女と少女と幸運の硬貨と

藤原くう

第1話

「一ドルくれたら、何でもする」


 駅前の階段に腰を下ろした少女へと、詩織が話しかけた途端のことであった。


 詩織はぱちぱちと何度も瞬きを繰り返し、少女を上から下まで見てみる。


 高校生くらいの年だろうか。どこか大人びた雰囲気のある少女は、その雰囲気には反して、くたびれた服装をしていた。だがそれよりも、今日は平日なのだ。平日なら、高校生は学校にいるはずだし、高校生にしては制服を身にまとっていなかった。少なくとも、このあたりの学生は制服を着用していたはず。


 そんな疑問交じりの印象が、少女の言葉によって吹き飛ばされてしまった。


 ――これって噂に聞く、援助交際ってやつなのではないか?


 そうやって少女を見れば、女性の詩織からしても少女は可愛らしいし――自分なんかよりもずっと――男受けがよさそうだ。くたびれた服を身にまとっているところも可愛らしさとのギャップがあって、それもまたいいとさえ思えてしまうのはどこか不思議だ。


 正直なところすごくかわいい。援助交際なんじゃないかと訝しみつつも、詩織は胸を高鳴らせてしまっていたのだ。


 ――ううん。こんなの絶対よくない。


 一人頷いた詩織はキリリと表情を引き締め、少女へと向きなおる。


「ちょっと聞きたいんだけど」


「なに」


「本当に、一ドルで何でもするつもりなの?」


「ただの一ドルではダメ。一ドル硬貨ならいい」


「どうして一ドル硬貨じゃないといけないの」


 二人が話している周囲では、日本語が飛び交っている。それもそのはず、ここは日本の地方都市に位置する駅前なのだから、詩織も少女も日本語を使用しているのは至極当然。だから、一ドル硬貨を求められている理由がわからなかった。ここはアメリカではなく、日本では使い道が限られている。それに何より、援助交際目的なのに一ドル硬貨を求めていたらお金なんて稼げない。一ドルは百五十円もないのだから、なんでもする、という条件に対してあまりにも対価が安すぎた。


 前提条件が間違っているのかな、と詩織が首をかしげていると、少女が立ち上がる。彼女の体は思いのほか小さく、頼りなかった。


「くれるのくれないの」


「……ちょっと待って」


 詩織はバッグから財布を取り出す。そこには日本人なら持っていて当然の日本国通貨が入っているが、その中には、一ドル硬貨もあった。


 金色のピカピカ光るその一ドル硬貨は、旅行のし過ぎで留年が確定した大学二年の冬、やけを起こしてアメリカ横断を行った時のものだった。思い入れのあるものだから、いつも持ち歩いているのだ。


 まさか、アメリカの通貨を日本で使うことになるとは。


 懐かしさとともにそんな思いを抱いた詩織が初代大統領の顔が描かれた金貨を差し出すと、少女はうやうやしく手に取った。春の陽気を受けて輝く金のコインを矯めつ眇めつしたかと思えば。


「……これじゃない」


 受け取った硬貨をぽいと放り投げた。放物線を描いて落下した一ドル硬貨は甲高い音を上げて、喧噪のピークを過ぎたばかりの駅前を転がっていく。


「あっちょっと!」


 詩織は硬貨を追いかける。幸いなことに、硬貨は段差にぶつかり止まった。拾い上げて、ふうふうと息を吹きかける。金貨の側面が傷ついているような気がして、思い出まで傷つけられたような気がした。恨みがましい目をして少女を振り返れば。すました表情を浮かべていた。


「いきなり投げるなんてどうかしてるよっ!」


「だってそれじゃない」


「これだって一ドル硬貨!」


「じゃあ銀色のやつがいい」


 少女はかたくなに首を振った。彼女が望んでいるものではないらしい。


 詩織は、数年前のことを思い出す。ニューヨークでベーグルを食べた時も、ナイアガラの滝を見に行った時も、受け取った一ドル硬貨は金色だった。少なくとも、銀色のものは見たことがなかった。


