第44話 ずっとずっと
「レ、レイヴァン様。お帰りなさいませ」
マノンは最初動揺を見せたが、すぐに笑顔で私を迎える。一方、クリスタルは茫然と立っていてそれだけで胸が痛くなる。
「マノン、もう取り繕う必要はない。話はすべて聞かせてもらった」
「……すべて?」
私が隣の通訳者、ベンノに視線をやると、彼はクリスタルに一礼を取り、グランテーレ語で何かを言ったようだ。マノンの表情が変わった。
「ああ。すべてだ」
彼女は諦めたようで言い訳することはせず、視線を落とす。
「まさかそんな意図を持ってこの屋敷を入ったとはな。私は参謀の補佐官として君の父君を信頼していたんだが、どうやら彼の身辺調査が足りなかったようだ」
その言葉にマノンは顔を跳ね上げた。
「父は関係ありません! 私が独断でやったことです! 父に何の責任もありません! すべての責任は私にあります!」
「――はっ! 父に何の責任もない? それを君が言うか? 圧政を敷いた国王の娘というだけで、クリスタルに悪事を働いた君が? 親がしたことは親にだけ、子がしたことは子にだけに責任があると言うならば、君がしたことは一体何だと言うんだ」
「そ! それとこれとは」
自分の矛盾する言動に気付いた彼女は顔を強ばらせたが、それでもその瞳から憎しみの炎は消えていない。
「確かに私も最初は元敵国の王女として疑心の気持ちを抱いていた。だが、彼女の穏やかな人柄に触れて、元敵国の王女としてではなく、彼女個人を見るべきだと、彼女本人のことをもっと知りたいと思った。クリスタルの人柄は彼女の側にずっとついていた君が一番分かっていたはずじゃないのか」
「人柄が何だって言うんです! それに私のことをおっしゃるのならば、戦場に出たレイヴァン様だってこの屋敷の中で、あの国のことを一番分かっているはずでしょう! 国王の娘だって同罪じゃないですか! 民の苦しみを理解せず、民の血と汗と涙を吸い上げて自分たちだけは美味しい料理を無駄に用意し、清潔で温かい寝室で眠り、美しい衣を身にまとって享楽にふける。同類ではないと言うのなら、なぜ国王に苦言と是正を促さなかったと言うんですか! 知らなかったと言うなら、無知は罪です!」
血を吐くような心からの叫びは、グランテーレ国の民を代弁しているようなものかもしれない。
「ああ。確かに彼女は何も知らないだろう。自国民の苦しみも訴えも。グランテーレ国が領土拡大のために始めた戦争も。何一つ知らない。何一つ知らされることはなかった。何一つ知ることができなかった」
「え? どう、いう……」
「彼女は生まれた時から高い塔に幽閉されていたんだ。彼女の二色の瞳が、過去に反乱を起こした王族の者と同じ瞳を持つ人間として忌み嫌われて。唯一、塔を出て王宮内を歩いたのは、両親である国王と王妃に謁見したのは、今回の婚姻のためのみだっただろう。きっと彼女は祖国の香りを感じる時間すらなく出てきたに違いない。この婚姻はグランテーレ国王としては、体のいい追い払いだった」
マノンは恐ろしいものでも見たかのように目を見開き、青ざめた。
「そんな……だってクリスタル様は王女様で、民なんてどうでもよくて、贅沢を。――っ。だって。だって。じゃあ、それじゃあ、私がしたことは」
「そうだ。責任のない人間に自分の怒りをぶつけただけの理不尽な行為だ。自分の鬱憤を晴らしたいだけの身勝手な行為。確かに無知は罪だろう。しかし君の無知もまた罪だ」
彼女はもはや言葉はなく、ただその場に崩れた。
マノンが連れ出された後、ベンノが私の隣に座らせたクリスタルに説明してくれた。彼女はただ黙って静かにそれを受け入れるだけだ。彼がすべてを話し終えた後、私は口を開いた。
「私は君のことが知りたい。これまでどうやって生きてきたのか、教えてくれないか」
ベンノがそれを通訳すると、彼女は頷いて話し出した。
