インフル

あべせい

インフル



「お母さん、ヨッちゃんがきょう、風邪で学校を休むンだって」

 岩角家の台所と階段の角で、小学4年の次女・春奈が、電話機の送話口を手で押さえて母親の可奈実に話している。

「先生に言ってくれって」

 こどもの弁当作りに忙しい可奈実は、「わかった」という風に頷くだけだ。

 2階から、中学1年の長女・秋菜が降りてきて、食卓で弁当箱におかずを詰めている母親にしなだれかかる。

「お母さん。頭が痛いの」

「どうしたの? 秋菜」

 可奈実は手を休め、秋菜の額に手を当てる。

「少し、熱があるわね。お父さんのがうつったのかしら……」

 電話を切った春奈が食卓に腰掛け、食卓のトーストをかじる。

「お姉ちゃん、おととい、ヨッちゃんちに寄ってきたでしょう。そのとき、うつされたンよ、きっと」

「春奈、なんでそんなこと知ってンのよ」

 秋菜は、母親の体から離れると、とんでもないところを見られていたといわんばかりに、妹を見つめる。

「きのう、ヨッちゃんに聞いたもン」

「春奈、あとで2階に来なさいッ」

 姉の厳しい表情に、春奈はそっぽを向いて、

「わたし、これから学校よ」

 可奈実がようやく異常な空気を察して、

「どうしたの、秋菜。なにか、あったの?」

「ウウん。なんでもない。おととい、ヨッちゃんちの車を見に行っただけ」

「井丸さんのところは、新車を買ったって言ってたもンね。どう、どんな車だった?」

 車好きの可奈実はようやく娘たちの会話に関心をもち、話しかけた。しかし、秋菜はこの会話を早く切り上げたくて、

「お母さん、わたし学校、休んでいい?」

「そうね。インフルエンザだったらたいへんだものね。きょう、病院に行こうか」

「うん」

 秋菜は素直に頷くが、心の中ではうまくいったとほくそ笑んでいる。

「あとで学校に電話しておくから、あなたはベッドに入って休んでいなさい」

「はーい」

 秋菜は階段を昇って2階へ。

「お姉ちゃんがインフルだったら、わたしにうつっているかも……」

 春奈は慌てて口を閉じ、口を手で覆った。

「春奈、マスクを持っているでしょ。すぐに付けなさい」

 2階から夫の純也がマスクを付けて降りてくると、食卓の椅子にどっかりと腰を落とす。

「おはよう、みんな」

 可奈実と春奈はそろって、「おはよう」と返すが、可奈実はろくに純也の顔を見ていない。

 純也は食卓のトーストとコーヒーで食事をしながら、

「秋菜が風邪らしいな。2階で会ったら、学校を休むって言っていた」

「あなたはどうなの?」

「おれもきょうは無理だ。携帯でさっき、会社に電話を入れたよ」

「そうね。昨日、帰ってきたとき、あんなに苦しんでいたもの。熱は?」

「帰る途中に寄った医者の薬が効いたらしくて、少し下がったようだ」

「そう……」

 春奈が可奈実のつくった弁当を鞄に入れながら、

「お父さんは、どこでインフルをもらってきたの?」

「おれか?」

 純也は、天井を見て思い出しているようすだったが、

「よくわからないンだ。会社ではドアの出入口に消毒液があって、その都度手を殺菌している。あとは通勤電車の中だろうが、思い当たるようなことはなかった気がしている」

 可奈実が、決めつけるように、

「あなた、最近帰りが遅いでしょ。どこかの飲み屋のオバさんから、もらったンじゃないの。おネエちゃんかも……」

「いやなことを言うなよ。春奈がいるだろ」

 純也は顔をしかめる。

「行ってきま~す」

 春奈は、気まずい空気を感じ取って立ちあがり、玄関へ。可奈実があとを追って送り出す。

