって霞んでいる。いまだ少女は彷徨っていて、頼れるのはカンテラの灯りだけだが、もうじき油が尽きてしまいそうだった。さらには冬の冷気が肌を粟立たせ、呼吸の感覚が無意識のうちに狭まった。

果たして、■■■は置いてきた母親が心配で、どうにかなってしまいそうだった。

「――」

 呟き、ハッとして、少女は眦を決する。まっすぐに進んで来たのだから、このまま戻ればいずれ家に帰れるはず。まさか、ここで一夜を過すだなんて。

 カンテラを腰よりも低い位置で持ち、足許の視界をしっかりと確保すると、■■■は深呼吸をして緩みかけた歩を早めた。

 しばらくすると、遠くの方に光が現れた。のみならず、それとの距離は相当離れているのに、鼻の曲がるような腐臭が遅れて漂ってきた。

重くのしかかる不安と疲労に参っていた■■■にとっては、それはまさしく曙光であった。吸い寄せられるかのように、彼女は光の方へと歩いて行った。やがて光が燃える焚き火であることを知ると、次に目にしたのは、それを囲んでまぐわう裸体の男女だった。

「――」

 静かに驚嘆の声が漏れる。

 サバトだ。木の陰から様子を窺っていた■■■は即座に察した。魔女集会、もしくは異端者たちの冒瀆の宴が湖畔の側で催されているのだ。

 この森は深く、都市部から離れた辺境に存在しているため、魔女狩りの抑圧から逃れてきた異端者たちがサバトを開くのに適している。なので、その一例に■■■は偶然にも遭遇してしまったのだ。

 眼前に広がる非現実的な世界。老若男女分け隔てなく肉欲に溺れ、喘ぎ、群がり、愛し合い、悪魔を称えて堕落する。好奇の情熱を滾らせては唾を飲み込み、うはぁ、うはぁ、と昂れば、嬰児の肉を煮て喰らい、牡山羊頭に跪く。

 どろりとした排泄物のような、もしくは吐瀉物のような穢れたものを身体じゅうに塗り合っている様を見て、おぞましくも、■■■は名状しがたき興奮に苦悩した。それは神秘にも似た魅力を含んでいた。

「誰だっ!」

 突然、野太い叫び声が上がった。■■■はハッとした。手遅れだった。木の陰から身体を覗かせていたのが災いして、異端者の男と目が合ってしまったのだ。

 ところがなんと、その男はあの樵夫であった。向こうも■■■と分かってか、顔を伏せて炎の陰に隠れてしまった。が、こちらも手遅れであった。サバトは静寂に包まれて、炎の弾ける音だけがあった。

 ■■■は足が竦んだ。殺される、そう悟るしかなかった。だが、そうはならなかった。悪魔のつがいと思しき牡山羊頭の巨躯が、両手を伸ばし、手招きしたのだ。

 哀れな無知の、運命の分水嶺であった。這う這うの体で夜の深淵に挑む道もある。まともでいようとするのならば、そうあるのが利口だろう。されど神は沈黙を破らず、たったひとりの少女さえも救わない。

 なら、いっそ、堕ちてしまおうか。

 ほくそ笑み、■■■の意志は強く揺らいだ。あそこへゆくのだと、我々が耳元で優しく囁いた。かじかんだ指先が熱を帯びて痙攣し、くすんだ視界が澄んでいく。

 牡山羊頭の抱擁に委ねると、満たされて、その臀部に接吻をし、居場所を知る。貞操を奪われてなお堕落は温かく、あぁ、と歓喜した。

 かくして異端は■■■を受け容れた。純潔は濁り、その代償として安息があった。鶏が鳴く前に散れと命じられて少女は樵夫とともに村へ帰った。お互い何も語らなかったが、別れ際に薪をひと束貰い、■■■は希望を見出した。

 家に着くと、母親は毛布に包まって死んだように眠っていた。

ずいぶんと遅くなってしまったが、暖炉に薪をくべて火を点け、暖を取った。しばらく暖炉の前で呆然としていると、いつの間にか母親が目を覚ましていた。仔細は聞かずとも消え入るような声で、「お帰りなさい」と言ったので、娘は咽び泣いた。