 むむむと、詩織は考えてみるがわからなかった。


 謎は深まるばかり。


 気になるが、周囲の視線がどうにも気になってしょうがない。ひそひそと何かを言われているとしたら、スーツ姿の女と少女が話し込んでいるのが怪しいからかもしれない。――想像してみた詩織自身、なんだかいかがわしいとさ思った。


「ねえ。私の家に来ない?」


「どうして」


「だってそれ、一ドル硬貨には違いないよ」


「……確かに」


「だから、お願いを聞いてくれるとありがたいかなあ、なんて」


 両手を合わせて、詩織は言った。こんな頼み方でホイホイついてくるような子は、さすがにいないだろう。


 少女は、一瞬考え込んで。


「わかった」


「え。ほ、本当に?」


「あなたが言っていることは正しい」


「そりゃあそうかもしれないけど……」


 詩織は周囲をきょろきょろ。


 閑散とした駅前に人の姿はなかったが、どうにも視線を気にしてしまう。


 自分は、未成年を自宅に連れ込もうとしているのではないか。


 詩織は頭をぶんぶん振って、否定する。これは援助交際とかではなくて、そう、保護だ。


「や、やましい思いなんてないからね」


 口をついた言葉に、少女は「なにそれ」と呟くのだった。



 職場へと仮病の連絡をしたのちに、詩織は少女を引き連れ、自宅へと向かうことにした。


 駅前から少し歩いた先にあるマンションの一室が、詩織の家である。


 風呂トイレキッチン付きのワンルームは、会社から手当てが出ていることもあり、駅前にしては破格の安さなのが気に入っていた。


 ワンルームへと足を踏み入れるなり、詩織はため息。


 いつもと変わらない。だが、いつもと明確に違う。


 それは、後ろにいる少女――名前はヒミというらしい――のせいではなく、有給休暇を使っているからでもない。


 詩織はまたしてもため息をついてから、振り返る。


「適当に座って」


「わかった」


 言うなり、ヒミはその場に腰を下ろす。詩織は部屋に入っていたが、ヒミはまだであったから、廊下に座ったことになる。ひんやりとしたフ

ローリングにちょこんと正座している姿は、お座りしたシベリアンハスキーのよう。


「ソファがあるよ」


「はい」


 そう返事した割には、ヒミは立ち上がろうとはしない。座っていいよ、と詩織が言ってようやく立ち上がるのだった。


 ヒミがソファに座るのを見届けてから、詩織はキッチンへ向かい、冷蔵庫からジュースを取り出す。


「オレンジジュースでいい?」


「いい」


 グラスにジュースを注ぎ、テーブルまで運ぶ。ヒミの視線はオレンジ色の液体がなみなみ注がれたグラスへと向いていた。だが、それだけだ。膝の上に置かれた小さな手は、ぎゅっと握りしめられたままで、彫像のように硬直している。


 先ほどの様子も考えると、許可されるまで行動に移さないのではないか。


 そうするように躾けられているのではないか。


「飲んでいいよ」


 詩織が言うと、小さな返事が返ってくる。ヒミはグラスを両手で持って、ちびちびと飲み始めるのだった。


 ――やっぱり。


 予想が的中してしまったことに、詩織は頭を抱えてしまう。援助交際少女というよりは、家出少女といった方が正しいのかも。いや、前者は未然に終わったというだけで、ほかに一ドル硬貨を持っている人がいたら、ついて行っていたのかもしれない。そう考えると、詩織の背中にじっとりとした汗が浮かんでくるのだった。


「知らない人について行ったらダメだよ」


「どうしてですか」


「そりゃあ、何をされるかわからないじゃない。私が悪い男の人だったらどうなっていたことやら」


「どうなっていたのですか?」


「…………」


 わからないのか、純真無垢なふりをしているのか。どちらにしても、詩織は唖然としてしまった。


 襲われていたかもしれない――なんて口にしたところで、とぼけられるか、詳細を尋ねられるだけだろう。聞かれたって、ニュースでわかること以上のことは知らないのだから、説明のしようもなかった。