 可奈実が戻ってくると、純也が待っていたかのように立ちあがると、可奈実に近寄り引き寄せる。

「なにするの! インフルがうつるでしょ」

 険しい顔で遠のいた。

「おまえ、最近冷たいな。結婚して13年、上の娘はことしから中学だ。女って、そんなものなのか」

「どういうこと?」

「こどもが大きくなればなるほど、亭主を邪険にする。会社の同僚が言っていた」

「あなた、病気なンでしょ。大人しく寝ていたら」

「男は、熱っぽくなると、昂奮する動物なンだ」

 可奈実は心底、けがらわしいと感じるのか、

「イヤらしい。あっち行ってよ!」

 純也はコーヒーを飲み終えてつぶやく。

「だから、亭主は遅くなりたくなるンだ」

 可奈実は鋭く、

「何か言った!」

「いや、なんでもない。横になってくる」

 可奈実は階段に向かう夫に、

「スナックの智美(さとみ)ちゃんから、電話があったわよ」

 純也がギクッとして立ち止まる。ゆっくり、可奈実を振り返ると、苦笑いして恐る恐る、

「支払いはすませているはずだけど……」

「ウソよ。なに、びっくりしてンの!」

「おまえ、智美ちゃんの名前、なんで知っているンだ」

「スナックの名刺くらい、しっかり捨てときなさい。Yシャツのポケットに入っていたわ」

「あ、あれは、向こうが勝手に入れたンだ。ごめん」

「やくほど亭主もてもせず、って言うけど、わたしはやきもちで言ってるンじゃないわよ。ヘンな病気をもらって来たら、わたしと娘たちが困るの」

 純也、キッとなって、可奈実をにらむ。

「ヘンな病気って、インフルくらいだろうが」

「あなたは、酔っ払うとだらしがないから。どこで、何をもらってくるか。知れたものじゃない」

「そういう言い方はないだろう!」

「大きな声を出さないで。上で秋菜が寝ているのよ」

 純也は観念したようすで、

「おれは病人なンだから、少しは労わってくれよ」

 と言い、階段を昇って行く。

 可奈実が、その純也の背中に、

「そういうことは、智美ちゃんに言ったら……」

 そう言ったあと、心の中で、浮気していても仕方ないか。でも、スナックの女って、そんなにイイ女なの? いいえ、イイ女のわけないでしょうよ。


 1時間後。

 岩角家の玄関ドアが、音もなく静かに開く。

 ロックを外した気配がない。エプロンを付けた30代半ばの主婦が、そのドアから中に入った。後ろ手に、B4サイズのプラケースを持っている。

 ささやくような声で、

「ごめんください」

 2階からパジャマ姿の純也が駆け下りてくる。

「希美代さん、ありがとう。本当に来ていただけるなんて。カギをかけずに待っていたかいがあった……」

「どうされたンですか。ご病気です、って?」

「医者の薬を飲んでも、ちっとも効かなくて。希美代さんの顔を見たら、よくなるンじゃないかと……」

 純也はそう言って、玄関框から、沓脱ぎにいる希美代を上から抱き寄せる。

 希美代は身を任せたまま、

「純也さん、わたし、こんなことをするために来たンじゃありません。電話で、死にそうだ、っておっしゃるものだから……」

「しゃべらないで……このままじっとしていてください」

 数分後、純也は希美代を抱き寄せたまま、キスを迫る。

「やめて。ダメッ。純也さん!」

 力強く腕で押し返し、純也から逃れる。

「わたしたち、二人きりではまだ2度しか会っていないンです。しかも、一度目は、偶然、駅前の大通りで。一緒にコーヒーを飲んだだけです。2度目はお酒を飲みましたが、別れ際に、そっと抱擁を交わしただけです。唇はダメです」