生まれてから一度も塔を出たことはなく、両親の顔を知らずに育ったこと。けれど内装はそれなりのものを保っていたこと。誕生日には何かしら贈られていたこと。礼義作法を教えてくれた心優しい乳母が病で去った後は、侍女が一人だけ側につき、その侍女も何人も変わったこと。自分の専属侍女に就くことは島流しと呼ばれ、侍女にいい扱いを受けなかったこと。料理はいつも食べかけのようなものが用意されていたこと。スープの量が少ないと言うと水を足されたこと。
きっと侍女が食べた残りだったのでしょうねと微笑む彼女が消え入りそうだ。
料理は残すのが作法だから食べ切るなと、少ない量の中でも取り上げられた。笑うなと言って、それだけの元気があるならばと食事を減らされた。怒るなと言って、冷静になれるようにと冬でも冷たいスープにされた。泣くなと言って、泣き顔はみっともないからと冷水をかけられた。寒い冬でも木材が勿体ないからと侍女が側にいるとき以外、火は焚かれず、湯浴みのための湯を運ぶのは面倒だからとほとんど湯浴みさせてもらえなかった。
グランテーレ国の冬は身が凍るような寒さだと言う。寒さに震える彼女を想像すると胸が詰まる。
「不平不満や改善を訴えるたびに状況はさらに悪化していきました。ついには笑いもせず、怒りもせず、悲しみもせず、不満も漏らさなくなったわたくしに、侍女は何を言っても何を要求しても問題ないのだと知ったのです。確かにわたくしと世界を繋ぐのは侍女だけだったのですから。自分の命を繋ぐのは侍女だけだったのですから」
気付けば周りからすすり泣きが聞こえる。
視線を流すと、いつの間にか扉口で集まっていた侍従らは背を向け、侍女らはハンカチで目を押さえている姿があった。中でも一番大粒の涙を流しているのがルディーだ。
「書物を望むと、侍女らは室内にある物を要求してきましたが、気が遠くなるほどの時間を過ごすためにわたくしは応じました。閉じられた世界を少しでも広げるために書物が必要だったからです。ここに来ることになって、わたくしは今度こそ文字ではない本当の世界を知ることができるのだと思いました。自分の明確な意思を伝えることができるのだと。けれど……結局はここでもやはりわたくしの世界は侍女だけでした」
クリスタルは一つ大きく深呼吸するとまた微笑む。
「ですからわたくしは大丈夫です。わたくしが傷つくことはありません。これがわたくしにとって自然な形なのですから。どこに行っても何をしても世界の入り口は侍女だけ。代わり映えない人生。ですが代わり映えないからこそ安心できるので――っ」
気付けば私は彼女を胸の中に収めていた。
「そうじゃない。そうじゃないだろう。君は自分の世界を変えたかったんじゃないのか。自分の意思を伝えたくて言葉を覚えようと頑張ったんじゃないのか。ここでなら変えられる。伝えられる。笑いたかったら笑えばいい。怒りたかったら怒ればいい。泣きたかったら泣けばいい。――もう感情を抑え込む必要ない」
震えるクリスタルを抱きしめていると、彼女はぽつりと呟いた。
「笑っても食事を減らしませんか」
「むしろ食事を増やそう」
「怒っても冷たいスープにしませんか」
「落ち着くように温かいスープを出そう」
「泣いても冷水をかけませんか」
「泣き顔を隠すためにこうやって抱きしめよう」
すべては通訳を介して伝えられた言葉だったが、たとえ通訳されなくても彼女の諦めたくないという思いと、変わりたいと望む心が伝わってくる。
「わ、たくしは……本当は。笑いたかったのです」
「ああ」
「怒りたかったのです」
「ああ」
「ずっとずっと泣きっ――泣き、たかったのです」
「ああ。世界の誰からも見えないよう君の泣き顔を守ってやる。だから思いっきり泣けばいい」
「――っ」
彼女は私に強く抱きつくと子供のように声を上げて泣いた。
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