 だから、危なかった、と詩織はそれだけにとどめて、話を変えることにした。


「その銀色の一ドル硬貨を探している理由って教えてくれるかな」


 ヒミからの返事はなかった。答えるつもりはないらしい。


 先ほどと同じように、一ドル支払ったことを盾に、詩織は質問を繰り返す。途端に、端正なヒミの眉間にしわが寄った。口にはしなかったが、いい気分ではないらしい。


「い、言いたくないんなら無理にっては言わないけど……。なんていうかちょっと気になっちゃうな」


 慌てて言葉を付け加えた詩織は、相手の様子を窺う。血の気の薄い真っ白な頬がわずかに膨らんでいるような気がして、胸がドキドキと痛んだ。どうして年下相手なのにこんなに緊張しているのだろうと、詩織もわからなかった。


 無言で空を睨みつけるように考えこんでいたヒミが口を開いたのは、少ししてのこと。


「銀でできた一ドル硬貨を探している」


「銀でできた……?」


「そう。百年前からご先祖様が代々受け継いできた幸運の硬貨なんだって、言ってた」


 百年前から受け継がれてきたならば、その硬貨は、それよりも前に製造されていたということになる。


 そこまで考えた詩織は、力の抜けた笑い声を漏らした。


 少女が幸運の硬貨につられて、魔の手に引っかかる可能性はほとんどなかったのだ。一ドル硬貨そのものがほとんどないっていうのに、アンティークものの銀貨が日本にあるはずがなかった。


「どうして笑っている」


「ご、ごめん。ちょっとホッとして」


 首を傾げるヒミに浮かぶ疑念から逃れるように、詩織はオレンジジュースに口をつける。


 濃縮還元された液体はかなり酸っぱい。キュッと顔がしぼんでしまう詩織とは対照的に、ヒミは無表情で飲んでいる。視線を向けると、おいしい、という返答。確かにおいしかったが酸味に強いのだろうか。


 なんだか、機械みたいだ。


 目の前の少女の行く末が、詩織は無性に心配になってきた。マシンのような受け答えをする人に近寄るのは、ヒミの外見と扱いやすそうな性格を利用しようとするような、やましい考えを持った人だけで、いつそいつらの餌食となってしまうのかわかったものではない。……向こうからすれば迷惑千万なのかもしれなかったが。


 ――そういうの余計なお世話っていうんだよ。


 声が、詩織の頭の中で響いた。


 好きな人の声。


 詩織のことを愛していた人の声。


 この部屋で寝食を共にしていた女性がつい先日発した言葉が、一時忘れられていた心の傷を深々とえぐっていく。


 女性の、我関せずといった雰囲気は、目の前にいる少女と似ている部分があった。


 心臓がどきどきする理由が分かったような気がした。


 私は、この子に好きな人の面影を重ねている――?。


 目の前が暗くなったように感じられた。口の中を占めていた酸味も今では味気ないものになり果ててしまった。


 ヒミに、過去の女性の像を押し付けてしまっている。それが、何よりも詩織を愕然とさせた。


 これでは、自分こそが悪い人間代表ではないか。


「どうかしたの」


 ヒミの声で、詩織は我に返った。うなだれてしまっていた顔を上げると、まっすぐな視線を受ける。


 こっちを見ないでほしい。


 なんでもない。そう言おうとして、言葉が喉元でつっかえた。なんでもない。その言葉を胸の中で何度も繰り返す。


「何でもないようには見えない」


「大丈夫、だから」


 狭くなった視界の中で、ヒミのジュースが少なくなっているのに気が付いた。弾かれるように立ち上がった詩織は、冷蔵庫へジュースを取りに行く。


 冷蔵庫の扉を開けたところで、ため息をつく。


 胸はひっきりなしに痛み続けていた。苦しくも――なぜか心地いい。別れたばかりの恋人に似た少女へ対する歪んだ好意と、それを認識して嫌悪する気持ち。二律背反の感情に、詩織は板挟みとなっていた。