「すいません。ご近所どうしで、ぼくもこんな関係になるとは思ってもみなかった。でも、きょうは無性にあなたに会いたくなった」

 希美代はつらそうに、

「そんなことはおっしゃらないで……」

 純也が、ハッとして、

「希美代さん、二人きりで会ったのは、もう一度あります」

「エッ」

「おとといの夜。ご主人が出張なさっていて、新車が届いて、シートの操作方法がわからないと携帯でおっしゃったから、ぼくが暗くなってから、お邪魔しました」

「あのときは、すいません。反省しています……」

「いいンです。反省なんて、ぼくはうれしかった。あなたの家の駐車場は表通りからは見えない位置にあるから、車のなかで2人きりになると……」

「芳未が風邪気味で、静かにベッドで寝ていました。わたしはインフルが治ったはずだったのに、まだ熱っぽくて、妙な気分になっていたンです」

「数分の間でしたが、ぼくは満足だった……」

 そのときいきなり外で話し声がしたかと思うと、サッとドアが開いた。希美代の動きはすばやい。

「お母さん、やっぱり、カギはかかっていなかったじゃない」

 秋菜だ。

「出かけるときは、間違いなく、掛けたわよ」

 可奈実が秋菜の後ろから現れ、希美代を見つける。

「あッ、井丸さんの奥さん」

 希美代は、なんでもない風に落ち着いて振り返り、可奈実と対峙する。

「ごめんなさい。お留守だとは思わなくて……」

 可奈実はそれでも希美代を疑わしそうに見つめながら、秋菜と一緒に玄関框にあがる。

 純也は棒立ちだ。希美代は、プラケースを胸の前に持ち直して、

「町内会費の集金におうかがいしたンです。インターホンを押したら、ご主人からご返事をいただけたものですから……」

 可奈実は純也をにらみつける。

「あなた、寝ていないとダメでしょ。このひと、インフルなンです」

 希美代はハッとしたようすで、

「それはすいません。知らなかったものですから。では、わたしはこれで……」

 踝を返し、帰ろうとする。

「奥さん、待って」

 可奈実が呼びとめる。

「インフルといえば、奥さんもこの間までインフルでしたわね。下の娘から聞いたンですが……」

 可奈実は何かを考えている。

 希美代は、そうだという表情で、

「うちの主人から、うつされたンです。主人は予防接種もしていなかったものですから、症状がひどくて。わたし、主人の看病疲れで抵抗力が落ちていたみたい……」

 純也が割ってはいる。

「奥さんは、お忙しいンだ。それくらいに……」

「では、失礼して……」

 希美代は再び、ドアの外に出ようとするが、

「奥さん、町内会費、いいンですか?」

 希美代、恥ずかしそうに振り返り、プラケースを開ける。

「そうでした。わたしって、ダメですね。1年分、2400円お願いします」

 可奈実が下を向いてバッグから財布を取り出す。

 その一瞬、純也と希美代が熱い視線を交す。

 母の後ろから大人たちを観察していた秋菜は、その瞬間の父と希美代の表情を見逃さなかった。

 秋菜は思い出す。一昨日、純也が希美代と車のなかにいた夜の光景を。部活で遅くなって、ヨッちゃんちの前を通ると、駐車場のほうから、弱い光が漏れていて、不思議に思って近付いたのだ。

 父と希美代は親しげに話しているだけだったが、父はこれまで家族の前では見せたことがないような笑顔を浮かべていた。そのとき、ヨッちゃんが2階の窓から、秋菜を目撃したのだろう。もちろん、2階の窓からは車のなかのようすは見えない。