 そんな我が子の頸筋に逆さ十字の焼き印が捺されているのを発見した母親は、すべてを了解して手のひらで顔面を覆った。そして、娘を呼んで跪かせて、すすり泣く彼女の髪を掻き分けるように撫でた。

「わたしの愛しい子。どうか許しておくれ。ずっと貴方に黙っていたことがあるのです」

 続けて言うには、

「さあ、わたしの腿に手を挟み、お聞きなさい」

 そう言い終えて、ベッドに腰掛けていた母親は■■■の頬に手を添えて瞳を瞑り、ゆっくりと股を開いたので、娘は涙を拭ってそのようにした。

「貴方が贖えぬ罪を犯してしまったのならば、わたしも罪を明かしあましょう。わたしはかつて、村の長の付き人として生きていました。とても幸せな日々でしたが、いつしか情欲の萌芽により、不貞を犯してしまったのです」

 皺だらけの母親の口角が上がった。悔恨や憤怒ではなく、懐かしいと思う感情だけがそうさせたのだ。■■■はそれを見て恐怖した。

「絆し、絆され、溢れ出る情欲の導くままにわたしたちは繋がり、子を授かってしまいました。わたしと一緒の髪色をしていながらも、あの方のように欲深き子を」

 ■■■はかぶりを振り、両手を腿から抜こうとした。が、怯えて力が入らなかった。

「それが貴方、貴方なのですよ」

 ■■■は絶句した。母の口から語られたのは己の出生の真実。すなわち、望まれずして生まれ落ちてしまったことであった。

「わたしたちは冒瀆に染まってしまった。その咎が、今なのでしょうね」


 日が沈んでも星々は分厚い雲に隠されていた。

 これまでのすべての理不尽は母親と村長に原因がある。それを知った■■■は中身のない空っぽの心持ちになり、倒木に寄りかかっていた。生きた人間の、ましてや母親を縊るのは存外に容易かった。しかし、両の手の指先まで気味の悪い感覚は残っていた。

 我々は彼女を哀れんだ。ゆえに、機会を与えてやることにした。

 中空を灰が舞う。ゆらゆらと降りていき、それはちょうど■■■が空を見上げた瞬間に瞳に触れた。苦しみもがく彼女の姿は無様であった。されど、ひとたび立ち上がれば志は定まったらしく、痩せさらばえた胸の奥に確かなる願いが灯った。

 少女は村中を駆け巡り、村長の娘――義妹を探した。

周囲の視線など気にするだけくだらなかった。勢いよく小石が踵に刺さったが、この時にはもう痛みを忘れてしまっていた。

 果たして■■■はあの石階段までやってきた。義妹もそこにいた。

「ああ、来てくれたのですね」

 義妹はまだ何か言おうとしていたが、それよりも先に■■■は彼女を抱きしめた。かけがえのないものを奪わせてなるものか。そんな一心であった。

「どうしたのですか。急にそんな、いけません」

「――」

「わたしが貴方の……? 本当ですか?」

 ■■■は肯定した。もはやためらう必要はなかった。単なる姉妹の会話なのだから、真実を告発することの何がおかしかろう。

「では……ああ、あれはそういう意味だったのですね」

「――」

「叔父さまがお父さまに尋ねていたのです。小間使いは息災かって。それ自体は疑問に思わなかったのですが、その小間使いというのが貴方のお母さまで、その名を口にした途端にお父さまは非常に焦っていらしたので、引っかかっていました」

 娘はふふっと笑った。

「ようやく分かりました。きっと、こうなる運命だったのでしょうね」

 義妹は■■■の貧相な乳房に顔を埋めるように俯いて、また笑った。そして少し恥じらって、「お姉さま」と呟き、かき消すように目いっぱい抱き締めた。

 ■■■は至上の幸せに包まれていた。だからこそ喪失を恐れた。すべからく、自分と同じところへ連れて行きたいと考えた。

ゆえに、■■■は義妹の手を引いた。階段をおりて暗い路地を抜け、森へ入ると湖畔へと向かった。道は覚えている。サバトなら不遇な姉妹を受け容れてくれるはずだ。カンテラな き夜の闇も、義妹とふたりならば乗り越えられると、そう信じていた。