 またしてもため息が漏れる。


「こんなことなら、少女を家へと上げなければよかった」


 出会わなければ、こんな気持ちを味わうこともなかったのに。


 ため息が泉のように次から次へと溢れて、きりがない。そういえば、自分はジュースを継ぎ足すためにやってきたのだ。――詩織は、グラスを持ってくるのを忘れてしまっていたことに気が付いた。


 とはいえ、取りに戻るのは少々恥ずかしい。ペットボトルを取り出して、冷蔵庫の扉を閉める。


 テーブルへと戻ると、少女の視線が一点へと向けられていた。


 収納棚の上に置かれていたそれは、写真立て。そこに飾られていたのは、詩織と、彼女と付き合っていた女性が抱き合うような格好を切り取った写真だ。そこから窺い知れるのは、二人が同性の友人というものを超えた距離感の仲であるということ。


 女性が、少女と似た雰囲気であること。


 詩織の顔が赤くなり、すぐに青くなる。どうして隠しておかなかったんだろう。数分前の自分へと呪詛を放つ詩織の目の前で、少女が詩織の方へと向きなおる。


「あれはどなたですか」


「……私の彼女だった人」


「あなたは女性です」


「そういう愛もあるの」


「そうなんだ」


 少女は突っ込んだ質問をしてこなかった。


 むしろ、そっちの方が心苦しかった。いっそ聞いてくれた方がどれほどよかったか。


 詩織は顔を俯かせ、手の中のペットボトルを強く握りしめる。ぴきぴきとペットボトルが悲鳴を上げた。


 ばくんばくんと胸の鼓動の音がうるさく感じられるのは、部屋がしんと静まり返っているからなのか。


 かすかな音でさえも爆音のように響いてしまうような静寂の幕が下りた部屋に、ヒミの声が響く。


「あの方は、あなたにとって大切な人なのでしょうか」


 詩織は顔を上げて、ヒミを見た。質問の意味が分からなかったし、質問を飲み込むことができるようになるまで少しの時間が必要だった。


「大切な人だよ。少なくとも……私は今でもそう思ってる」


「相手はそう思っていない?」


「……今はそう思ってないのかな」


 この前のことが、詩織の頭をよぎる。


 それは、付き合い始めて一年が経過してすぐのことだったから、はっきりと覚えている。


 別れを切り出してきたのは、向こうの方だった。


 突然のことで、恋人だった人が何を話したのかは、もやがかかったようにぼんやりとしていて、ようとして知れない。だが、別れを切り出されたことははっきりと覚えていた。


 ――わたしには、あなたの愛は重過ぎる。


 耳から入ったその言葉は、詩織の胸へと楔のように打ち込まれて、ずっと痛み続けていた。つい先ほどまで、少女と出会い戸惑っていたことでしばしの間忘れていただけなのだ。


 一度思い出すと、連鎖的に思い出していく。思い出したくない記憶がからだ中を駆け巡って、口の中に苦々しいものが浮かんだ。彼女への想いが熱を伴いせりあがってきて、詩織の体を焦がしていく。


 だが、先ほどの言葉が、熱せられた詩織に冷や水を浴びせる。


 こんな調子だから、嫌われてしまったんだ。


 詩織はがっくりと肩を落とす。付き合っていた女性に対する想いも、そんな彼女に似ているヒミに対する想いも、なにもかもがどうでもよかった。


 深い悲しみが詩織を覆って、何も考えられなかった。


 気が付くと、隣にヒミがいた。


 いつの間に立ち上がって、いつの間に隣までやってきたのかわからない。窓から入り込んできた隙間風が、体にまとわりつくように音もない動き。気が付いた詩織は、緩慢に顔を上げる。驚く気力も失っていたのだ。