 日曜日。

 赤塚児童公園の片隅にあるベンチで2人の少女がおしゃべりをしている。

 岩角家と井丸家のちょうど中ほどに位置する公園だ。井丸家の一人娘・芳未が、春奈と一緒に旅の情報誌を見ている。

「そんなに早く決めたンだ」

 春奈が不思議そうに尋ねる。

「パパの話だと、そうしないと宿がとれないンだって」

 芳未が訳知り顔で答える。

「うちなンか、2ヵ月以上も前に旅行先を決めるなんて考えられない」

「ハルちゃんとこは4人家族だもの、うちより1人多いから、たいへんよ。でも、ことしはママがあまり乗り気じゃないみたい」

「でも、箱根の温泉でしょう?」

「そうだけど……」

「女のひとは、ふつう喜ぶのにね」

「ハルちゃんちは、熱海か湯河原がいいと思うわ」

「どうして?」

「だって、去年は、うちが鬼怒川温泉に行ったら、ハルちゃんとこは川治温泉だったでしょ」

「それがどうかしたの?」

「ママに聞いたンだけど、鬼怒川温泉と川治温泉って、車で30分ほどしか離れていないンだって」

「ヘーエ、去年の大型連休のとき、ヨッちゃんちはそんなに近くにいたンだ。知らなかった。でも、それって偶然でしょう?」

「旅行から帰ったあと、ママが地図を見ながらパパに聞いていたわ。こんな風に……

『岩角さんのご家族は、川治温泉にいらっしたンですって』

『岩角って?』

『同じご町内でしょ。ことし、町内会の役員をしていらっしゃる。うちから、駅に向かって、3分ほどのお宅』

『そうか。その岩角さんが、川治温泉に泊まっていたのか。しかし、たまたまだろう。5月の連休は、早く予約しないと、宿がとれるところは、そんなにないからな』

『あなたは、2月の末に決めたわね。それも3ヶ所。あとの2つは真際になってキャンセルしたみたいだけど……』

 そんなパパとママの話を聞いてから、わたしはママに、聞きそびれたことを尋ねたの。そうしたら、『パパの話だと鬼怒川以外の旅館をキャンセルしたのは、旅行の2週間前だった』って」

「そうだったの……」

 春奈は、なぜかはよくわからないが、大人の秘密に触れたような気がした。

「去年、うちが川治温泉にしたのは、お母さんがおともだちから、キャンセルの出た宿があるって聞いてきて、それをお父さんに教えてお父さんがネットで予約したンだって」

「そういうことなの……」

 芳未は、あることを考えている。春奈は、雑誌のページを繰りながら話す。

「ヨッちゃん、それでことしの大型連休は、箱根の温泉なのね。この雑誌を見ると、箱根にはいろいろ温泉があるみたい。こんなにあったら、なかなか決められなかったでしょ」

「そうでもないみたい」

 芳未がそう答えたとき、秋菜が深刻そうな顔付きでやってきた。

「お姉ちゃん」

 春奈が気がつき、体をずらしてベンチを空ける。

 秋菜は芳未と春奈の間に腰掛けた。

「どうしたの? アキちゃん」

 芳未が心配そうに尋ねる。

「お父さんがまたインフルになっちゃった……」

「お姉ちゃん、どうして?」

「頭痛がするからって、日曜診療している医院を探して診てもらったら、そうだって。いま帰ってきて、2階で寝ているわ」

 芳未が、不思議そうな顔をする。

「アキちゃんのパパって、2週間前にインフルが治ったンだったわね。また、なの?」

 秋菜は芳未を見て、

「ウイルスの型が違うンだって。型が違えば、何度でもかかるみたい。軽くすむらしいけど……」

「だったら、そんなに心配することないでしょ。薬を飲んで寝ていればいいンだから……」

 芳未はそう言ってから、ハッとする。

「うちのママも、4日前に、インフルになって。きょうはもう元気になっているけど……」

「ヨッちゃんがうつしたンじゃないの」

 春奈が言った。

「それは前の話。うちは最初にパパが会社でもらってきて、ママにうつって、それがわたしにうつった。わたしは先週治ったけれど、わたしが治ってから、ママがこんどのインフルになるまで、1週間以上のブランクがあったから、ママはどこかほかでインフルのウイルスをもらってきたことになる」