かくいう義妹は文句のひとつも言わずに姉の背中を追った。生まれたての絆は、されど血の繋がりによって磐石になっていたのかもしれない。

ふと、サバトの炎が見えた。あの牡山羊頭もおり、安息の地に戻ってきたのだと、冷めやらぬ興奮を享受した。

「ここがお姉さまの居場所なのですね」

知ってか知らずか、義妹に拒絶の意思はなく、すんなりと状況を理解していた。また、件の樵夫を見かけた際には会釈をして、無垢を演じていた。■■■のもとに樵夫がせわしなくやってきて、経緯を問い質したが、彼女は適当にあしらった。

 サバトが始まると、姉妹は衣服をかなぐり捨てて横になり、微かに聞こえる湖畔の波音に耳を澄ませた。周囲の狂熱にかき消されてしまったが、ふたりの吐く白い息がぶつかり合っては互いの鼻に当たり、薄れて、虚空へと消えていった。

 それからふたりは三度接吻し、四度目は舌を絡ませた。酔ってしまいそうだった。次に■■■が仰向けになり、義妹を乗っからせると五度目の接吻を果たした。

 お姉さま、お姉さま、と義妹は喘ぐ。無意識に、いや、必然的に重なったふたりの指はほどけては握り直すのを繰り返して、冒瀆の祈りの形となって完成される。匂いも、汗も、唾液もざらついた肌の感触も、愛して愛して愛し尽くして、まだ足りず。まぐあい、親の模倣となろうとも、それが滑稽だと嘲るものはここにはいない。

「ああ、ああ!」

 義妹の身体は跳ね、呱呱の声を上げて失神してしまった。

ピクリとも動かず、唇の端から泡を吹いていた。慌てふためいた■■■は彼女を背負って牡山羊頭のもとへ行き、膝を折って救済を懇願した。悪魔のつがいはそれに応え、夢魔に囚われただけで、彼女は契約印を捺していない誰のものでもあるからだ、と諭した。

 かくして契約を済ますべく、牡山羊頭は背後の炎の中から焼きごてを掴み取った。他の異端者も情欲を抑えて集まり、うずくまって逆さまに手を組んだ。

 ■■■も跪こうとした、そのときである。

 眼前の牡山羊頭がぐわんと揺れて斃れたのだ。■■■の身の丈の二倍はあろう巨躯が、まったくの抵抗をせずに地面に横たわっているのだ。何が起こったのか満座のいずれも分からなかった。だが、何故そうなったのかは、牡山羊の被り物ごと側頭部を穿った矢を見れば明らかであった。

 何者かに射貫かれたのだ。

たちまち流血し、その鮮やかな液体は義妹の髪を濡らした。ここでやっと理解が追いついた■■■は周囲を見渡した。その刹那、低い鈴の音が聞こえてきた。

「魔女狩りだぁッ!」

 異端者の誰かが絶叫し、森の暗闇から松明を持った長頭巾の集団が現れた。異端者たちは悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出したが、襲撃者は容赦なく剣で斬りかかり、あるいは足の健を的確に射貫き、転げ悶えたところを束になって頸を撥ねた。

 冬の湖に飛び込む者もいたが、自殺行為でしかなかった。

 ■■■は混乱に乗じて魔の手を掻い潜り、裸体のまま、義妹を抱えて一目散に森を駆けていた。動悸は激しく、呼吸も乱れ、おかしくなってしまいそうだった。

 道半ばでついに■■■は木の根に躓いて転倒してしまった。咄嗟に義妹を庇ったせいで背中から地面に叩きつけられ、息が詰まり、激痛に苛まれた。

 瞬く間に居場所も同胞も奪われた。

 これが罰なのか。

 これがわたしの結末なのか。

 辛うじて身体を起こせば憔悴し、歯を食いしばることしかできず、嘆くいとまもありはしなかった。後ろから足音が近づいて来てくる。

「し……」

 幸か不幸か膝の上に寝かせていた義妹が意識を取り戻した。ハッとした■■■は泣きながらその名を呼んだ。しかし、義妹の口から零れたのは、こんな呟きであった。

「しんで、しまえ」

 ■■■は唖然とした。どうして、と聞こうとしたその寸毫、彼女の頸目掛けて猛烈な勢いで振り下ろされていた刃が逸れて左腕が飛んだ。

 そして、痛みを感じるよりも速く、今度は少女の頭が宙を舞った。


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