「ワタシはその人に似てる?」


 質問が頭に響く。その質問の意図を理解するより前に、詩織は首肯していた。


 間をおいて、ヒミの手が詩織の頬へとあてがわれる。その雪のように真っ白な手は、ひどく冷たかった。


 感情があるのかわからない透明な瞳が近づいてくる。――瞳だけではなく、顔が近づいていた。


 唇と唇が触れる。


 あまりにも唐突で柔らかな接触に、キスされたということにまったく気が付かなかった。


 自らの視界いっぱいに広がった顔。その視線を下へと向けてようやく、キスされていることに詩織は気が付いたのだ。


 悲しみにマヒしていた脳が、その行為を認識する。


 優しい熱が、唇から感じる。これまで感じたことのない感情は、一瞬しか味わうことができなかった。


 唇を割って侵入してくる異物。それはじっとりと湿った有機的なもの。ヒミの真っ赤な舌が、詩織の口内へと入り込み、蹂躙していく。歯の裏をなぞり、困惑する詩織の舌を見つけるなり、宿り木を見つけたツタのように己の舌を絡ませてくる。


 浮かんでいたほのかな感情を、烈火のような快感が塗りつぶしていく。


 あまりにも激しいキスは、自分と同じ年であった恋人でもしなかったようなもの。そこには愛というよりは、快楽だけが存在していた。


 目を見開くと、ヒミは、無表情であった。


 それは、どこか業務的なものをひしひしと感じさせる。相手を気持ちよくさせるための、一方通行的な奉仕の感情。それを叶えるための技術は年端もいかない少女が持っているにしてはあまりに不釣り合いなもの。


 それがなんだか不気味であり、気持ち悪い。


 ぐらんぐらんと詩織の体が揺れる。理性は嫌悪感を抱いてはいたが、本能の方は、快楽に身をゆだねて気持ちよくなろうとしているかのようであった。


 不意に、ヒミの舌が離れていく。唇が離れて行く。


 あっという残念そうな声が、無意識に出て行って、詩織は恥ずかしくなった。気が付けば、荒い息遣いになっていて、体は熱っぽい。


「どこでそんな技術を……」


「生きていくためには必要だった」


「…………」


 言うべきことは何もなかった。


 ヒミの事情はわからないし、大学をやっとのことで卒業して、ツアー会社でなあなあに働いている自分にはおおよそ理解できないことだろう。――詩織はそう考えていた。


 生きていくために、何でもしたんだろう。それを否定するつもりはなかったし、できなかった。


 だからって。


 詩織の体は、考えるのよりも先に動いていた。


 両腕を開き、ヒミの小さな体をぎゅっと抱きしめる。抱きしめたその体は氷雨に打たれたあとのように冷たい。一瞬、詩織は驚いたが、なおのこと力を込めた。


 抱きしめられたヒミの瞳が、戸惑いに小さく揺れる。


「いきなりどうしたのですか」


「そんなことしないで」


「わたしはただ、あなたを気持ちよくさせようとしただけです」


「そんなことしなくていい!」


 大声に共鳴したかのように、ヒミの体が大きく震えた。


「わたしが、あなたの恋人に似ているからですか」


「それもあるかもしれない。でも……違う。なんとなく、嫌なの」


 先ほどの嫌悪感の正体が何なのかは、詩織にもわからない。だが、嫌いな人へと向けられるものとは違った。むしろ、好ましい感情を抱いている相手だからこそ、感じているような。


 彼女だった女性へと向けていた感情とは違うベクトルのもの。それは、身を焦がすほどの勢いを持っているわけではなく、その反対。


 それはまるで、両親から向けられていた慈しむようなそれと似ていた。


 腕に包み込まれていたヒミは、身動きをしなかった。無言で、詩織を見つめる。


「あなたは他の人とは違う」


 不意に少女が言った。


 その声には、感情が多分に含まれていた。――少なくとも、出会った時よりはずっと。


 体重が、詩織側へと倒れてくる。押し倒されると詩織は思ったが、それほど強くはない。自然な体重移動で、詩織に寄りかかってきた。


 胸に頭を乗せたような恰好となったヒミが、顔を上げる。その表情には、言葉と同じように、わずかながらの感情が現れていた。冬山の雪が解け始めたようなそんな表情は、詩織の心をときめかせた。