「それって、潜伏期間っていうンじゃないの」

 秋菜が言い添えた。しかし、芳未は否定的だ。

「でも、潜伏期間が1週間というのは長すぎない? ママはいま町内会費の集金で、町内の家をあちこち回っているから……」

 春奈がわかったような顔をして話す。

「そっか。どこかの集金先でもらったのかも?」

 秋菜が反論する。

「春奈、いい? インフルエンザって、ウイルスだから、そばに行けばうつるンだけれど、集金するくらいの短時間なら、マスクを付けていれば感染はしないらしいわ」

 芳未は不審げに、

「ママは、どこかの集金先で長く時間がかかった、ってこと?」

 秋菜が頷きながら、

「かもね。ヨッちゃんのママは美人だから。男の人が相手だと引きとめられるのかも」

 と言うが、依然として表情は冴えない。

 芳未が尋ねる。

「アキちゃん、ほかにまだ心配なことがあるの?」

「お父さんとお母さんがケンカしているの」

「お姉ちゃん、お父さんは、インフルなンでしょ」

「春奈、そうよ。あんたが出かけてから、お父さんが起きてきて、連休の宿探しでお母さんが注文つけたら、お父さんが反対して、しばらくたって、お父さんが、『おまえと話していたら、熱が出て来た』と言って。お母さんはバカにされていると思って相手にしなかったのだけれど、本当らしくて、お父さんは医者に行ったわけ」

 芳未が尋ねる。

「宿探しって、どことどこ?」

「お母さんは小田原、お父さんは、御殿場がいいって」

 春奈が雑誌のページをめくって話す。

「ことしは、温泉じゃないのか。御殿場なら、いろいろ遊ぶところがあるから、いいか。この雑誌に、いろいろ遊べるところが描いてあるわ」

 秋菜が、気がついた風に、

「ヨッちゃん、御殿場と小田原って、そんなに離れてないでしょ。その間に箱根がある……」

 芳未が頷いて、

「箱根はパパがことしの宿に決めた温泉地……」

「ヨッちゃん、ことしもうちはヨッちゃんちの近くに行きそうね。これって、偶然?」

 秋菜がそう言うと、芳未は、

「たまたまよ。でも、ちょっと見せて……」

 と言って、雑誌に掲載されている箱根周辺のマップに目をやった。

「でも、アキちゃん。連休まで1ヵ月もないから、小田原でも御殿場でも、いまから宿なんて見つかるわけがない。それが常識だけど……」

 秋菜はなるほどと頷いた。

「そうよね。じゃ、お父さんもお母さんもケンカしていてもしょうがないということか……」

「お姉ちゃん、ことしはどこにも行けないの?」

「でも、去年のことがあるから……」

 秋菜には、なぜか確信があった。


 小田原の観光旅館の一室。岩角家の一家4人が夕食をとっている。

 食卓には、地魚の刺し身の舟盛りを中心に、豪勢な料理が並んでいる。

「あなた、この旅館でよかったじゃない」

「しかし、2週間前に、よく宿がとれたな。おれもネットで懸命に探したが、御殿場は全部満室だった……」

「この小田原にいるおともだちが、こっそり紹介してくれたの。年に5回以上来てくださる常連客用の特別枠があるって……」

「そんな特別枠があるのか。初めて聞いた。来年、宿をとるときにも使えればいいなァ」

「まア、そんな話はいいじゃない。それより、食べましょう」

 可奈実がおいしそうな金目鯛の刺身を食べながら言う。

「お父さんの負け。わたしも小田原でよかった。このお刺身、おいしいもの」

 春奈がヒラメの刺し身を口に運びながら、可奈実に味方する。

「小田原は海が目の前だから、こんなにいっぱい新鮮なお魚が並ぶのよ。鯛に平目に、太刀魚、アオリイカ、鱚(きす)。どれも新鮮なものばかり。御殿場だったら、こんなお料理は絶対に期待できないわ」

