第8話


 逃げ出したい気持ちを潰すように拳を握りしめて宣言する。言った勢いで動かなくては恐怖に足がすくんでしまいそうで、唇を引き結んで歩き出す。本心を言えば、もう二度と見たくない。だが、自分が見たと言ったからには、責任を取らなくては。


 深く吸った息を止め、もう一度、蔵の中を覗き込む。できるだけ、宮女を見ないようにしながら、中を見回し。



「い、いえ。もう黒い靄は見えません」



 告げた瞬間、張りつめていた気持ちが緩んで、その場にへたりこみそうになる。



「おいっ!?」



 よろめいた鈴花を支えてくれたのは、鈴花の後ろから覗き込んでいた珖璉だった。


 とすりとぶつかった拍子に、絹の衣に焚き染められていた香の薫りが揺蕩い、その爽やかさに、ほんの少しだけ心が軽くなる心地がする。



「も、申し訳──」



 あわてて身を離そうとした途端。


 不意に浮遊感に襲われたかと思うと、鈴花は珖璉に横抱きに抱き上げられていた。



「わたしが見せたからとはいえ、夜目にも白い顔をしているぞ」


「だ、大丈夫ですっ! 下ろしてくださいっ!」



 異性の、しかも見惚れるほどの美貌の珖璉に抱き上げられるなんて、心臓に悪すぎる。死体を見た衝撃さえ、吹っ飛んでしまいそうだ。


 さっきまで血の気が引いていた顔が、一瞬で熱を持っている。下ろしてもらおうと足をばたつかせて抵抗したが、珖璉は危なげない足取りで進むと、禎宇の前に立った。



「鈴花はお前に任せる。先に戻っていてよいぞ」


「だ、大丈夫ですから!」



 ようやく珖璉の腕が緩み、鈴花はわなから逃げ出すうさぎのように地面に降りる。そそくさと珖璉から距離をとろうとして。


 不意に、珖璉が手を伸ばしたかと思うと、くしゃりと頭を撫でられた。



「よく、見てくれた」


「……え?」



 何が起こったのかわからない。姉以外に頭を撫でられたことなんて──ましてや、ねぎらわれたことなんて、初めてで。


 あつにとられる鈴花をよそに、珖璉が兵達を振り返る。



「朔。まだ犯行からさほど時間は経っておらん。怪しい者や目撃者がいないか捜索せよ。警備兵達は死体を人目につかぬよう浣衣堂へ運べ。蔵の中の長持を使ってよい。わかっていると思うが、今夜のことは他言無用だ」



 珖璉の指示に朔が無言で一礼して瘦せた身体を翻し、兵達があわただしく動き出す。戸惑った声を上げたのは博青だ。



「あの、黒い靄というのは……?」



 泂淵が弟子にあっさりと暴露する。



「このコ、見気の瞳の持ち主なんだよ~。でも、鈴花が黒い靄を見たんなら……」



 らんらんと好奇心に目を輝かせた泂淵が、唇を吊り上げる。



「もしかしたら、この件、禁呪が絡んでるのかもしれないねぇ~」


「禁、呪……」



 不穏な響きにおうむ返しに呟いた鈴花に、「そーそー」と泂淵が軽い調子で頷く。



「禁呪っていうのは、本来の蟲招術から外れた外道の術さ。禁呪の中には、人の命をにえに使って、強力なじゆを練り上げるモノもあるからねぇ」



 ひようひようとした口調とは裏腹のとんでもない内容に、背筋が寒くなる。鈴花は思わず自分の身体に腕を回すと唇を嚙みしめた。


 旅芸人の物語では悪役として正義の術師に倒される禁呪使いだが、先ほど見た宮女の遺体が、これは物語ではなく現実なのだと、いやおうなしにつきつけてくる。



「禁呪か。なるほどな」



 珖璉が低く苦い声で呟く。



「単なる下衆というわけでなく、極めつけの下衆ということか」



 地をうような低い声に宿る苛烈な怒気に、鈴花は大きく身を震わせる。



「泂淵、どんな禁呪か見当はつくか?」


「えーっ、蚕家が禁呪の取り締まりをしてるとはいえ、さすがにそれは無茶振りだって! 黒い靄ってだけだよ? しかも、ワタシが直接見たワケじゃないしさぁ。禁呪にふれて術師の《気》がわかれば、《かんちゆう》で禁呪使いの居場所を追えるカモしれないけど……」


「感気蟲?」



 鈴花の呟きに、



「特定の《気》を覚えてその《気》に反応する蟲だ。だが、そもそも相手の《気》がわからねば、使いようがない」



 と珖璉が簡単に説明してくれる。どうやら、蟲招術も万能ではないらしい。



「まあ、禁呪が絡んでくるとなれば蚕家として放置はできないし、文献なんかも当たってみるけどさぁ。ねぇ、博青?」


「えっ!?」



 急に振られた博青が驚きの声を上げる。



「も、もちろん、わたしでできることでしたら、何なりといたしますが」


「泂淵。面倒な作業だからといって弟子に押しつけるな。お前も当主として働け!」



 厳しい声で泂淵を𠮟った珖璉が、博青に視線を向ける。



「禁呪が関わっているやもしれぬとわかったからには、お前も泂淵を助けて働いてもらう。が、今まで通り宮女殺しのことも、見気の瞳のことも、他言無用だ。それと、もし泂淵がさぼっていたら、遠慮なくわたしに言え」


「ちょっ!? ひどくない!? 言っとくけど、ワタシだって昇龍の儀の準備とかで忙しいんだよ!?」



 博青が答えるより早く、泂淵が唇をとがらせる。が、珖璉の返事はにべもない。



「ふだんは術の研究ばかりして、ろくに働いてないんだ。重要な儀式が控えている今くらい、しっかり働け」


「横暴~っ! 博青っ、珖璉ってばヒドくない!?」



 泂淵の問いかけに博青が苦笑いをこぼす。その顔には、「お願いですからわたしを巻き込まないでください」と太字で書かれていた。弟子が当てにならないと察した泂淵は、「禎宇だってそう思うだろ!?」と、今度は禎宇を振り返る。禎宇がにこやかに微笑んだ。



「従者であるわたしには、珖璉様の言葉を否定するなど、おそれ多くてとてもとても……。というわけで、泂淵様もどうかお力をお貸しくださいませ」


「泂淵。今夜は泊まっていけ。逃げようとしても無駄だからな」


「えぇ~っ!」



 泂淵が不満の声を上げるが、誰も慰める気配はない。


 にぎやかなやりとりにわずかに恐怖も薄らぐ気がして、鈴花はほっと息を吐き出した。

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