「うんいいよ」


 ヒミが目を閉じる。


 その頭を詩織が撫でると、ヒミが小さな寝息を立てるのだった。



 その日から、ヒミとの共同生活が始まった。


「本当にいいの?」


 疑問符とともに、ヒミがそう訊ねてくる。詩織は笑みを浮かべる。


「別にいいよ。ちょっと前までは二人で生活してたんだし。というか、そっちは気にしないの?」


 自分なんかは嫉妬深いから、前の住人のものがいくつか残っているのが耐えられない。なんて詩織は思うのだが、ヒミはそうでもないらしく、ゆるゆると首を振った。


「何も気にすることはない」


「そうなんだ。ものとかは自由に使っていいから。必要なものも言ってくれたら用意するし。あっごめん」


 詩織は小さく謝る。そこまで世話をする必要はない。別に恋人というわけではなく、相手は単なる同居人で、つまりは他人。


 そんなだから、あの人に重いって言われちゃったんだ。


 自嘲気味に、詩織は笑う。まだ、心の傷は痛んだが、前よりかはずっとマシだった。これから、軽くなっていけばいいだけだ。


 目の前にはヒミの頭があった。艶やかな黒髪は、自分にはない瑞々しさに満ちている。


「あなたも十分若い」


「二十台と十代じゃあ全然違うって」


「そうなのですか」


「そ。こればっかりは経験してみないとわからないかもね」


 十代後半なんて、世界中を旅していたものだ。世界中にはいくつもの危険があるというのに。しかも、危険な目に遭ったことだってないわけではない。だが、それでも、旅を続けていたのは十代の無鉄砲さがあったからこそできたこと。今なら絶対できない。


 詩織は、手に持っていたブラシを、緑髪へと通す。しなやかで癖のない髪にブラシはすっと入る。すく必要なんてないかのように、髪はまっすぐだ。


「すごくきれい」


「……照れる」


 そのように感情を露わにしてくれることが、なんだか嬉しい。独占欲とは違う、庇護欲のようなものが、胸の内から湧き上がってくる。


 ぎゅっと抱きしめると、ヒミが身を預ける。


 しばらくの間、ヒミは何も言わずに、なすがままになっていた。


「一ドル硬貨を持っているのは、お母さん」


 突然の言葉に、詩織はヒミのことを見た。窓の向こうの空を見ているヒミはどこか遠い目をしていた。そんな彼女を見ているだけで、胸がつかえてくる。


「お母さんを探すために、銀でできた硬貨を」


「はい。あれしかお母さんの手がかりを知らないから」


「お父さんは何も知らないの……?」


「もうすでに亡くなっている」


 詩織の手から、ブラシが零れ落ちた。


「…………そうなんだ」


 ごめんねとも言えず、詩織はヒミの肩を抱く。ヒミの顔には疑問符が浮かんでいたが、抱かれるままとなっていた。


 どのくらいそうしていただろうか。


「よしっ決めた」


「……?」


「私も手伝うよ。ヒミちゃんのお母さん探し」


「どうして手伝ってくれるの」


「そりゃあ、女の子が困ってるんだもの、放ってなんかいられないって。それに、一緒に住んでるんだから、今更でしょう」


「あなたにメリットがない」


「こういうのは損とか得とかじゃないの。やりたいからやってるだけ。お金はいらないよ」


「……意味が分からない」


「わからなくてもいいよ」


 落としてしまったブラシを取って、再びブラッシングを始める。


 鼻歌を交えながら、詩織はブラッシングを続ける。そんな彼女に髪を梳かれながら、ヒミは詩織の言葉の意味を考え込んでいる。


 ふと、ヒミがポケットからコインを取り出した。


 二人が出会った日に、詩織が手渡して、これではないとヒミが放り投げたもの。


 それは、一緒に住むことが決まった日に、折角だからと詩織がプレゼントしたのだ。


 コインをもてあそぶヒミは、どこか幸せそうである。

 

 親指に跳ね上げられた硬貨は、窓から差し込める柔らかな光を反射して、きらきらと金色に輝いた。

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女と少女と幸運の硬貨と 藤原くう @erevestakiba

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