「わかった、御殿場はこんどにしよう」

 純也のことばに、秋菜は不満らしい。

「でも、春奈。御殿場だったら、遊ぶところがたくさんあるのよ。サファリパークがあるし、わたしはアウトレットに行きたかった」

 すると母親の可奈実が、

「秋菜、アウトレットは明日お父さんが連れて行ってくれるわ。ねえ、あなた」

 純也はハッとしたようにつぶやく。

「そうか。その手があったか」

「どうしたの? あそこは広いから迷子にならないでよ」

 純也は可奈実の言い方に不審を覚えて、

「おまえ、一緒に行くンだろ?」

「さっきも言ったけれど、この宿を紹介してくれた高校時代のおともだち、ちょうどいい機会だから、明日会ってお礼をしてこようと思うの」

「それなら、ゆっくり会ってくればいい」

 純也は、優しい目で妻を見る。

「少しの間だけよ。午後には御殿場に行くから」

「足はどうするンだ?」

「そのひと、車で来るから、送ってもらう。それより、秋菜、お父さんがアウトレットで迷子にならないように、しっかり監視しているのよ」

「オイ、監視、って言い方はないだろう」

「そうよ、お母さん。おかしいの」

 春奈がおかしそうに笑った。

 すると秋菜がたしなめるように、

「春奈はまだこどもね。お父さんは誘惑に弱いの。きれいなひとが近くに寄ってきたら、すぐにデレデレして、理性がなくなるの」

「秋菜、父親に対して、そんな言い方はないだろう。証拠でもあるのか」

「証拠? 目撃証拠? どうかな……」

 秋菜は嘲るように笑い、口を閉じた。

「あなた、男のひとって、そういう誘惑が多いンだから、気を付けて、っていうこと、ねえ、秋菜?」

 可奈実が言った。

「うん。でも、お母さんだって、美人だから、男のひとには気を付けて」

 すると、春奈が思い出して、

「そうだ。去年、川治温泉に行ったときも、お母さん、1時間ほどいなくなったことがあった」

「そんなことがあったのか」

 純也が訝る。

「そんなこと、あったかしら?」

 可奈実はとぼけているのか、無関心を装う。

「ショッピングモールで買い物したときよ。お父さんが電気店でパソコン選びに夢中になっている間、わたしとお姉ちゃんはゲームセンターでUFOキャッチャーをやっていたンだけど、わたし、すぐに退屈になって、お姉ちゃんから離れてあちこち歩いたの。そうしたら……」

 純也と可奈実が思わず声を揃えて、

「そうしたら?……」

 秋菜が横から加わる。

「お母さんが喫茶室から出て来ただけ。そうでしょ、春奈」

「そうだった。でも、1時間も喫茶室に、長くない? ひとりで……」

 可奈実は、苦笑いして、

「そうそう、思い出したわ。あのときね。偶然、高校時代のおともだちに会ったンだったわ。話が盛りあがって。そうだった。いま思い出したわ」

「おまえには、都合のいいともだちがいっぱいいるンだ。羨ましいよ。それより、秋菜、その魚の天ぷら、食べないのか」

「エッ?」

 秋菜は、自分の前の、鱚の天ぷらに目をやる。

「これ? わたし、鱚の天ぷら、苦手なの」

 春奈も鱚の天ぷらに手をつけていない。

「お父さん、わたしのも食べていいわよ」

「そうか。それはありがたい」

 可奈実が目を輝かせて、

「あなた、それ、鱚の天ぷらでしょう? わたしも大好き」

「お母さんは、春奈の分を食べればいいわ。でも、お父さんもお母さんも、鱚だけにしておいて。それ以上はダメよ」

 純也と可奈実が、思わず、

「それ以上、って?」

 と言い、顔を見合わせた。

 春奈が、よくわからないままに、

「キスでしょ、天ぷらの。お姉ちゃん、そうでしょ……」

 すると、秋菜が、すました顔で、

「そうよ。春奈」

                  (了)





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インフル あべせい @abesei

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